《縛》-目醒め
山でのねちっこい修行を終えた俺は、その足で教会へ向かった。
今日は日曜日、大体の教会ならやっているだろう。
マップで近所の教会へ向かい、ミサを受けるのだ。
入り口に浮かぶ十字架の影を踏まないように、避けて入る。
牧師はもう祈りを始めていた。
やべ、少し遅れたか。
木造の椅子に慌てて腰掛ける。
匂いが意外なほどに落ち着く。
───ひたすら祈る。
主に、基督に。
そして───ロクに、初恋のあの子に。
加護が与えられるように。
仏教が静、キリスト教の更に静、声の祈り。
沈黙と、告白。
どちらにも跨っているのだ、俺に聖なる力は宿らないだろう。
だが、祈らずにはいられなかった。
神父が十字を切る。
参加者も同時に十字を切る。
───薬指が疼く。
だが、これまでの皮膚を裂くような痛みはなかった。
俺の中で、きっと『縛』の形が再構築され始めてきたのだろう。
銀を拒むかのような感覚はなく、ポケットの木製のリングも沈黙していた。
そうして、神父は聖書の一節を朗読する。
祭壇の前で蝋燭がゆらめき、柔らかな煙が天井へ昇っていく。
神父は眼鏡を外し、ゆっくりと聖書を開いた。
教会の空気がすっと冷える。
「──ローマの信徒への手紙、第七章より」
木製の長椅子がわずかに軋む。
ジョーの指先が、銀の戒輪を無意識に撫でる。
神父の声は静かで、降る雪のようだった。
「私は、自分の望む善を行わず、望まない悪を行ってしまう。」
「それを行っているのは、もはや私ではなく、私の内に宿る罪である。」
一文一文が、胸の傷口に落ちてくる。
ジョーはゆっくり目を伏せた。
滝行で聞こえた僧の罵声、ロクの笑い声、そして──あの日の、あの子の涙。
戒輪が、骨の奥で“ギリ”と軋む。
神父は本を閉じ、静かに祈りの言葉へ移った。
だがジョーには、さっきの二行がいつまでも耳に残った。
(……俺じゃない、俺の内側の“何か”か)
胸の奥で、銀の縛がゆっくりと熱を帯びていく。
「宗派は違って見えます。ですが祈りは、どの国へ行っても同じ形を取る。人が“自分より大きなものへ手を伸ばす”という、その行為自体が力になるのです」
淡々と、静かに、しかし発せられる力強い言葉を心で受け止めていく。
───お坊さんなのに、こんなに沁み入って聴いちゃっていいもんかね。
リングは、どちらもそれらに呼応しない。
落ち着いているのだろう、俺のことを、わかってくれているのだろう。
俺は───中間にいるんだ。
お坊さんとして、救いを求める信者として。
ずっとずっと、ここに立っていたのだ。
この立ち位置がわかれば、また祓える。
目は覚めた。
これが辿り着くべき境地だったんじゃないだろうか。
左耳のピアスが、揺れる。
また、根ざすように、少し痛みを伴いながら。
ピアスの根本から血が垂れる感覚がわかる。
───ここまでだな、これ以上は逆効果だ。
立ち上がり、邪魔にならないようにそっと教会を去る。
自室に戻り、清酒と赤ワインを飲む。
数日ぶりに電子タバコを吸う。
飲み、煙を吐き、清めた心体を軽く汚す。
俺のスタンスとしては、これで充分だろう。
満ち満ちと、体に"力"が流れゆくのを感じる。
肋はまだ痛い。鈍い痛みではなく、透き通るような痛み。
全神経が体のどこが痛んでいるのかを察知する。
右薬指のリングに触れ
『蘇』を発動させる。
軽傷と思われるところの治癒を済ます。
───陽が沈む。
八王子駅まで向かう。
この間祓い損ねた天狗を探す。
どの影に潜んでいるのか、察知ができれば楽なのだが。
誰かが痛みを伴って顕現させるのを待つ。
他の祓師が祓っているとは、あまり思えない。
どこも人手不足だ。
───またロクのところに行ってないといいな。
《NEON》の近所まで歩こうとする。
ドンキの前を通りかかったところで、悲鳴が上がる。
どう見ても、この間の嫉ノ影天狗の類だ。
「脆弱ナ、祓師ヨ。儂はこの数日デ腹が膨レル、ほど妬ミト怒気ヲ喰らった。コノ街は儂の本来の力ヲ引き出してクレル」
片言なのは変わらないが、流暢に喋ることができる余裕さを得たのか。
「本来の力を引き出した割にはまだまだ人の言葉、話せてないっすねー、大したことないんじゃないすかー?」
少し煽ると、表情が歪み、また葉のうちわを取り出し、振るった。
これは『滅』で消すことができない。
範囲外に逃げる。
煽られた人たちが飛んでいくのが見える。
「いやーまじ、さーせん!」
右小指の『誘』を用いて、なるべく人のいない方向へと誘導する。
「我が影を見よ、我が声を追え──誘うは祈りの罠」
影が揺れ、天狗の瞳に僅な光を映す。
変わらずうちわを煽る。
足が絡め取られそうになるも、体を前傾させ、なんとか逃れる。
肋が軋む、今度は鈍い痛みだ。
早期決着をつけなければ、消耗戦になる。
ようやく人気のない裏路地へ導くことができた。
───ここからだ、俺に応えてくれ、《縛》…!
『縛!』
天狗は瞬間的に硬直したが、ガラスが割れる音と同時に動き出す。
左薬指がまた痛みだし、変色していく。
やっぱまだ───ダメか!
すると左のポケットで、ジュウジュウと木製のリングが熱を持っているのがわかった。
いや、お前は使えないんだよ、黙っててくれ───。
(使え)
俺に声をかけたと感じると、意思を持ったかのようにポケットから飛び出し、宙に浮いた。
こんなことは初めてだ。
「そこまで言うなら、使ってやるよ!ただ、再契約だ、俺のスタンスを邪魔しないように、キチンと俺に従え!」
返答はなかったが、差し出した左手の薬指に自ら嵌ってきた。
木と銀の戒輪が呼応し、ジョーの腕に二重の“戒”の線が刻まれる。
すると、指の痛みは和らぎ、赤黒かった指の色は、肌の色を取り戻した。
胸内の空気が反転するような感覚。
祓と祈り、仏と神、静と声。
相反するものが噛み合い、回り始める。
天狗はこの狭い路地でうちわを縦に振ろうとしていた。
喰らえばまた病院のお世話になるだろう。
脈々と、薬指が鳴動するのがわかる。
「いいんだな、使うぞ、裏切んなよ」
『縛!』
瞬間、天狗の血走った目が白目を剥き、ビキっと硬直した。
効いたか?
───効いてる!
『破』!
天狗は翼の効力を失い、地に突っ伏す。
微動だに、しない。
まるで石のようになっている。
声も発さない。
《縛》が応えた。
そうして脳裏にあの子の声が蘇る。
『高尾山のたこ杉、あれは御神木だもんね、木にも神様は宿るんだよ』
神道か…そうだったななるほど、それはそれは…。
銀のリングと木のリングが薬指に嵌ったことで、左手が完全に握られることができなかったが、淡い炎のように左手が青白く光っている。
「まじ…やってくれたな、ホント、喰らってもらいますよー、限りなく痛い形で。やりたくないことやらされたんだから、これくらいはね」
ネックレスに触れ、唱える。
une main nue Alors est venue Qui a pris la mienne
Qui donc a rendu Leurs couleurs perdues Aux jours aux semaines
Sa réalité A l'immensité Des choses humaines(裸の手が その時現れ 僕の手を取った
その手が戻した 失われていた色彩を 流れゆく時に
その真実を 人間の織りなす物事の無限さの中に)
右手の拳を思い切り天狗の背中に打つ。
天狗は体をのたうちまわらせ、ギィと音を立てて霧散した。
ツーと右の鼻の穴から鼻血が垂れたのを感じた。
「反動さえなければなー、完璧なのに…」
ガフっと喀血する。
ハンカチで拭い、歩みを進める。
「飲むかあ」
───夜の街に、復活した祓師が歩みを進める。
戒律を破り、どこにも籍を置けないような、派手な坊主はロクのいる店へと向かう。
今宵も、八王子の夜は騒がしい。




