破戒僧、目を覚ます
朝六時、秋の八王子の空はまだ眠っている。
俺の部屋の窓から見える高尾山は、雲の中に沈んでいて、まるで巨大な墓みたいだ。
コーヒーを淹れて、缶ビールの空き缶をどかしながら机に座る。
お坊さんの朝ってもっと清らかだと思ってる人、多いだろ?
──悪いけど、俺はそういう僧じゃない。
破戒僧・川幡穣。
昼は誰の葬式もあげず、夜だけ死んだ心を祓う。
八王子の夜風の中にいる“欲の残り香”を食う、裏稼業だ。
左手を見た。
薬指のリングがうっすら光っている。
“縛”の術は、昨夜使いすぎたせいでまだ反応が鈍い。
リングは左右の指全てにつけてある。
ひとつひとつに“契約”がある。
命を削って刻んだ、俺だけの御札だ。
右手のブレスレットは、記憶と視覚の制御。
「見せたいものだけ見せる」ってのが俺の流儀だ。
──つまり、坊主の皮を被ったペテン師。
冷めたコーヒーを一気に飲んで、ため息をつく。
テーブルの上のスマホが震えた。
通知はひとつ。
ロクちゃんからのメッセージ。
──「昨日来るって言ってなかったっけ?」
スクリーンの文字を見て、自然と笑みがこぼれた。
「……呪いのメッセージってやつだな、ロクちゃん」
ベルトにつけた鈴がかすかに鳴る。
──チリン。
八王子の夜が、また俺を呼んでいる。
朝八時。
カーテンの隙間から射す光が、俺の顔を遠慮なく焼いてくる。
「こちとら微ヴァンパイアのお坊さんだぞ、秋なのに照りすぎだろ」
頭が割れそうだ。
昨夜の酒が、まだ血の中で踊ってる。
「……アーメン……いや、ナンマイダー……うぇっぷ」
また布団から這い出し、足元の空き缶をどける。
テーブルの上には、線香とBluetoothスピーカー。
スマホの画面では音楽サブスクが「作業用お経リミックス」を流していた。
──僧侶の朝としては、最悪だ。
冷蔵庫を開けると、中身は麦茶と線香の束、あと冷やし中華。
「精進料理とは程遠いな」
自分で突っ込みを入れながら、冷やし中華をすする。
左手のリングが、淡く光った。
昨夜使いすぎた“縛”の痕が、まだ指に残っている。
誰よりも破戒してる俺が、誰かを祓う。この矛盾が、心地いい。
カーテンを開けると、八王子の空はどんよりしていた。
木々の向こうに、高尾山が見える。
「今日も“風”が鳴くかね」
呟いて、深呼吸する。
夜の匂いが、まだ残っていた。
───22時、夜も夜らしい顔を見せ始めた。
ここからが本当のお仕事だ。
イヤホンからは「作業用お経リミックス」が流れている。
EDM調、ロックバンド調、これくらいアレンジしてくれないと現代のお坊さんはしんどくてやってられないだろう。
八王子の夜は、昼より本音で喋る時間だ。
コンビニの前で、サラリーマンが地面に対して怒っていた。
イヤホンを外して聞いてみると、どうやら歳下に役職を追い越されたようだ。
その人の影が二つに割れているのがわかった。
「まぁた嫉ノ影天狗さんの類か…」
スカジャンの袖を捲る。
左手を上げる、薬指のリングを触る。
『縛』
影がピタリと止まり、形を歪める。
風が渦を巻いた。
“嫉妬”“怨嗟”“自己否定”──見慣れた臭いだ。
「誰もが笑っていられるワケじゃないっすもんねー」
左の薬指がジンジンと痛い。
使いすぎかな、でもこれ使わないと大事になっちゃうもんね。
左の人差し指をピンと伸ばしたタイミングだった。
また『縛』が解かれた。
「あちゃー、ちょっと修行が必要かな?」
最近の天狗は『縛』を易々と破る。
「はやく終わらせないと、ロクちゃん独占できないんです…けど!」
右のリング群、《五願輪》を使う。
親指にあるのは「奮」、士気上昇、身体能力一時的強化。集中力を上げるためにある。脳がクリアになって行く。
人差し指に「識」、真理を見抜く。
弱点を見破る。
中指に「護」、邪気を退ける。
一時的に防御結界を張り、精神汚染、呪気への耐性を強化。
薬指に「蘇」、癒しの術。
小さい傷の回復、対象を中心に温かい光が広がる。
小指に「誘」、魅了・誘導。
対象がこちらに向くように仕向ける。
いずれも同時に発動することができるが、かなり臓器を痛める。
契約だ、こればかりは仕方ない。
ここで使うべきは『識』と『誘』…、こっちを無視させないために使う。
リングに触り、対象の指同士をくっつけ、詠唱する。
『闇に在るもの、光に曝せ──』
くっきりと影が見えたところを、駆け寄って蹴りを入れる。
サラリーマンはしなしなと座り込み、次第に体の力が抜けたかのように地面に突っ伏した。
天狗の憑依は人を喰らう。
早く祓うに限る。
「ピアスの術式も使うかーァ?おっちゃんみたいな雑魚には必要ないか!」
「癪に障るんだよ…!祓師!」
蹴りを悠々と躱される。
「作業用お経リミックスがサビ前だってのに、聞かせてもらえねえかなー」
「口の減らない愚図が、儂の絢爛たる姿に蹴りを入れられるとでも思ったか、笑止千万」
影からは翼が見え、羽ばたこうとした瞬間を見逃さなかった。
左のリング群《五戒輪》の出番が巡ってきた。
親指にあるのは「破」、結界を砕く。リングに触れ、腕を振るうだけで発生する。
天狗の翼は結界で守られていることが常だ。
人差し指にあるのは「輝」、下位の天狗を祓う技、必ず対象に触れなければならない。
中指にあるのは───俺でもまだわかっちゃいない。いざという時ブラフで使うしかない。
薬指にあるのが「縛」、拘束・固定する技だが効能がいまひとつだ。
小指は「滅」、天狗の技を躱して、触れることで一時的に不発となる。
親指のリングに触れ、『破』と呟く。
リング表面の刻印から光が漏れる。
刻印されたフランス語が蛇のように指に絡みつく。
左腕を大きく振るう、天狗の翼の結界が解けて、天狗が地に這う。
「うぐぐ、があっ!」
そうして左の人差し指のリングに触れる。
『座って空を見上げてごらん』
左脚を振り抜く。
影は消え、天狗は霧散し、サラリーマンが意識を戻す。
「寝ちゃってたのか、俺…」
とフラフラと歩き出す。
「おにいさーん!歩いて帰ると危ねえからタクシー使いな!」
と、一万円を握りしめて渡す。
「誰だお前…歩いて帰れるよ、いらねえ!こんなもん!」
振り払われる。
右腕のブレスレットを回す、カチリ、と冷たい音がして、サラリーマンは目を閉じる。
《記憶操作》、単純だ。
俺は見たいものしか見せてあげたくない。
俺なりの戒律だ。
サラリーマンは何事もなかったかのように一万円を握りしめ、フラフラとタクシー乗り場に向かっていった。
右腕がジンジンと痛む。
まだ右は使いこなせない──。
そんなことよりも。
「一万円渡しちゃったよ、あー!今日飲む時間一時間減っちゃったなあ…」
八王子の風が鳴った。
まだ、何か起きようとしていた。
───チリン。
スマホが震える。
画面には「ロクちゃん」──昨夜の続きだ。
『起きてる? 風、鳴ってるね』
夜の匂いの中に、人の気配が混じる。
この街のどこかで、ロクちゃんも息をしている。
『風、鳴らしたし祓ったよ、これから店行くね』
すぐに既読がつき
『いつものあたりでキャッチしてるからこっちまで来て』
「あいあいさー」
八王子の夜はまだ、俺を離してくれそうにない。




