第6話 浸透
――15:08|大阪・浪速区/旧商業エリア境界部
アーケードの骨組みだけが残る商店街跡を、
乾いた風が抜けていく。
看板も色を失い、かつて賑わっていた時間の断片だけが、空気の中に沈殿していた。
「……ここ、変わっちゃったね」
雪乃がぽつりと呟いた。
陰鬱な空気が漂うその空間では、人が極端に少ない。
それゆえ、同化することは非常に困難だった。
ウィッグと派手な服装を取り外し、
今はグレーのワンピースに身を包んだ彼女は、“ただの人間”を演じている。
「10年前にはまだ営業していたはずだが、現在は廃区扱いだ」
「でも、妙だよ」
「妙?」
「全部“綺麗すぎる”の。人がいなくなった割には、落書きもない。ゴミもない。
でも、情報だけは……散らばってる」
そう言って雪乃が指差した先には、壁に貼られた多数の紙片。
手書きのメモ、印刷されたビラ、意味を成さないイラスト、切り抜き文字。
その中の一枚に、大佐が手を伸ばす。
《しずめてから、燃やせ》
「……暗喩か?」
「わたしは“感染”に近いと思ってる。
でも、これは細菌じゃない。“意味”の感染。
発話した人間も、書いた人間も、なぜそれを選んだのかわかってない……そんな感じ」
負の感情の連鎖を引き起こすことは容易だ。
しかし、単純ではない。
連鎖しやすい環境と、空間そのものが負を連想するような雰囲気。
複数の環境的要因の積み重ねが、意図的な悪意を感染させる環境としては十分だった。
「それにしても、時の流れは残酷だな。」
「そうだね。あれの影響で、雪乃の知っているだけでもたくさんの地域が廃れたよ。」
この辺りはバブル経済によって賑わいを見せ、崩壊後もそれなりに賑わいを見せていた。土地の価格上昇や物価高などに加え、大規模な感染症の蔓延により、結果として過疎を招いた。
人々の中で、耐えしのぐことができなかった人たちは耐えられず崩壊寸前の町に集まっている。
しかし、そんな精神的に不安定な人々が集まると、空間そのものを不安定という概念が支配する。
そのような街では、自然と意味のない不安が見え隠れするのは当然だった。
「しかし、意思のある不安定さというのは厄介だな」
大佐は独り言を言いながらポケットから黒縁の眼鏡を取り出す。
一見して普通の眼鏡。しかしそれは、網膜に直結する高機能HUDだった。
「“EIRENE:調律インターフェース、投影開始”」
起動とともに、視界に半透明のオーバーレイが広がる。
壁のメモに施されたインクの残留粒子が解析され、
作成時刻、筆圧、使用紙質などが浮かび上がっていく。
《初期レイヤー検出──共通ノイズ:‘シズメ’》
「この“シズメ”って言葉、ほかでも出てたよ。
SNSのポスト、コンビニのレシート裏、駅の掲示板にまで。
でも、明確な出所はないの。不気味なくらいに……」
「感覚というのは時に理屈を凌駕する。」
「誘導だな。“無根拠な反復”による自動選択誘導。
行動の意識的動機を奪い、潜在記憶へ“言語”を定着させる手法」
不安定な領域では、人々は正常な判断能力を喪失する。
その結果、心理的誘導が行いやすい環境と言えるだろう。
「でも、誰がそれを仕込んだの?
MoRSの情報網でも“発信源”が追えてない。──ねぇ、おじさん」
「今は仮説すら立てられん。
だが……この街は“言葉”で侵食されてる。まるで、呪いだ」
「……うん、同感」
風がまた吹き抜け、紙片が一枚、宙を舞った。
その裏には、薄くこう書かれていた。
《まわって まわって おちていけ》
大佐は、唇を小さく噛む。
――15:34|大阪・浪速区/旧商業エリア境界部 路地裏
「先生……あ、違った。おじさん、これも見て」
雪乃が拾い上げたのは、誰かが落としたスマートフォンだった。
画面は割れていたが、電源は入っており、SNSアプリが自動で起動している。
「“#しずめてから”が、約12万件。
24時間で急激にトレンド上昇、でも内容は全部バラバラ。
誰かが祭りを仕掛けてるのか、それとも……」
「統一性がないこと自体が“統一された異常”か」
「うん。たとえば──」
雪乃は画面をスクロールしながら、いくつかの投稿を読み上げた。
「“明日もしずめてから会社行く”」
「“彼氏しずめたら寝れたわ”」
「“買い物行く前にまずしずめよう”」
「文脈が狂ってる」
「そう。“しずめる”って言葉が、明確な意味なしに文中に挿入されてる。
しかもユーザー本人はそれに違和感を覚えていない──」
大佐は小さく眉をひそめた。
精神的に安定していない者、とりわけ若年層は意味のないものに意味を持たせることが多々ある。
“それな”や“り”といった略語に由来する造語といったものが国内で爆発的な流行を起こしm社会に定着する事がある。
それがたとえ本来は意味を持たない者であっても同様だ。
「社会的同調を偽装したミーム汚染……“言語感染体”の類か」
「たぶん、そう。しかもこれは“文字”じゃない。“意味”の感染。
読み手の思考じゃなく、“言葉”自体が思考を乗っ取るタイプ」
雪乃の表現は正しい。
本来意味の持たない言葉が多数使用される。
それだけで意味を持つ準備が整っている。
しかし、その意味を持たせるのは自然でもなく、集団でもなく、一個人であること。
それが大いに問題である。
例えば、“に”という日本語が特に意味も持たないまま大流行し、流行語にまでなってしまう。
そういった状況で、一個人が多方面に対して、「“に”とは不満そのものだ」と定義づける。
そういった広告的な手法をとるだけで、元から意味のない単語は意味のある単語へと変化する。
しかし、本質はそこではない。
「被害者が誰かわからない構造だ。
自覚すらないままに誰かが拡散して、誰かがそれを模倣して……」
「ねぇ、おじさん」
雪乃がふと、大佐の袖を軽くつかんだ。
本来、何か悪意のある言葉というのは発するものが明確であるから批判される。
であるから言いたくても言えない環境が形成されるが、今回のように集団的に悪意のある単語が利用されると、人々は“みんな使っているから”とないものに責任を転嫁する。
だからこそ、根源を見つけることも困難になる。
大佐は冷静に分析をしながら根源について思考を巡らせる。
深く、そしてさらに深く、根源を探して・・・・
思考を加速させる大佐をみて雪乃は声を掛ける。
「……何か見える?」
その瞳に宿るのは、分析でも演技でもない、
純粋な“確認”だった。自分だけが異常を感じているのではないかという、
静かな焦燥の気配。
大佐が深く潜ってることを心配したからでもあるが、雪乃は大佐が潜り過ぎて壊れないため“確認”という動作で地上へ引き上げる。
「見えるさ。明確に“何か”が動いている。
だがまだ……構造が見えない」
「うん……。それだけ、なんだ。ちょっと、安心した」
大佐にはある程度の流れが見えていた。
そして、それはあの時雪乃に伝えなかった仮説、あえて隠した可能性。
それが、事実である仮定となっていた。
──一瞬の沈黙。
商店街のシャッターが、遠くで一枚、ガコン、と音を立てて閉じた。
それを合図にしたかのように、
雪乃の耳元のインカムに、わずかな電波変調音が走る。
「副官ユキノ──報告信号を検知。“観測者・犬鳴伍”より断片ログ到達」
「MoRS構成員か?」
「はい。浪速区内、生活困窮者支援施設付近に配置された非正規観測者です。
内容、音声ログ──再生します」
≪……ったく、また同じ言葉でぶつぶつと。
まわってまわって落ちていけ? ……どっかで見たな、そのフレーズ。
あの子も言ってた、“しずめたら楽になる”って……なんなんだよ一体≫
音声は20秒程度。途切れる直前、ガラスが割れるような音と、
誰かの嗚咽がわずかに混ざっていた。
「……観測者、失踪か?」
「か、もしくはログ送信後に自主的に離脱。場所を特定します」
雪乃は指先でHUD空間を操作し、送信地点をマッピングした。
「……“市営住宅4区画──廃棄ブロック”です。
定住者が存在しないはずの区画に、通信反応あり。
行きますか?」
「いや、まだ“収束”の段階ではない。
今は“浸透”を確認し、対処のタイミングを見極める時だ」
「了解、“おじさん”」
にこりと微笑んだ雪乃のその笑顔には、
この街の崩れゆく静けさとは裏腹な、明確な温度があった。
その微笑みを見て、大佐は、思わず目を逸らした。
彼女のその“明るさ”が、まるで──崩壊を包み隠す“緩衝材”のように見えたから。
「少し、深く潜ってみるか。」
雪乃に確認を指示した大佐は、仮定を断定するために、思考を加速させる。
―まず初めに、大まかな流れを読む。
―今回のように、情報が人々の精神に悪影響を及ぼす事象。
―これは、たいして珍しいことではない。
―加えて、今回は言葉という媒体を用いている。
「であれば言語的誘導だ」
―現在の仮定“言語的誘導を用いて〇〇を行う”
―不確定要素は目的である。
―現時点で観測されているのは、生活困窮者から始まった社会的不安の増大
「これは過程に過ぎない」
―不安が高まると治安の悪化や暴動につながる。
―しかし日本という国では、市民が国や行政に対して実力行使をする例は少ない。
―だが、不安が限界を突破したらどうなる?
「そうだな。それが最も妥当か。」
「おじさん?」
「雪乃。仮定終了だ。」