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天上のダイアグラム  作者: R section
第1章 人知の外

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第16話 収束

――20:45|大阪府内 MoRS臨時拠点(貸しビル地下4階・臨時観測室)


「自己同一性の乖離率、想定より低下。記憶混濁はあるが、固定化は回避。

 ミーム干渉の再発リスクは“中”……予測範囲内です」


雪乃の報告に、大佐は一度だけ軽く息を吐いた。


「……“しずめ”という言葉は、“名前のように見せかけた概念”か?」


「その可能性が高いです。ただし、彼女があえてそれを書いた時点で、それは“彼女のもの”になったとも解釈できます」


「つまり、“与えられた”名前ではなく、“拾い直した”名前か」


「ええ。本人の再定義が始まっています」


「なら、我々はその“再定義”を“壊さないように”支援するだけだ」


「はい、“教育”ではなく、“共に在る”……ですね」


雪乃はその時、気づいてしまった。


大佐はこの景色を、確保を決断した時にすでに見ていた事に


あくまでも仮定としながらも、少女にとって“しずめ”という言葉の意味を


だからこそ、拾い上げると知っていた。


観測室のガラス越しに見える個室では、しずめがカップの紅茶を静かに飲んでいる。


部屋にはテレビもPCもなく、本棚に詩集が数冊あるだけだった。


「……大佐」


「なんだ、雪乃」


「この子、……誰よりも、“ここ”に来るべきだった気がします」


「そうだな。だが、“ここ”が“世界の裏側”である以上、彼女の表の顔は“普通の少女”でなければならない」


「了解。では、明日からの“日常”の準備に移ります。学籍データの改竄と、居住地確保」


「よろしく頼む。あの子には、普通の朝と夜を与えろ。──我々の“戦い”を、直接知らないままでいい」


「はい。……ですが」


「?」


「彼女は、また来ると思います。“感知したら”」


「……だろうな。その時は、私たちの“裏側”を、きちんと見せてやろう」


“しずめ“それだけを与えられた少女が無地の用紙にそれ以外の文字をつづる。


それが少女が人間になるための第一歩だった。



――翌週・月曜日|大阪市内・市立桜橋中学校


春の風が吹き抜ける登校坂。


白いカーディガンを羽織った少女は、制服の裾を押さえながら、校門をくぐった。


「……あの子が“しずめ”?」


「転校生らしいよ。なんか、保護者なしで暮らしてるって噂」


「えっ、ひとり暮らし? ウチら中学生でしょ?」


「でもあの子、なんか……空気が違うよね」


誰かがささやき、誰かが観察する。


けれど“彼女”は、誰の目も気にすることなく、まっすぐ教室へ向かっていた。


背筋は真っすぐで、顔には淡い緊張と、少しの覚悟が浮かんでいた。


朝礼が始まると、担任が淡々と紹介を済ませた。


しずめは頭を下げ、小さく名乗った。


「──“しずめ”です。よろしくお願いします」


その声には迷いがなかった。


彼女は“与えられた名”ではなく、“選び直した名”で、自らを再構築していた。



――同日・MoRS臨時拠点 改め “監視班第6分室”(大阪拠点)


雪乃は、三面モニタを前にして、手元の端末で指を滑らせていた。


校内配置のセンサーノード、音声検出、心拍変動。すべて正常。


「“外部からの干渉”なし。構内にミーム的挙動の兆候も見られません」


背後では、大佐が黙って報告を聞いている。


「しずめ本人の心理定数は?」


「安定。“日常性”への適応速度は早く、異常にすら適応できてしまう傾向があります」


「つまり、“自分に異常がある”と認識した上で、それを押し込める」


「はい。彼女自身が“普通であること”を最優先に行動しています」


「それが続く限りは、我々が出る必要はない。……だが、また来るだろう」


「“何か”が、ですね」


「そうだ」


MoRSには見えていた。人類をもてあそぶ謎の存在が


その存在が見え隠れする限り、しずめに本当の安寧は訪れない。


遠くの空に見える積乱雲がいずれ雨をもたらすように。



――翌日・放課後


しずめは、誰もいない教室にひとり残っていた。


手には1枚の紙。そこには、また“しずめ”と書かれていた。


ただし前と違って、少し傾いて、少し雑で、でもどこか“本人らしい”字だった。


「……本当に、これが私の名前なんだろうか」


小さな声が、誰にも聞かれずに零れた。


すると──


「迷ってもいい。ただ、忘れないでください。 その文字は“あなたが書いた”という事実を」


教室のドアの外。窓の外ではない。


教室の中でもない。


音もなく、雪乃がそこに立っていた。


「……どうして、ここに?」


「わたくしは“いつでも”傍におります。必要なら、気配を消すことも」


「……パパ活女子っぽくない」


「そのような設定は、今回の作戦限りですので」


くすっと笑ったしずめに、雪乃は微笑を返した。


「先生から預かっている“もの”があります」


雪乃はそっと、封筒を差し出した。


中には手紙と、薄い端末。


「“いざというときは、これで呼べ”と。先生からです」


「……これって、わたしがまた、誰かの“しずめ”になったら?」


「いいえ。あなたが“あなたでいられなくなりそうな時”です」


少女はそっと頷いた。


「……うん。ありがとう、雪乃さん。先生にもそう伝えて。」


「“おじさん”ではないのですね?」


「……今は違う。……あの人は、わたしの、家族じゃないけど、家族より遠くない」


「……そうですね。わたくしも同じですわ」


そう答えると、雪乃はメイド服の裾を持ち上げた。


はかなげな表情をした雪乃を見て、しずめは少しだけ違和感を感じていた。


「(どうしてメイドなんだろう...?)」


しかし、ささいな疑問はすぐに消えた。


何よりしずめにとって、心からの安息を得たことが何よりもうれしいことであった。

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