祓師ジョー
「祓った…祓ったんだよね?」
ジョーは耳を傾けたが、鼓膜が破れて聞こえていない様子だった。
スマホを取り出し──もう圏外ではなくなっていた──。
メッセージを打ち込む。
「祓ったんだよね?」
それを覗き込み、ああ、と小さく呟いた。
そうして、あまりにも残酷な言葉がジョーから紡がれた。
「俺の中に───薬王が取り憑いた。声は聞こえねえけど、胸の中にいて、心を燃やしている感覚がする。祓ったけど、取り憑いた、このまま俺を、高尾山の薬王院のしめ縄に封印する。俺ごと祓う。そうすれば、もう天狗がこの街に現れることはない…。ちょっと一回帰って着替えるからさ、《NEON》で飲ませてよ」
もう、どうすることもできないのだろう。
ならば、やりたいことを、やらせてあげたい。
「うん…うん…」
「ロクちゃん、最後のお願いだ。……祓ってくれ。俺を、“しめ縄”に変えてくれ。薬王も、俺も、そこに縫いとめてくれ。誰も、もう、苦しまないように」
涙が頬を伝う。
まだ21時、夜はこれからだ。
───1時間半後、ジョーはやってきた。
スウェットに、ダボダボのパーカー。
シャワーを浴びてきたのだろう、シャンプーの香りがする。
───八王子の街はまだ焦げた匂いを抱えたまま、それでもネオンだけは、何事もなかったように瞬いていた。
ガールズバー、《NEON》の扉を押す。
カラン、と鈴が鳴る。
もう誰もいないかと思ったが、カウンターの奥にロクがいた。
額に絆創膏、指先には小さな火傷。
それでもいつもの無愛想な顔で、グラスを磨いている。
「……おかえり」
ロクが呟いた。
「ただいま。──いや、今日くらいは“行ってきます”かもな」
「それ、笑えないんですけど?」
無糖ハイで、とオーダーした。
手の震えが残るが、それでもその手で酒を飲む。
「飲んで平気なの?」
「破戒上等!ってさっき高らかに見栄切ってたんだけど、覚えてない?」
「──覚えてない」
顔を俯け、小刻みに震えていた。
泣いているのだろう。
ロクが黙って無糖ハイを差し出す。
「なーに飲むんですかー」
「コカボム」
「マジ?今日は喰らっちゃう気がするんですけど」
「とことん付き合ってもらうよ」
目元を拭い、「ジュンさーん、コカボム2つとウーロンハイ!」
「えっ?俺も飲むの?満身創痍の体にコカボム?」
───酒で誤魔化さなきゃ、辛すぎる。
───これで終わりだから飲むか。
今回のでたんまり報酬も入るだろうし、まあいいか。
「これ、遺書。しめ縄になったよって簡単に伝えてあるから、あと銀行預金の口座、面倒なな手続き系は終わらせておいたから、あとは───あしなが育英会に渡しておいてほしい」
───薄い封筒が、とても重たかった。
ジョーは眠たげな目を擦り、最期だからシャンパンも入れるか、と呟いた。
「入れなくていいよ。潰れないままで朝まで飲もう」
もう涙腺は決壊寸前だった。
これ以上虚勢を働かせないでほしい。
「ああ、あと今日、アフターつけておいてね。この後、朝9時のリフト乗って薬王院まで行くから」
「お別れまで、あと数時間しかないの?」
「名残惜しいねえー」
と、ジョーは視線を落とした。
コカボムが提供された。
乾杯し、一気に飲み干したあと、わざとらしく、明るく───振る舞ってみせた。
さっきまで喧騒の中にいたのに、気づけばもう八王子の夜は静寂に包まれている。
「隣、座っていい?」
「お店的にOKなら、座ってよ」
「グレーゾーンだけどね」
「ならお断り」
「最期なんでしょ」
と隣に移動する。
ジョーの顔は疲弊しきっているかと思ったが、案外憑き物が取れたかのような顔をしていた───憑かれているのだが。
───グラスを持つ手は、震えていた。
「多分、俺の護りたいって欲につけこんで来たんだろうね、ロクと同じ形で」
ジョーは俯きながら言葉を紡ぐ。
「薬王は癒しと赦しのシンボルだったんだと思う、だからこそ、薬王院なんてのがあるわけで、俺を救う、なんて言ってたのかもしれない。ある種、ヒーローだったのかもね」
───もう、それ以上はやめてほしい。
心の声が本音となって漏れた。
ジョーは穏やかに笑い、コカボムを二つ注文した。
二人は、ケタケタと笑いながら、酒を飲み干し続け、夜が明けた。
ジョーが店の外で待ち、私は着替えていた。
朝5時、八王子はまだ眠っている。
エレベーターを使い、降りたところで、ジョーは天狗を祓っていた。
「おー、お疲れ」
飄々としていた。
膝をついただけで6mはありそうな天狗が、泡を吹き天を仰いでいた。
『座って空を見上げてごらん』
天狗はギュッと縮小したかと思えば、パン!と音を立てて消えていった。
「もう力のコントロールも効かないや、確実に人外の力になってる」
肩を落としていた。
「京王線まで歩こっか」
始発に乗り、乗り換え、高尾山口まで向かう。
私は彼の左手を握り、酔った頭で聞いた。
「どう、すれば祓えるの?」
「えー、ずっと見てたじゃない」
「でもどれも天狗がヤバいくらい痛々しい表情してたじゃん、ジョーにそんなの使いたくないよ」
「うーん、そっか、じゃあ、何のアーティストが好き?」
なんで?
「BUMP OF CHICKEN…」
「BUMPね、ハイハイ…ベストアルバム…ハイハイ…これなんか良いんじゃない?涙のふるさと、優しい曲だよね、この曲をイメージしながら『ラ・パトリ・デ・ラルム
』って呟いて、左の人差し指に嵌めたリングで、俺のおでこに当てる。それだけ」
「ラ・パトラ…なに?」
「フランス語だよ、ボンジョルノ」
「イタリア語じゃんそれ」
「あれっそうか」
「メモするから言って」
「ラ・パトリ・デ・ラルム-涙のふるさと」
「曲名が優しいから、多分優しく祓ってくれるよ。でも、人差し指の『輝』はちょっも拗ねちゃいやすいからね、もしかしたらちょっと痛いかも」
ジョーはこう言った。
「リングにはS'asseoir et regarder le ciel-座って空を見上げてごらん、って彫られてる。ネックレスには、L'âme aussi, si elle veut se reconnaître, devra regarder une âme. 魂もまた自分を識りたいのであれば
魂と向き合わなければならないであろう、って彫られてる。お守りになると思うから、よかったら持ってて。いらなかったら捨てて良いから」
とニッと笑った。
リングをグイッと剥がす。
ジョーの指が変色した。
しかし、すぐに人肌色に戻った。
「薬王さんの再生術だね、やっぱ、強い」
鼻血を垂らしながら、ジョーは続ける。
「俺の中で共存、とも思ったんだけど、多分力がデカすぎて、きっと俺が器として保たない。やっぱ祓うしかないんだと思う」
そうこうするうちに高尾山口に着く。
入り口まで歩く。
麓にある喫煙所で、二人は穢れを吸い込む。
他愛もない話で場を繋ぎ、時折静かになったり、少し泣きべそかいたり。
そうしているうちに、リフトが動き出した。
高尾山の朝靄は白く、薄い布のように山肌を撫でていた。
鳥がさえずり始め、まだ冷たい空気が肺の奥まで入り込み、
吐くたびに細い白い息が揺れる。
──山が、ゆっくり呼吸している。
ジョーはその中心に立っていた。
肩の力は抜け、昨夜までとは別人のように静かだった。
「……軽いな。肩が。たったこれだけで変わるんだな」
弱体化した薬王を宿しているはずなのに、
その重荷はもうほとんど消えかけていた。
あの夜、黒くうねっていた気配は、まるで冷たい水に溶ける墨のように、薄く、淡く、消えていく。
私の方を振り向き、白装束姿になったジョーはふっと笑った。
「じゃあ……祓おっか。霊気満山たるこの山で、ラ・パトリ・デ・ラルム──涙のふるさと、だよね?」
「……うん」
手を握る。
その手は少し冷たく、でも指先はしっかり握り返してくる。
──これが最期の温度なんだ。
山門の前、誰もいない静かな空間。
しめ縄は朝の光を受けて淡く金色に滲んでいる。
私は深呼吸し、手元のメモを見ながら、震える声を押し出す。
『……ラ・パトリ・デ・ラルム-涙のふるさと』
ジョーの左人差し指にはめていたリングに触れ、彼のおでこへそっと当てる。
瞬間──
五戒輪と八環が淡く光り、
彼の左半身と右半身がゆっくりと黄金と青白に染まっていく。
「十二の戒、か……。やさしいな、あいつら。痛み、ほとんどねぇや」
光がしずかにジョーの身体の縁を撫で、
その輪郭を溶かしていく。
まるで、春の陽だまりが冬の影を消すみたいに。
「……ロク」
「なに……?」
「涙のふるさと、さ。一緒に歌おうよ。最後まで、さ、カラオケ代払うし」
私達は小さく囁くように歌い始めた。
声は震えていた。
歌にならない場所もあった。
『見つめなきゃね
どんな淋しい空でも
彼も見てきた 空だと知れば
一人じゃないはずさ』
『会いに来たよ 会いに来たよ
消えちゃう前に来たんだよ
君の涙のふるさとから
遠ざかる世界まで
君に知って欲しくて 来たんだよ』
だけどジョーは、ゆっくりと、優しく合わせてくれる。
その声は、確かに“生きている人の声”だった。
光がさらに強くなる。
しめ縄が呼吸をするように波打ち、ジョーの胸、肩、指先へ吸い寄せられていく。
「ミナ……」
風がふわりと吹いた。
その風の音の中で、ジョーの声が、確かに聞こえた。
「──幸せになってね」
その瞬間、ジョーの身体が光の粒になった。
薬王の気配も、そのまま一緒に、しめ縄へ、静かに、静かに吸い込まれていく。
しめ縄が、ギシ…と歴史と霊気を担ったかのように重たい音を出した。
抵抗もない。
苦しみもない。
ただ、帰るべき場所へ帰るように。
最後に残ったのは──
彼が外して私に預けた、ひとつのリングとネックレスだけだった。
光が途絶えた後、膝が砕けた。
自分の体重が支えきれなくなった。
私はその場に膝をつき、地面に手をつき、
声にならない声で泣き崩れた。
ずっと抑えていた想いが、
全部、溢れてしまった。
恋慕だったのかもしれない。
気づきたくなかった気持ちが、
胸の中で破裂していた。
しめ縄は静かだった。
きっともう天狗は現れない。
ジョーと薬王が、そこに縫いとめられたから。
私は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、
渡されたリングを指にはめた。
ネックレスを首に回した。
何の呪いも、契約も、誓いも宿っていない。
ただの、ジョーが触れていた温度だけ。
それでも──
私はそのリングを、ネックレスを、肌身離さず持って生きていくのだと思った。
朝靄が晴れていく。
高尾山の空が、ゆっくりと青くなる。
私は泣き続けながら、その青の下で、
ようやく一歩、前に進んだ。
『笑わないでね 俺もずっと待ってるよ 忘れないでね 帰る場所があることを』
──ジョーを胸に抱えたまま、
これからを生きるために。




