諦念
意識が落ちた瞬間、街の音はすべて水の底に沈んだ。
代わりに──木が軋む、高尾の部屋で眠る夜のあの音だけが響いている。
闇が深い。
高尾の山腹に沈んだときの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。
暗がりの中央に、一本の木製の戒輪が浮かんでいた。
抜いて以来、一度も光らなかった“あの木の縛”。
ひび割れ、焦げたように黒ずみ、皮膚の記憶まで腐らせるような気配を放っている。
───穣。
声は師ではない。
これは、戒輪そのものの“声”だ。
───壊シタノハ……オマエダケデハナイ。縛ハ……喰ワレテイル。
「……喰われている?」
───嫉ノ影天狗ハ、“縁”ヲ喰ラウ。
藤城ミナ……アノ娘ヲ傍ニ置ケバ置クホド、縛ハ腐リ、天狗ニ喰ワレル。
「……ロクちゃんを、囮にされてるってことすか」
戒輪のひびがさらに割れ、黒い脈が木目を這うように広がった。
───選ベ。
縁ヲ断ツカ。
縛ヲ、取り返スカ。
答える前に、世界が揺れた。
救急隊員の声が混じった。
「意識戻った! 呼吸浅いぞ!」
闇が破れ、白い光が押し寄せる。
───だが、“問い”だけは喉に刺さったままだった。
目を開けると、知らない病室の天井。
肺の奥をえぐる痛み。酸素マスク。
点滴がポタリ、と落ちる音が耳に張り付く。
「危なかったんですよ。肋骨が肺に刺さってました。よく助かった」
返す気力もない。
だが、それ以上に──左手薬指が、空っぽだ。
《縛》のリングが外されている。
「手術の際に外そうとしたんですが……アクセサリーだけ、どうしても外れなかった。薬指だけかろうじて取れましたが、こんなことは初めてです。これは何なんです?」
答えられるはずがなかった。
喉がひゅうひゅう鳴り、言葉が漏れない。
(マジかよ……契約は? 誓いは?『縛』はどうなった)
返されたシルバーのリングは、見た目こそ無傷だ。
だが触った瞬間にわかる。
縛が“半分”喰われている。
刻印は削れ薄くなり、何かに齧られたように欠けていた。
ベッドサイドの紙袋に気づく。
中には、木製の“新しい”縛。
「……木製かよ」
呟いた瞬間、赤黒く腫れた薬指が“ピリ”と痛んだ。
戒輪と共鳴できていない。その証だ。
「……ロクが危ないのか。
それとも──俺がロクを危険にしてるのか」
どちらとも言えない。
だが、異界で聞いた『選べ』だけは、喉に刺さったままだった。
縁を断つか。
縛を取り返すか。
どちらを選んでも、もう“無傷”では済まないだろう。
病室の窓が、コン、と鳴った。
風もないのに。
数日後、退院して十分も経たないうちに、俺は新宿へ向かった。
胸はきしみ、肋骨は呼吸のたび“異物”として痛む。
それでも動くしかなかった。
──木製だけは、もう指に通せない。
プライドというか、なんというか。
意地だけが残っている。
届いていた新しい戒輪は、ポケットに押し込んだまま。
触れればあの黒い声が蘇る。
(戻れ。戒を破るな。)
うるせえ。
戻ったら、また失うだけだ。
新宿駅を抜け、ルミネのアクセサリーショップへ向かう。
俺は、戒として扱えるいつもの“銀”を求めた。
Bonheur──幸せの手錠。
恋人向けのアイテムだ、皮肉にも意味は俺には似合っている。
vois-tu venir ce temps merveilleux,
vois-tu ce bonheur qui nous attend.
素晴らしい時と幸せが
私達を待っているでしょう
錠前。
拘束。
祝福と呪縛の境界線。
破戒にはちょうどいい。
購入し、迷わず薬指に通す。
───瞬間、指の内側で“縛”が爆ぜた。
肉を噛み、骨を叩き、血を逆流させるような痛み。
体温が削ぎ落とされ、腕が“自分ではない何か”に変わる。
無理矢理押し込み、皮膚が裂ける感触がした。
薬指の黒ずみが、さらに異質な色へと染まる。
銀が“戒”として動き始めた。
しかし、それは破戒の痛みそのものだった。
慌てて化粧室に飛び込み、水で冷やす。
(そんなもので……縁が結べるか……)
戒輪の声が骨を叩いた。
「黙れ……」
ヒューヒューと息を吐きながら、それでも反発した。
少し痛みが引いたので、歌舞伎町を歩く。
天狗ほどではないが、新宿には“ネズミ”が多い。
試すには十分だ。
一時間ほど歩いたところで、キャッチの影に“それ”を見つけた。
「……いた」
小声で呟く。
『縛』
チリ、と音がして戒が発動──した。
だが、ネズミは一瞬怯んだだけで動き出す。
雑魚相手にこれ。
天狗に通じるはずがない。
ふう、と息を吐き、空を仰いだ。
“素材”ではない。
“系統”が違うのだ。
木は仏へ。
銀は神へ。
戒律の回路は根本から別物。
銀を祈りで満たし、そして“破戒”で再構築しなければならない。
(……修行だ)
滝へ。
坐禅へ。
祈りへ。
聖書へ。
前にもやったのに、忘れていた。
祓師としてやっていくには、この指だけは、どうしても自分で扱わなければならない。
「めんどくせぇ……」
だが、逃げられない。
《縛》が納得しなければ、俺は“機能しない薬指一本”というハンデを抱えたままで戦う羽目になる。
だから行くしかない。
破戒僧は身と心を清め、
異質の受容と、戒律の再構築を果たすべく。
そして逃した雑魚天狗を祓うべく。
中央線に乗って、再び高尾の山へ帰っていった──。
ちゃんちゃん。




