プロローグ
昼間は大学生とサラリーマンで賑わうが、もう一つの顔がある街。
東京都八王子市、一昔前は西の歌舞伎町と呼ばれた、歌舞伎町という大きな闇の影に隠れた欲望の街だ。
最近は「霊気満山 高尾山」がウリでインバウンドでごった返している。
織物と養蚕で栄えた街が、夜中はサイレンの音とキャッチの声が飛び交う、まさに「喧騒の町」である。
くたびれたサラリーマンの俺は、今日も癒しを求めてキャバでひたすらに酒を煽り、タバコを吸い果たしたところで明日のプレゼンのことを思い出し、会計を頼んだ。
「ね、ねぇ、今日すごい飲んだよ?ボーイさんも、一晩でこんな額見たことないって、払える?平気?」
と、こちらへおずおずとレシートを挟んだバインダーを渡してきた。
すると、150万円というとんでもない額が印字されていた。
何かの間違いだろう、通い慣れた店だし、ぼったくられたことは一度もない。
「顔真っ赤だし、目がすごい充血してる、平気?」
「おカしいダろ、ナンだ?この値段は」
「だって、シャンパン何本開けたと思ってんの?何回も止めたじゃない」
ふと視線を下にやると25万円はするシャンパンが3〜4本も置いてある。
おかしい、俺はこんなにシャンパンを開けるタイプじゃない、隣の客と間違えているんだろう、と隣へ視線を移すと、心臓がドクンと跳ね、顔が急に熱くなってきた。
のっぺりとした顔は自覚している。
そんな自分の鼻が、徐々に伸びているのだ。
「ナンダ、ナンダ!?」
女の子たちの悲鳴が聞こえる。
自分の視界に、ドンドンと鼻が入ってくる。
───私は、何度も止めた。どう考えてもこの人がこんなに飲むはずがない。
最初は、今日は何かいいことがあって、景気良くシャンパンを入れてくれたのだと思った。
だけど、2本、3本と空いていくに連れて徐々に心配が勝った。
1本25万円だ、決して安くないシャンパンだ。
振る舞いがおかしかったのだから、途中で中断させるようボーイに伝えればよかったのだ。
このサラリーマンは、明らかに異常だった。
顔を真っ赤にし、眉が釣り上がり、顔がボコボコと変形し、徐々に鼻が伸びてゆく。
皮膚が紙のように乾き、裂けていく。
おかしい、怖い、何これ?
私酔っ払ってるの?そんなに飲んでないよ?
店の空気が一瞬止まった。
鼻の伸びがピタッと止まり、顔が真っ赤になり切った頃に、テーブルにあったボトルを掴み、グイと傾けた。
「ン、嗚呼、しやんぱん、やはり洋酒は美味であるな。偶に飲む、この心地よさが良く、酔いに繋がるのだ」
声も喋り方も変わった、これは夢だ。
妖怪かのような、天狗のような姿になった。
おかしい。
「さあ、嬢よ、服を脱ぎ、儂に躰を預けよ」
そう言われると、私は勝手にドレスを脱ぎ始めていた。
嫌、嫌、嫌。無理無理無理。
徐々に背中のボタンを自分で外してゆくのがわかる。
誰もが腰を抜かし、私から離れて、助けてくれないことがわかった。
嫌だ、久しぶりにするのが、こんな状況で、異形にヤられるなんて。
助けて、声が出せない。
ドレスがはらりと落ちた。
もう下着しか残っていない。
───チリン、と鈴の音が鳴った。
「お姉さん、ごめんねえ、俺もそこまでは見たかったんだ。でもそれ以上は望んでいないんだ、『ドレスを着て』、そこから離れて」
そう言われると体の権限が自分に戻ってきた感覚があった。
指先まで自分の意識が届く。
急いでドレスを着て、離れた。
「儂の邪魔を、するとは儂の酔いを醒ますのう、無粋なことをする。死にたいのか?」
すると、正面の卓からスラリとし、スカジャンを着た客が袖を捲り立ち上がってきた。
髪は濃い深い青で、前髪を上げ、ツーブロックを見せつけるようだった。
両指には全てリングがつけられており、左腕には時計とバングル、右腕にもブレスレットがあった。
「ふくらはぎ、ってなんか語感もエロいし、見てもエロいっすよねえ。おっちゃん。いや、ふくらはぎって言っても伝わらないかな、なんて言えばいいのかな?」
そう言い親指を顎に当て、首を傾げた。
「今日は推しにお忍びで来たんすよ、オフなの、オフ」
笑いながら、彼は卓の上に落ちた氷を指で弾いた。
「何を言うとるのかわからん」
そういうと彼のところまで行き、頬を叩こうとした。
そのモーションに入った瞬間、左の薬指に手を当て、呟いた。
『縛』
リングがチカっと光り、チリッと音を立てた。
すると天狗のような姿をした客はピタリと止まり、震え始めた。
「推しにお忍びで、なんて親父ギャグ、通用しねえかあ。爆笑モンだと思ったんだけどな」
すると左人差し指を突き出し天狗の額に当て、囁いた。
『S'asseoir et regarder le ciel、座って空を見上げてごらん』
天狗は全身に電流が流れたかのようにブルブルと体を震わせ、座り込み、頭が天を仰ぎ、異形の顔から元の顔に戻った。
「ちょっとやりすぎだよ、おっちゃん。──南無…いや、洋物が良いって言ってたかな」
そう言うと彼はネックレスの十字架を握ったあと、十字を切った。
「赦してやってね、俺もこれ飲んだら出るから。あ、俺とあの人の領収書ちょうだい」
私たちはボーッとしていた。
ボーイだけが急いで領収書を渡した。
「げっ、150万!?俺の50倍も飲んでんじゃん、もっと早く気づけばよかったなー!」
と大袈裟に頭を抱えて見せた。
ボーイは問う。
「あ、あの、宛名は…」
「宛名なしで大丈夫でーす、クレカで支払いまーす」
とてもではないが、150万円も出せるような風体はしていない。
しかし、サラッとクレカを渡して支払いを済ませた。
私は聞いた。
「あ、あの、お名前は…」
「名前?川幡穣、この辺でジョーって言えば大体の店でボトル飲めるから、よかったら飲んでね!」
そう言い、スカジャンを靡かせ去ろうとすると、焦った表情で振り返って言った。
「やべ、NEONのロクちゃんにだけはここで飲んでたって内緒ね!キャッチの時NEONの子にだけは内緒で!よろしく!」




