嫉ノ影天狗
21時、夜の八王子は、昼間よりも静かだ。
けれどその静けさは、どこか嘘っぽい。
キャッチの声も、救急車のサイレンも、遠くで鳴っているのに──
このガールズバー&ラウンジ《NEON》の中だけは、まるで別の世界のようだった。
グラスを拭きながら、私はふと入口のガラス越しに街を見た。
ネオンの光が少し滲んで見える。
「昨日、駅前でやばい事件あったらしいよ」
カウンターの端で同僚が言う。
「ガラスが全部割れたのに、誰もケガしてないんだって」
そう言われて、胸の奥がひやりとする。
あの夜の鈴の音が、耳の奥で微かに鳴った気がした。
ジョーのことだ。
このお店によく来ているのに、私以外、誰も知らない。
この街は、夜が人を映す。
明るければ見えない心の色が、ネオンに照らされると途端に滲み出す。
寂しい人はもっと寂しくなるし、強いふりしてる人は、だいたい泣きながらタクシーを呼ぶ。
私(藤城ミナ)だって、そのうちのひとり。
“ロクちゃん”って名前で笑って、グラスを傾ける。
"NANA"が好きで、そこから名前を捩っている。
本当の名前で呼ばれることなんて、もうどれくらいないだろう。
ジョー…川幡穣は3年前、友だちに連れられて来店して、私をずっと指名し続けてくれている。
その友だちよりも多く来店するようになってしまった。
最初こそ緊張していたものの、慣れてくると、どんどんと砕けたキャラになり、素のジョーのまま来店してくれるようになった。
ジョーの過去や生い立ちについては、実はよくわかっていない。
同い年で、お坊さんだということは判明している。目の前でお経を唱えてもらった。
もう止めて!と言っても止まらなかった。
彼の仕事は目の前で見せられた。
私に天狗が憑依した時だった。
─── 街頭の灯りが、溶けた飴みたいに路面に垂れていた夜だった。
私よりもずっと指名が多かった子、ナツちゃん。
スタイルも良くて、綺麗な顔立ち、愛嬌ある笑顔にみんなが虜だった。ナンバーワンだった。
彼女のバースデーイベントで、シャンパンタワーが何回も行われるのを見て、日に日に嫉妬して、その心の綻びに、天狗が憑依した。
風が強く、寒い夜だった。
彼女が常連と店内に入っていき、私が外でキャッチをするために立っていた、その晩に小さく放った一言が私の影を濃くした。
「……なんであの子ばっかり」
すると、街灯に照らされていた私の影が、私とは違う動きをした。
私は固まったままで、視線をそちらにやることも許されなかった。
ただ、鼻が、背中が、熱かった。
隣に立っていた女の子がその影に気づいて小さく悲鳴をあげた。
「寒い…のに熱い…」
ギュッと絞り出した声は小さく八王子の夜に溶け、誰にも届かずに散っていった。
影が伸びる、私の背中から、もう一つの黒い輪郭が立ち上がっていた。
その影は隣の女の子の影に重なった。
その子は髪が風に逆立ち、頬が裂けるように歪む。
皮膚の下を黒い筋が走り、耳の辺りが尖り、鼻が伸び、紅みを帯びていった。
人でも、獣でもない、"何か"が、そこにはいた。
「……天狗」
想像上のモノ、天狗が目の前に現れて当然腰を抜かした。
私の影はなかった。
まだ酒を覚えたてで、口の軽かったジョーが言っていたことが頭をよぎった。
「八王子の夜は、風が欲を食うんだ」
当初は厨二病か…と呆れてバカにしていたが、その意味がその瞬間にわかった。
街灯が一つフッと消えた。
暗闇の中、女の子の瞳が赤く光る。
私の足は勝手に後ずさる。
それでも、目が逸らせなかった。
その瞳の奥には見覚えのある痛み───私の、夜の底に沈んでいる感情だった。
恐怖で、私も、その子も泣いた。
「雌の躰か…この若さを持て余す感覚、懐かしい。儂にもあったか…」
声は女の子のままで、口調はまるでアニメで聞くかのような、そんな口調だった。
風が鳴いた。
鈴の音が、遠くから響いた。
───チリン。
夜の空気が割れた。
風がひと筋、店の前を切り裂く。
光の反射に、銀のバングルが一瞬だけ閃いた。
「……嫉ノ影天狗、か」
鈴の音の主は、ジョーだった。
「高尾山・薬王院に封じられた天狗たちの中には、もともと人間の「虚栄」や「慢心」を食う下位の天狗がいたんすよ、人間の「嫉妬」を喰らったことで、より低俗で陰湿な存在──影の天狗へと堕ちる。光を嫌い、人の背中に潜むようになった奴だね」
ジョーは淡々と語ったが、そんな悠長な時間はなさそうだった。
皮膚が裂けているように見える。
女の子の顔に傷が残るようなことはどうしたって避けなきゃいけない。
「なんで、なんでそんなこと知ってるの?」
ジョーは腰を抜かした私を起こし、店から離れるように促した。
「そりゃだって、『祓師』だし…」
缶ビールを片手に、グイと飲み干すと、缶を放り投げる。
「あーあ、厄介なタイプだなー、気持ちー状態で帰れると思ったのに、お仕事かあ」
スカジャンを着ていてもわかる、スラリと伸びた長い腕と指。装飾品がたくさんついていて、下品なほどだった。
「しかも、女の子かあ…どうすっかな」
カリカリとツーブロックの際をさすり、左手の薬指に手を当て、呟いた。
『縛』
天狗は固まったが、すぐに動き出し、店の方へ駆けて行った。
右腕を下から上へ振り上げ、大きな風を産んだ。
ゴオと唸りをあげて店が入ったビルのガラスをたちまち割った。
きっと、私の嫉妬が、私の代わりに動いているのだ。
「やめて!そんなことしないで!」
と大きく声を上げるも天狗は動きを止めない。
「『縛』でダメなら…!」
と、走り天狗に駆け寄る。
左の親指のリングを触り、小さな光を放ち、ピーンと耳鳴りのような音がし、左腕を振りかざすと、ガラスではない、何かが割れる音がした。
天狗はよろめき、膝をついた。
「好機…!」
左の薬指のリングを触ると、また光り、音がするとまた小さく
『縛』
と呟いた。
すると完全に天狗は固まり、仰向けに倒れた。
ジョーは近づき、額に左の人差し指を当て、呟いた。
『Ferme les yeux, et regarde ton cœur(目を閉じて、自分の心を見つめて)』
すると、スウッと天狗と影は霧散し、女の子が倒れそうなのをジョーが抱えた。
「お姉さん…この子お店に運んで…って、ロクちゃん!?」
ジョーは相当酔っている様子だった。
戦いで気が付かなかったのか…。
「うわーやべえ、ちょっとちょっと、忘れてもらうね」
と右手のブレスレットをグルリと回すと、周囲の人たちは何事もなかったかのように、またキャッチを始めた。何事もなかったかのように。
「な、なにしたの?何があったの今」
「え?なんでわかんの?」
私にはよくわからなかったけど、周りの人の記憶を消したらしい。
ブレスレットの効果は、影を宿した私には通用しないようだった。
それが何故かはわからないけど、そのおかげで助かったし、諭された。
「ロクちゃん、憧れるのはいいけど嫉妬するのはダメさ。だって、俺らまだハタチだぜ?これからだよ、ナツちゃんのいいところたくさん盗んで、八王子でナンバーワンになっちゃおうぜ、『Ferme les yeux, et regarde ton cœur(目を閉じて、自分の心を見つめて)』だよ」
「…ハナにつく言葉!」
「そういうことしか言えない星の下に産まれたんですーぅ」
寒くてくしゃみをした。
「そんな薄い格好してるからだよ、ほら、一緒にお店まで運ぶの手伝ってー!忘れさせるし、お酒に潰れたことにしとくから!」
それで帰っちゃうのか、と少し寂しくなった。
「ワンタイ入るよ、外寒いしね」
それが、安心の材料になった。
彼に心を許すことができた。
そうして、私はナツちゃんが辞めるまでに彼女のいいところをたくさん盗んだ。
妬かないように、火に薪を焚べるように、沸々と火種を大きくさせて、焼いた。
その火種はどんどんと大きくなって、ナツちゃんの後釜として君臨することができた。
あの時のジョーの言葉がなかったらどうなっていただろう。
それ以来、私はジョーに「《NEON》以外のお店に行かないで」と呪いをかけた。
───チリン。
店のドアが開くと、もう飲んだくれたジョーがいた。
一目でわかる。
他の女の子のお店に行ってきたのだろう。
「ちょっと、やったね、浮気」
「いやー、社会科見学ついでよ、祓ってきたし」
と小声で呟いた。
「贖罪と飲み直し!アーメン!ラーメン!担々麺!」
「アンタ本当にお坊さん?」
「さあ、どうだろうね?」




