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天上のダイアグラム  作者: R section
第2章 世論の枷

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第19話 日常

東京・夜明け前──

新幹線の窓から見える都市の灯りは、まるで神経細胞のように網の目を張り巡らせ、夜明け前の眠らぬ都市に微細な生命の気配を伝えていた。

一度見たら忘れがたい大阪での出来事──あの“白い部屋”と“少女”の記憶──は、しずめの中で既に日常のノイズと化しつつあった。

それが“意図的な忘却”ではないことに、彼女自身もうすうす気づいていた。

雪乃は、白いフリルのついたワンピースにカーディガンという、控えめで地味な装いだった。

ただ、今の彼女は“大佐の助手”という役割で、この新幹線に座っていた。

「先生、そろそろ東京です」

静かに目を開けた大佐――いや、表の顔である“先生”は、膝の上に広げていた講義資料に目を落としながら、小さく頷いた。

「……ありがとう、雪乃」

「本日、予定通りの時間で講義です。その後は“通常の午後”に空きがございます」

その“通常の午後”というのは、いわばMoRSの作戦時間帯を意味していた。

「しずめの様子は?」

「問題ありません。今朝も定刻通りに自宅を出て、学校に向かっています。昨晩はご主人様との会話の後、安心して就寝したようです」

「……そうか」

会話はそれで終わる。

だが、心の中では終わっていなかった。

雪乃はしずめを“対象”ではなく、“家族”とみなしていた。

そしてその認識は、大佐にとっても同様だった。


東京・午後:某大学病院

「ありがとうございました。それでは、また次回」

最後のクライアントを見送り、診察室の扉を閉めた先生――否、大佐は、深く息をついた。

淡い木目の壁、観葉植物、小さな加湿器の音。それら全てが“表の顔”を演出する背景だった。

雪乃は静かに後片付けをしていた。

テーブルの上に並んだ紅茶のカップを片付け、カルテを整理し、ファイルを棚に収める。

その一連の動きには、無駄が一切なかった。

「先生、本日は以上です。──それと、午後の件ですが」

「……切り替えよう。モードをMoRSに。報告を」

雪乃は一礼し、微かに視線を鋭く変えた。

「EIRENE:接続確認。調律開始」

瞬間、診察室の壁に埋め込まれたディスプレイが無音で点灯し、外界との隔絶が確認される。

それと同時に、雪乃の口調はいつもの丁寧なメイド口調から、戦術AI本来の簡潔かつ正確なものへと変わった。

「帰還中に収集した関東圏の都市データに“微弱なパターン変動”を確認しました。

具体的には、都議選における投票意識の変動波形に、ミーム的影響が見られます」

「白票……か?」

「はい。確定ではありませんが、掲示板とSNSを中心に“白票を投じることが良い”という非公式の情報が、感情的共感を伴って拡散され始めています」

大佐がすぐに白票と答えたことには理由があった。

雪乃を創る少し前、参議院選挙の公示前だった。

大佐は、一般企業に就職してサラリーマンとして働き、日本という国のあり方、人間の愚かさに対して日々憎悪を抱いていた。

そんな中、常に自分の能力を用いて、何ができるか。

その時の大佐の最終手段は日本における革命行為

現政府の打倒と自らが指導者になることで、日本という国を解体して再構築する。

非常に暴力的で破滅的な考え方をしていたが、未だに有効な手段だとは考えている。

もしも、選挙があるのであれば、言論による誘導を用いて、白票を投じるように細工する。

結果、それを口実に反乱を起こす計画を考えたことがあったからだ。

「それが誰かの意図なら……また“作られている”可能性があるということか」

「可能性はあります。対象特定には、さらなる観測が必要です」

静かに、大佐は椅子に座ったまま天井を見つめた。

「私がまだ幼いころ、大佐のPCにあった、例の計画・・・その一端にもありましたね。」

「そうだ。しかし、流れる血が多すぎる。」

──これは兆候だ。

あの“しずめ”が見せた無垢な力の余波か、あるいは誰かが動いた痕跡か。

どちらにせよ、もう日常は単なる“平穏”ではいられない。

「状況を整理しよう。次の行動は、明日の深夜以降とする。雪乃、データを解析しろ。

それと……しずめには、“なるべく普通に生活を送らせろ”。それが彼女にとっての“防壁”になる」

「了解しました、大佐」

調律は、静かに始まっていた。

世界を壊さず、しかし放置せず、正すための陰なる手。

それがMoRSの、そして彼らの仕事だった。

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