砕面天
文読天、半分天狗くんとの夜を越えて以降、ピタリと天狗が現れなくなった。
半分天狗くんは別として、文読天とのダメージは体に着実に残っていた。
半分天狗くんが暴れていたら相当ヤバかった。未知の天狗だ、もしかしたら八王子にまだたくさんの半分天狗がいるのかもしれない。
これだけ術式を体に宿しているのに、会敵しない限り天狗を見つけることができない。
これが厄介だった。
ロクを囮にしろ───と、戒輪は唆してきた。
ロクは天狗を引き寄せる、そんな厄介な体質になってしまっているのが、不憫で、不憫で。
だからなるべく一緒にいられるように、同伴の回数を増やした。
金は飛んでいくが、護るためだ、俺の掌からもう何も零れ落ちないように。
今日はオイスターバーに行った。
カキとワインを堪能し、ほろ酔いの状態で店を出た。
「生牡蠣、いいよね!パスタに入ってるのも美味しかった、よくこんなお店知ってたね!」
と頬を紅潮させながらこちらへ語りかける。
黒のシャツにホットパンツ、生牡蠣よりも美味しいものを堪能させてもらっている。
「あそこの店、禁煙なのに店長タバコ吸ってたな」
「ね、電子タバコならOKみたいにすればいいのに」
と二人でケタケタ笑った。
この幸せな時間が続けばいいな、───そう、思っていた。
裏路地を抜ける一歩手前で、"ソレ"はやってきた。
シューシューと音を立てて、目があるはずのところの窪みが、こちらを睨んでいた。
耳が異様にデカい。
「離れて…、どんな奴かわからない。警戒しなきゃいけないのだけが確かだ」
ロクは、「頼むよヒーロー、よろしく」と俺の背中を押してどこかの看板の後ろに隠れた。
どんなタイプの天狗か、皆目検討がつかない。
目が合ったはずの窪みが、こちらを見ずに向かってくる。
まずは様子見だ、右の人差し指を鳴らすように、リングを押し込みながら、『識』と呟いたその瞬間だった。
目にも止まらぬ速さで、俺の脇腹を殴り、吹き飛ばした。
胃の中の牡蠣が踊らされているのがわかった。
「安くないんだけどな…生牡蠣…!」
暗くてよくわからなかったが、顔の半分が砕けたように割れ、白い骨と黒い炎が覗いている。
片方の翼は縮れ、もう片方は異常に大きい。
「アァッ、アァ」と天狗が声を漏らす。
以前書物で読んだことがある。砕面天の類だろう。
視力がない代わりに、発達した耳で、口の動き、微細な指の動きから発する音などで祓師のモーションの中から最適な弱点を狙ってくる───。
砕面天の拳が、空気を裂くたびに「ゴッ」と耳の奥が震えるような低い衝撃が走った。
速い。
ただ速いのではない。
“音”が追いつかない。
衝撃のあとに遅れて風がついてくるタイプの天狗だ。
人間のできる芸じゃない。
脇腹にめり込んだ一撃で、視界の端が一瞬白く染まった。
胃が逆流し、牡蠣の生臭さが喉まで戻る。
(あー……せっかくロクが喜んでたのに……本当に…もったいねえ……)
それを飲み込み、痛みと一緒に、どうでもいい思考が流れる。
それすら殴られるたびに散っていく。
砕面天の顔──砕けている。
いや、砕けているように“見える”だけなのかもしれない。
黒い炎と白い骨が露出し、まともな“生物”の構造をしていない。
「アァッ、アァ」
声だけは幼児のように濁っている。
そのアンバランスさが、逆に底知れない恐怖を誘う。
右の指輪に力を入れ──『識』。
一瞬だけ、砕面天の動機が読めた。
『祓師を倒すためだけに存在している』。
知的に見えてゴリゴリの脳筋野郎じゃねえか…!
術のイメージを構築するたびに、関節がわずかに鳴る。
息が震える。
指の骨が軋む。
──それ全部を、砕面天に聴かれている。
とにかく素早い、動きを止めなくては──『ば…』
「アァッ、ウグゥアッ…」
鋭く顔面に突き刺さるパンチを繰り出してきた。
動きが真っ直ぐなので読みやすいが、当たったら致命傷に至るかもしれない。
ヘヴィー級の天狗だ、ミドル級の俺には一撃が命取り。
拳を入れようと肩を引いた“音”。
息を吸った“震え”。
足を踏み替える“摩擦”。
砕面天は、そのすべてを“聴いている”。
視力がないぶん、聴覚の情報を一本線で処理し、一番刺さる攻撃だけを選択してくる。
(クソッ……技を構築する音まで読まれる……!)
ロクは───離れている、もう店まで逃げただろうか。
懐に潜り込み、左腕を一閃。
ようやく一撃入れられた、少し効いてる───ようにみえるが。
───ジョーが殴られては避け、殴り返そうとしては避けられ、をこの1分間で20回はやり取りをしていたと思う。
ジョーは、技を使い、殴られるたびに鼻血が飛び散る。
リングがかすかに白く発熱しており、あれ以上術を撃てば体内から破裂しそうなのが分かる。
相変わらず、体を酷使する…。
そこが心配で、自販機の陰に隠れている。
『空-灼熱にて純情』は、私がキッカケで発動している必殺技らしい。
いざという時は、私が身を投げ出して───。
膝が震えているのがわかる。
だが、毅然としなければならない。
堂々と、破戒僧ジョーの行く末を見届け、護らなきゃならない。
───本人は気づいているだろうか、術が効かないから殴られているのではなく、術の隙の音を読んで殴りかかられているように見える。
右側の大きく肥大した翼を振り下ろし、ジョーにダメージを与える。
素人の目だが、役にたつかもしれない。
身を乗り出しすぎずに「ジョー!」と声を上げると後ろから口を塞がれる。
(いつのまに!?こんな人通りの少ない道で、足音がしないなんて!)
「我は裂声天…あの僧の右腕のブレスレットが効かなかったあたりから、かなり貴女に興味があったのです」
クスクス笑うと、少女のように口を開き、にこやかに笑ってみせた。
「川幡穣、今日で心も体も折りたいです。素敵なので」
ゾッとした、ジョー!と叫ぼうとするも声がくぐもって遠くまで飛ばない。
「私の声で、砕面天は動く。川幡穣への興味から、こうしてでぇたをとっているのです」
───腕でダメージを防ごうとしても、衝撃で視界が揺れた。
痛覚交換も効いているが、あまりにお互いのダメージが蓄積しすぎて左耳のピアス全体に血がいっているのかわかる。
左耳の『纏』に血がついたことで、強制的に術が発動される。
やべえやべえ、そこまでは求めてない。
チャポチャポとする耳の中で、頭を振って血を抜き、影を太く濃くし、砕面天を拘束する。
『纏』で影を固定した上でなら『縛』がかなり効果が効く。偶然ではあったがこれが効いたのラッキーでしかない。
カチンと動かなくなったところを、ピアスの『禊』-ピアスが青白く炎を灯し、近距離で触れたコイツが呪穢を燃やし尽くす。
祓師としての最終手段。
ただし発動すると、戒輪の“熱”と共鳴して強烈な耳鳴りが走る、鼓膜が破れるなんてこともあるだろう。
これで、『破』を使えば結界も破れて、ようやく同等のステージに立てるだろう。
『は…』
言葉を遮るように、砕面天の膝が腹に入った。
胃の中の牡蠣が強制的に吐き出される。
潰れるような音がした。
肺の空気が全部抜け、視界の色が紫に歪む。
術ではなく、ただの暴力。
激痛に、片膝が崩れた。
「……っは……は、くそ……」
ジョーは笑った。
血と涙が混ざって視界が滲むのに、それでも笑った。
「人気者は……困るんだよ……殴られすぎて……ファン増えるタイプ……女オタクが俺に憑いてくれねえかな」
祓師としての誇りも、鍛えた技も届かない。
ボロ布のように殴られながら、
ようやく悟った。
──こいつ、痛みを知らねぇ。
砕面天は、楽しんでいる。
痛みを知らないくせに、人間が壊れていく“音”だけを楽しむ悪質な性格だ。
ピアスの"禊"まで技を構築できる余裕がない。
殴っても念じても怯まない。
術の構築を読まれる以前に、
「声」「息」「震え」
そのすべてが攻撃の合図になってしまう。
(……殴るしか、ないのか)
祓師が、殴り合いに頼るなんて。
そんなのは退路だ。
矜持を捨てる行為だ。
でも───引き換えに失うものが自分のものならいい。
殴るたびにリングが指に食い込み、非常に痛い。
蹴りも織り交ぜるが、フラフラとした脚ではダメージも通らない。
技を連発しているから、当然外傷だけではなく、内側からも大量の血が流れている。
殴られては蹴り、殴り返す。
蹴られては殴り、蹴り返す。
その繰り返しは、まるで終わらない殴り合いの地獄だ。
───ロクは口を抑えられた手すらも震わせた。
目の前で交わされているのは、生臭坊主へのリンチショーだった。
守護の術や、回復の術、自身を鼓舞する術やピアスなどの技を酷使していることもわかる。
ただ、どの攻撃もジョーが当てているのは効力の弱まった普通のパンチそのものだった。
いよいよ砕面天がジョーの胸を撃ち抜くんじゃないかという勢いで殴った。
肺が潰れ、喉から空気が漏れる。
無意識の「息」が発声となり、術式が暴走する。
左耳のインダストリアルピアスが黒く脈打つ。
──痛覚交換。
砕面天の拳の痛みを、逆にジョー自身の左耳が受け止める。
激痛に、膝が落ちた。
「が……っ……!」
砕面天が近づく。
「……ひゅー、やば」
ジョーは笑った。
痛みで涙が出る中でも。
「本気で殺しにきてんな……。人気者は困るよ、ほんと、上等だよ」
口内に残った血を吐き出し、腕で口元を拭った。
左耳の8つのピアスが、連鎖的に光り出す。
火花のように。
戒輪八環の前兆だ。
これはまだ誰にも見せたことのない、人外を祓う前の"壊れる直前の光"だ。
砕面天が最後の一撃を振り下ろす。
ジョーは拳を握り、左耳と左手を同時に使う構えをとった。
青白い火と、淡い金色の光が交差する。
戒輪、八環。
ピアス八つ、指輪五つ──十三の戒が、
ひとつに束ねられる。
───そこで、ジョーがようやく気づく。
周囲の人間の少なさ、ロクの声、いずれもが不自然なまでに静かになっていた。
「おい…ロクたちどこやった」
砕面天は頷き、こちらへ振りかぶってきた。
完全にプッツンしていたジョーは、静かに息を吸った。
吐かない。
声にしない。
中指のリング『空』に触れる。
ただ、心の中だけで唱え、指を鳴らす。
──《D’une ardeur brûlante, l’innocence -灼熱にて純情》。
砕面天の動きが止まる。
遅れたように骨が軋み、
砕けた半面から炎が噴き出した。
これは、おまけだ…無駄に殴らせやがって…。
「お釣りはいらねえ、《Éclaire-moi jusqu’à me troubler-とまどうほどに照らしてくれ》」
青白い火が全身に走り、
砕面天の身体は内側から裂けるように消えていく。
───終わった。
息が荒い。
血まみれ。
笑っている。
「……やべぇな。殴り合いで勝つの、しんど……」
電子タバコを取り出し、デバイスに差して蒸し、ぼやいた。
「殴らなくて済むように、仏教の道も学んだはずなのにね」
スーッと煙を吐き出す。
ロクはどこへ行ったのだろうか、スマホを取り出す。写真が送られてきていた。
女天狗の類が、ロクの口元を抑え、自撮りしている写真。
───やられた、一人にするんじゃなかった!
念のため電話をかけてみる。
するとロクではない、女の声が聞こえた───警戒して『護』を発動した。
電話の向こうの声は、
ロクだった。
──ロク、……のはずだった。
「ジョー? いまね、すっごく綺麗なところにいるの」
語尾だけが妙に軽い。
ロクに似ているけれど、微妙に乗っている“色”が違った。
『護』を展開した瞬間、電話越しに小さな笑い声が漏れた。
「ああ……さすが。すぐ張るんですね。ほんとうに好き」
完全にロクの声で。
背筋が冷える。
「そっちへ行く。今どこだ、ロクは無事か」
沈黙。
街のざわめきが、すう……っと引く。
一瞬でわかる。
この静寂は自然じゃない。
「無事ですよ。ほら」
写真が追加で送られてきた。
口を塞がれたロクが、睨みつける目でこちらを見ている。
その横で、少女のように笑う女天狗。
耳の後ろに、さっき砕けた砕面天とよく似た“黒い炎の痕”がついている。
電話の女が囁く。
「ねぇ、気づきませんでしたか?砕面天が貴方に殴られてる間──私、ずっとロクさんの息の音を聴いていたんです」
ジョーの喉が、ひとつ鳴った。
「……裂声天、か」
電話の向こうでクスクスと笑い、女天狗は言う。
「はい。そう名乗りましょうか。川幡穣の“痛いところ”全部、喰べたいので」
足音がしない。
なのに、確実に“近づいている”。
左耳のインダスが脈打つ。
戒輪の熱が冷めないまま、まとわりつくように耳鳴りが走る。
「藤城ミナは返す。でもその前に──」
声が変わった。
ロクの声色に、さらに近づく。
似せている、じゃない。
これはもう“喰っている”。
「川幡穣。あなたの心、折らせてください」
鋭い磁場のような空気が、ジョーの背中を撫でた。
砕面天とは違う。
暴力でも、拳でもない。
──これは、“声”の天狗だ。
街灯の光がゆらりと揺れ、
視界の端に黒い影が降りる。
裂声天。
ロクのスマホ越しの声が、最後にひとこと。
「ねぇ、ジョー?護る人がいるって、ほんとうに罪ですよね」
ジョーは息を吸い、デバイスをポケットにしまった。
ロクの位置を探りながら、片膝で立ち上がる。
「……なら折ってみろよ。俺の心、一級建築士が建てたんだからビクともしないぜ」
静寂が割れる。
裂声天が、初めて姿を見せた。
宙に浮き、ロクを結界か何かで縛りつけている。
「───今日はミニスカポリスコスのイベントなんで、脚縛るのだけやめてあげらんねえかな」
「それであなたの弱点を突けるなら、解いてあげますよ」
そういうと、横向きに宙に浮いていたロクの脚がダランと下がる。
「あーでもその体勢もキツそうだな、軽く縛る程度にしてあげてもらってもいいすか?」
「はい、仰せのままに」
ロクはこちらを見て口をモガモガと動かす。
何が言いてえのかわかんねえ、ごめん。
胃の内容物も出し、強打されまくった体が悲鳴をあげているのがわかる。
回復術式は発動させているが、大怪我になったところまでは癒せない。
「疲弊させて連戦に持ち込もうっての、いやらしいっすねー、でも女天狗さん、あんたも結構目の保養になる体してるわあ」
と軽口で時間を稼ぐ、少しでも回復した状態で、『灼熱にて純情』を叩き込んでやりたい。
大事なモン、獲りやがって。
沸々と内側から「護れなかった」怒りが込み上げてくる。
「変わらず下品です…ねえ。でも嬉しいです、そうして私の前に血みどろで立ってくれて、躰まで褒めてもらえて。『でもここでお別れです』さようなら、川幡穣」
お別れです、と告げられ、体がふわりと軽くなる感覚がした。
声の一音一音が、精神に直接触ってくるような感覚。
心臓の拍動すら相手に読まれている──そんな恐怖。
精神系の攻撃だ、と気づいた時には脚から宙ぶらりんになり、頭が地面の方向を向いていた。
───あー、やべえかも。
呼吸はゼヒューと不思議で痛々しげな音がしている。
20mは持ち上げられただろうか、地面が遥か遠くにある。
ロクがこちらを見て全身をバタバタとさせている。
「藤城ミナのを喰べ、"大事なモン"から先にトドメをさすか、悩みますねえ。若い女の血は好物です」
と、舌なめずりをする。
「でも、先に川幡穣を落としてから、苦悶の表情を浮かべるこの子を喰べてあげるのも一興ですねえ」
と、恍惚の表情を浮かべている。
あー考えなきゃ、どうするべきかな…どうすっかなー。
理想は、『滅』で術式を解き、俺が先に地面に降りて、ロクをキャッチする。
だが、どう考えても不利。
こちらが優勢になるなんて甘い考えは捨てなければならない。
───さあ、どうしたもんかな…。
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、意識の底で「無理かも」と思った。
「おやすみなさい、祓師の川幡穣さん」
落下の風音が耳を切る。
裂声天の声が、頭の中で反響する。
──落ちる。
ロクを助けるどころか、自分の体勢すら整わない。
術すら…『滅』も『護』も間に合わない。
(……どうする、川幡穣)
脳が熱を持ち、耳のピアスが総立ちになり、
左手の戒輪が焼けるように脈打つ。
落下の合間に、ジョーは薄く笑った。
「……大事なモン取られて、黙ってられるかよ……」
もう祓師としての正攻法じゃ届かない。
残されたのは──殴るでも、術でもない。
“心臓が決める祓い方”だけだった。




