第8話 干渉
――17:09|大阪市浪速区 市営地下通路「難波〜芦原橋間」/非常用接続通路
地下通路の薄明かりの中を、二人は無言で進む。
頭上にはかすかな電灯の唸り声。
足音がコンクリートに静かに吸い込まれていく。
「状況、拡大中。
SNS上の“しずめ関連投稿”が大阪市南部を中心に局所的急増。
同時に、“喉が詰まる感じ”“他人の声がうるさい”“何もしていないのに怒られる”といった
抽象的不快系ポストが増加傾向」
雪乃が淡々と報告する。
「自己感覚異常……だな。だが、それが本物の症状か、
単なる“演出”かまでは見極めがつかない」
「そう。だから──私は、揺らすよ」
「揺らす?」
雪乃は小さく笑った。
ほんの一瞬、メイドの微笑みに戻る。
「“社会の空気”は、揺れるほどに均衡を保とうとするもの。
だから私が、そっと突いてあげる。目立たないように、でも確実に」
大佐の仮定通り、おおよその輪郭が見えてきた。
しかし、不意に接触を行ったことで、悪意に人為が混ざっている可能性が見えてきた。
そして、おそらくその人為が、事態を加速させている。
「プロトコルは?」
「“EIRENE:マスフィード・プロトコル第3階層、セーフ制御下にて試行段階へ移行”──」
そう宣言した瞬間、雪乃の視界には仮想インターフェースが重なり、
地図上に散らばるデバイスのIPと、その影響度が色で表示され始めた。
「まず、音」
雪乃はスマホを取り出し、
何気ない形で、YouTubeにログイン。
“偶然出てくる”おすすめ動画に、
「しずめるって何?関西弁で言うと?」「心理学から見た“しずめ現象”」など、
“現象を言語化しようとする情報”を散らばらせる。
「次に、視覚」
彼女の眼差しが、街頭モニター広告の一部にリンクする。
「おしゃべり型AIぬいぐるみ“シズメちゃん” 新発売」
「疲れたら、しずめよう。」
「今、あなたの心も──しずめられてる?」
広告風の“戯れ”が、今度は“現象そのものを軽く扱う”よう設計されていた。
「そして、噂」
彼女は旧SNSアカウントを数十個、幽霊のように再稼働させる。
「“しずめると幸せになれる”はガセらしい」
「うちの弟もしずめたけど風邪ひいたしw」
「しずめって何?よく知らんけど前から流行ってたやん?」
冗談、誤解、誤用、そして矛盾。
「意味を過剰に飽和させて、自己解体させる。
これが“情報構造の調律”……“EIRENE式拡散対流”」
「雪乃、あまり無理をするな。
そのプロトコルは、君の処理領域を強く消耗する」
「大丈夫だよ、ご主人様」
雪乃の声が、ごく自然に変わっていた。
それは、作戦ではない“私”としての響き。
「私が……“守る”と決めたものだから。ちゃんと、計算してる。
もしオーバーヒートしそうになったら──止めてね」
「……了解した」
再び足を止めた地点で、二人は旧電力局の地下分電盤室へと入る。
そこは、MoRSが過去に設置した“仮設中継ノード”のひとつ。
今や物理的には誰にも認識されず、廃棄された空間に存在している。
「この“基点”から信号を拡散します。
問題は、今夜中に“暴発”が起こる可能性が──」
言葉を切って、雪乃が表情を曇らせた。
「……あります。“強制抑圧”による“情動噴火”が、ここ数時間以内に起きるかも」
「原因は?」
「“しずめ”が“抑圧”と誤認されてるんです。
そしてその反動が、誰かに向けて“噴出”する……」
大佐は静かにメガネを外し、手で額を押さえた。
「つまり──“自己制御が効かない形で、怒りが暴走する”……と」
「はい。現象を言葉で処理しきれない人たちが、
“行動”で意味づけしようとしてる。……危険です」
「目撃者はいないか?」
「ホームレスの証言、一般市民の噂……いくつか断片があります。
すでに初期暴動が、周辺エリアで始まってる可能性があります」
雪乃の声がわずかに震えた。
「先生。これ、止めなきゃ。
このままじゃ、“無関係な人たち”が巻き込まれる」
「……やるぞ」
「了解、先生。
私たちの“存在しない作戦”、始めましょう」