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夜鳴きジョー  作者: hsgwwr
20/23

大天狗 薬王

始発のベルが鳴った。

街はまだ眠っていて、電車だけが動いていた。

新しい朝を試すように低く響いている。


ジョーは餃子の臭さを消すべく、緑茶とカフェオレを交互に飲んでいた。


「どうせタバコで臭くなるじゃん」

改札前でロクは言う。


「胃の中から消臭しないとですから、やっぱ緑茶とカフェオレに限るんです」


「どうせ次起きるの夜でしょ、今カフェオレなんか飲んだら眠れなくなるじゃん」

「カフェオレは二日酔いにも効くんですー」

「持論でしょ」

「はい、持論です」


相変わらず俺のジョークは伝わらない。

だが、ロクだからこそのリアクションがたまらないのだ。


「じゃあ、帰ってお経でも詠んでて」

「作業用お経リミックスEDM ver聴いて帰るから今日はそれでOK」

「はいはい」


ロクが去っていく。

その背中に、餃子の優しさを思い出す。

多分、人生で一番うまい餃子だったと思う。


中央線の下り線が来た、パーっと警笛を鳴らし、ホームへとやってきた。

自分を大切にしなくちゃな、またロクに怒られる。

ドゥンドゥンとビートの効いたお経が耳から流れている。

俺にも音楽の才能があったらこんな感じでお経詠んでバズりたかったな───。


───高尾駅で降りる、自宅まで歩いて帰る。

朝5時台にしてはスカッと晴れているのに、高尾山には霧がかかっている。

深く深く、禍々しく重たい霧が、離れた場所からでもわかるくらいかかっている。

「こーりゃ、今夜ヤバそうだ」


こんな朝から天狗が出てくることは考え辛かったが、不穏に感じた。

───早く寝て今晩に備えよう。

これまでとは位が違う奴が出るだろう、口臭以外は万全の状態で挑もう。

口臭はもう、どうにもならない。

ブレスケア、もらっておけばよかったな。


───放射線を抜け、横断歩道を渡ったところで、「藤城ミナ」

また本名を呼ばれた。

振り返っても、同業者であろう女の子たちと、駅に向かうサラリーマンたちしかいなかった。


声の主は、わからない。

天狗だろう。また私に憑いたのだろうか、嫌な気分になる。


冷たい空気が、フッと頬を刺し、髪を揺らした。


前を向き、歩き出そうとした、その瞬間だった。

背中を照らされていることがわかった。

影が自分の前に揺らぐのを見た。


そうして、気づいた。

天狗の顔が、私の影から私を覗き込んでいた。

目が合うとニタッと笑い、また影に潜んだ。


ゾッとした、背筋が凍るとはこういうことだろう。

すぐジョーに電話をかけたが、繋がらない。

と、いうかスマホが圏外になった。


まずいことがわかった、というかまずすぎてどうしたらいいかわからなくなって怖くなった。


ジョーの家は知らない、もう一台スマホがあるわけでもない。

Wi-Fiなら繋がるかな、と思って走って家へ帰った。


───チリン。チリン。

脱いだベルトにつけた鈴が二度、鳴った。

俺の部屋に、風なんか吹いていない。

窓も閉めてる、吹くはずがない。


ああ、やっぱりそうだ、不吉の予兆だ。

探知はできないけれど読みとるくらいはできる。


今夜は荒れる。

間違いない、早く寝よう。


眠りについた。

緑茶のカフェインも、胃の底のアルコールも、もう何も感じなかった。

瞼の裏に灯りが落ち、暗闇が体の芯に沈む。

呼吸が薄くなり、遠くで、鈴が三度鳴った気がした。

───チリン、チリン、チリン。

「……うるさいな」

そう呟いたつもりが、声が出ていなかった。

沈む。

水底へ、仏の掌のような闇へ。


左手につけたリングが光り、語りかけてきた。


「汝、怒を断て。炎は護りにもなり、焼きにもなる。汝の掌が誰を包むか、いま問う」──『破』


「欲を断て。光は潤し、また溺れさせる。汝の祈りが誰に流れるか、いま問う」──『輝』


「殺すな。(そら)は抱き、また埋める。汝の手が何を掴むか、いま問う」──『空』


「説くな。風をいなし、また纏わせる。汝の卒塔婆を突き立てられるか、いま問う」──『縛』


「依らず、奪わず、怠らず。虚は見えず、されど在る。汝の心が誰を信ずるか、いま問う」──『滅』


何を言ってるんだ?

口を開こうにも、左手を見つめることしかできない。

俺の覚悟を確認しているのか?


───ロクを、藤城ミナを、街を護る。それだけだ。左手にじんわりと温かみが戻り、血が通っていくことがわかる。

俺は人間だ、温かい血が流れる。

天狗を祓う、祓師だ。

人の欲を、妬みを、狂気を喰らう天狗を祓う。


いくつもの戒律を破って、いくつもの信仰を齧り、自分の中で全てを構築した。

神仏ともに、身に宿した。

正しい形ではないにしても、それを力にし、いくつもの夜を跨いだ。


自分の手から溢れ落ちた師と、あの子を俺から奪った天狗を必ず祓う。

それがどんな痛みを伴うとしても、必ずだ。


覚悟なら、ある。

五戒輪よ、五願輪よ、戒輪八環(ピアス)よ、俺が導く。

だから、俺を信仰してくれ。

俺がある種の到達点だ、傲慢かもしれないが、崇めてくれ、讃えてくれ───。

それがきっと力になる。


───バチッと、目が覚めた。

15時。この時間なら、まずは五体投地、からの、十字を切り、祈りを捧げる。

そしてお坊さんらしく───お経を読む。


すると自然と1時間が経つ。

飯を食い、境内を掃除して、ストレッチして、18時。


夜が蠢き始める時間だ、サラリーマンと学生たちに紛れて、八王子駅へ向かう───。


───私、藤城ミナは、不安でほとんど眠ることができなかった。

シャワーを浴びた、メイクを落とした。

スキンケアをした、髪をキチンと乾かした。

スマホという文明の利器が時間を告げるだけの四角形になっただけで、不安極まりなかった。


今朝のあの天狗の顔が網膜に焼き付いて忘れられない。

なんとかして早くジョーに接触しなければ。


きっとあの天狗は私に憑いた。

体を乗っ取られるのだろうか、それとも、前みたいに他の子を乗っ取るのか、怖い。


18時前になった、出勤まであと3時間。

ジョーを探しに行こう。3時間も待てない。


そう思い、急いで部屋を出た。


───八王子に着く、まずは放射線通りを征く。

どんよりと重たい空気が肺を満たす。

居酒屋のキャッチが道行く人に声をかける。


イヤホンからは賛美歌が流れている。

缶ビール片手に、何度も往復する。

違和感がなければ、次の通りへ。

それを繰り返してゆく。

そうして再度──。


───19時、八王子駅前。

人が多い時間帯のはずなのに、どこか空気が鈍い。

耳鳴りがした。

世界の音が一瞬だけ、裏返るような感覚がした。


「ジョー!」


呼ばれた瞬間、聞き慣れた声に胸が跳ねた。

振り向くと、ロクが走ってくる。

だが、彼女の目がいつもと違っていた。

焦点が合っていない。

奥底で何かが蠢いている。


「おいおい、どうしたのよ。そんなに焦っ…て…」


そのときだった。

彼女の背中で何かがぐにゃりと歪んだ。

皮膚の下で何かが這うように動き、影が滲み出る。

街灯が明滅した。

通り過ぎる人たちが、まるで時間を止められたように固まっていく。


ぬるり、と。

背骨のあたりから“それ”が抜け出した。

巨大な、しかし形の定まらない影。

濃密な黒の中で、無数の目が瞬き、羽音のような音が空気を裂く。


「……薬王、かあ」


声が掠れた。

彼女を介して顕現したそれは、かつて祀られ、そして祓われなかった大天狗。

羅刹のごとき炎を纏い、光と闇の境を裂いて現れた。


ロクの身体は膝から崩れ落ち、白目を剥いて仰向けに倒れ込んだ。

影の中から、薬王の面がゆっくりと持ち上がった。

金の瞳が、俺を見据える。


「……破戒の徒よ。貴様が“導く”と言ったな」


低く、地の底を這うような声。

それだけで空気が震え、看板が軋み、空の色が変わる。


五戒輪が左手で脈打つ。

ひとつひとつの戒が燃え上がり、俺の掌を裂く。

痛い。けど、この痛みは──信仰の証だ。


「導くさ。地獄の果てでも───輪廻なんてさせないくらいに」


纏ったアクセサリーがビリビリと震える。

警戒しているのがわかる。

俺の膝も笑っている。

師が祓えなかった天狗を俺が祓うことができるだろうか。

だが、高らかに宣言する。


「アンタを祓う、十三の戒で!」


薬王は咆哮した。

音ではない、衝撃そのものだった。


「十三とは、破戒僧を裁くために天に記された"禍数まがすう”。八は”再生”ではなく“痛覚の輪廻”。五は”肉体の五劫ごこう”。術を穿つたび、貴様は神仏の中間で揺らぎ、己を十三に分裂させた。祓師としても僧としても半端よ」



薬王の言葉に、左耳が一斉に焼け付くように痛み、左手の戒輪五つがバラバラに脈打った。

右手のアクセサリー類が修行で身につけたものではなかったら、俺の指と耳は全部落ちていただろう。

それほどの言葉の重みだった。


生半可な覚悟では祓えない。

決心はついている。


もう、ロクが傷つけられている。

俺は赦さない。

一撃で仕留める。


右手の親指に触れ、『奮』を発動させ、唱える。

「破戒は我に在り、祈りもまた我に在り──奮え、心臓」


ドクンと心臓が揺れる。


右手の中指に触れ、『護』を発動させ、唱える。

「影よ退け、穢れは還れ──護りの環よ、廻れ」

薄い青が俺を纏い、追い風が吹く。


その風に乗って走り出す。

左中指に触れ、『空』を発動させる。

これで鎮め…!

指を鳴らし、放つ。


『D’une ardeur brûlante, l’innocence-灼熱にて純情──心焔』

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