第十話「試練」
――冷気が背を貫く。
それは、コヨミにとってこの世界での初めて負った"傷"になった。
(クッソ・・・・!!)
――痛い、痛い。
"料理包丁で指を少し切った"、それだけのことで痛がっていた覚えもないが、それでも痛みに耐性が特別あるわけじゃない。
人生で初めて感じる激痛。
だが、それも感覚からしてかすり傷だ。
でなければ血がもっと溢れてくるはず。
そんな軽い思考をしながら自分に言い聞かせても、それでも痛いものは痛い。
コヨミは慣れていない痛みに耐えつつも、体が一瞬ふらつく。
「あっぶな、クソッ何でこうなるかな‥‥‥ヨウコ、ホルンに伝えてくれよ‥‥‥!」
あわよくば助けが欲しい。
そんな弱音が頭の中に浮かびつつも、コヨミの足は止まらない。
覚悟を決め、何度も枝をかき分けながら森を駆け抜ける。
(クソッ、早すぎる……!)
背後からは、氷を砕く轟音と、冷たい殺気が迫ってきていた。
それは、憎しみや苛立ちからくるものよりも荒く、苦しさをコヨミに吐き出して、押し付けているような感情が見て取れる。
コヨミはその圧を一心に受け、自分のことのように苦しくなった。
体力的にも、精神的にも段々と追い詰められていく。
「はあっ‥‥はあはあ――」
彼女と相対したのはこれが初めてというわけじゃない。
前は本気ではなかったにしろ、あの動きは何かの武道の達人級の動きだった。
だが、今の彼女は手負いかつ貧弱なコヨミがギリギリ逃げられるほどに、ゆっくりこちらを追い詰めてきている。
余裕があるのか、それともないのか。
ともかく本調子とは程遠い様子。
そのことからもシノが暴走している。それだけは間違いない。
だが、理由が分からない。何が原因で、何が彼女をあそこまで追い詰めているのか
――その時だった。
――音が、"消えた"
心臓の鼓動すら、遠くなる。
風の音も、木々のざわめきも、全てが掻き消えた。
そして――
「は‥‥‥」
それは、あの時味わった感覚だった。
——世界から、自分だけが切り離されたような、あの現象。
意識の内側だけが浮遊し、"現実"がすり抜けていくような感覚。
あの時と、同じだ。
「さて、ここからあやつはどうするか?」
耳の奥で声が響いた。
静寂の中に滲み出すような、ねっとりとした声。
それが、頭の奥に直接染み込んでくる。
「お主はこの試練を成し遂げ、彼女を救うことができるかのぉ?」
――誰だ?どこにいる?
"試練"?
"彼女を救う"?
一瞬、背後にいるシノの姿が頭をよぎる。
それ以外に考えられない。彼女がこんな状態になっているのは、何かの"試練"なのか――?
だが、考える暇を与えずに、声は続けた。
「これは、試練。お主に与えた運命その物よ――。」
コヨミがこれから歩み進む道を、まるで"初めから決められていたもの"かのように。
声は、当然のこととして話す。
「ならばそれに抗うことができるか、見ものじゃのぉ」
――抗う?
訳が分からない。だが、それを考えている時間すらも無駄だと言わんばかりに、声は遠ざかっていく。
それと同時に、無情にも現実に引き戻される。
(一体何が、起こってんだ!?)
またもや、前と同様の現象に遭遇した。
自分が何に巻き込まれているのか、それを理解できず頭の中は混乱する。
考えることが多すぎて思考がまとまらない。
「ッつ――!!」
背後――すぐそこに、シノがいた。
その手には、氷の刃が生まれようとしている。
(――クソッ、考えてる暇なんてねぇよ!)
ふらつきながらも、全力で走っていた足が急に止まったのだ。
当たり前だが、彼女に追いつかれた。
コヨミはその状況で、彼女が今まさに放とうとしている"手の動き"を目で追った。
咄嗟にではあったが、それが功を奏し間一髪で攻撃をよける。
攻撃が放たれる前の腕の些細な動きと向き。
そんな一瞬を見切り、コヨミは再び走り出す。
「はあはあ、はあッはあ――」
木々を自分の身代わりにし、何とか攻撃を避けていく。
だが、段々とその植物たちの挙動も何故か変化していた。
木は本来動かないはず。
それがうねり、あまつさえコヨミの方へ枝を伸ばしている。
これは、おそらく彼女の魔法によるものなのだろう。
館を吹き飛ばしていた樹木の幹、あれも同じような動きをしていた。
それと同じ、あるいは似た術なのかもしれない。
(このまま森にいちゃ、道も塞がれていっちまう。どうする‥‥!!)
遮蔽物として使っていたものが無機質な味方ではなくなる。
そんなことになれば、このまま逃げることは不可能だ。
コヨミがそう考えていると、
――ふいに目の前から光が差し込まれた。
今までのような摩訶不思議な異常現象ではない。
この先、森が開けているのだ。
彼がそれに気が付いた瞬間、氷の刃が頬を掠る。
「いッ‥‥」
暴走している彼女の目にもそれが映った。
"認識したこと"それ自体がシノの心をかき乱し、何かの本能か、反射的に彼を逃がすまいと猛攻撃を仕掛けた。
何とか、それをよけながらも、体にどんどんと傷が増えていく。
かすり傷が深くなり血が服に滲み出す。
その痛みに何とか耐えながら茂みを手で掃いのけ、ひたすらに光の方向に足を進めていった。
「――よッし、抜けた!!」
木々の間隔が少しづつ広がっていき、空が視界に映った。
先ほどまで足によく当たっていた小枝や、木の葉の音がしなくなり、木が生えていない大地を足で踏みしめる。
その感触に、コヨミは一瞬安堵した。
――気を緩めてしまった。
瞬間、冷気が背中の方に収束していき何かが放たれる音がした。
気が付く間もなく、喉の奥から熱いものが込み上げてくる。
「ぐはッ‥‥グフッ、げほッげほ‥‥なに゛が――――」
コヨミは自分の手元を見る。
見てしまったのだ。
――そこには、血の塊がだらだらと覆いかぶさっていた。
不意に口元に手を運ぶ。
「げほッげほ、げほッゲホッ、ゲホッ――」
段々と咳込む頻度が増えていく。
血と共に喉から溢れてくる液体は、止まることを知らず過呼吸になる。
気持ち悪い、きもちわるい。
胸を押さえ、横に倒れる。
グラっと視界は崩れ、その時一瞬、自分が逃げ込んだ場所が見えた。
そこは‥‥崖だ。
まさに断崖絶壁、落ちたら生き残るビジョンが一切見えない死の山岨。
森を抜け、多くの魔の手を掻い潜り逃げた先が"これ"だ。
コヨミにとって絶望以外の何物でもない。
「あ――グッ‥‥‥」
倒れた時に頭を打ち、視界がブレる。
だがそれが気にならないほど、痛い、痛い、痛い。
激痛、なんて言葉が生ぬるいと感じるほどに痛い。
感情と意識が裏返りそうなほどに、苦しい。
その元凶が何なのか。
そのことを考えることで何とか、意識を保とうとする。
これが精一杯だった。
頭を傾け、横たわった自分の体に視線を移す。
脳に伝わる痛みを追いつつ、何とか目を開いた。
(――あ、え。)
心に二文字浮かばせること、それしかできなかった。
何故なら、――腹に氷塊が刺さっていたからだ。
無いはずの"モノ"それが自分の体にある。
逆に、中にあったはずのモノが今は外に出てしまっていた。
体をつなぐ胴。自分の胃腸。
それが、突き刺さった氷塊の先に飛び出ていた。
事実を脳は否定する。
現実を目は捉えられない、叫びたくても血でつっかえて声が出ない。
そして心は絶望に蝕まれていった。
痛い、苦しい、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い。
苦しい、苦しい、気持ち悪い、何でこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
間違えた、間違えた間違えた間違えた間違えた間違えた。
誰でもいい、助けてくれ。
止めてくれ、止めてくれ、もう嫌だ、痛い痛い、気持ちワルイ。
抗えない沼にコヨミは引き釣り込まれていく。
痛みと絶望を抱きながら、血の涙を流す。
人間は現実に打ち勝てない。
それを体現してしまうかのように、悪感情が溢れてくる。
抑え込もうとしても、蓋をしようとしても抱きたくない言葉が頭に浮かぶ。
そんな永遠とも感じられるほどの一瞬の中に、コヨミは今いる。
「‥‥‥――ほ、るん、どこ」
――声、声だ。
コヨミが待ち望んだ音が聞こえる。
自分がもう、出せなくなったもの。
それがたとえ他人のものであっても、コヨミにとってはそれが救いになった。
落ちて行っていた意識を引き戻す。
死がたとえ近くても、それが一瞬だけだとしても、コヨミは抗った。
何とか開いた瞳を彼女に向ける。
一瞬の気力でコヨミが視たのは、彼女の纏う感情だ。
元は真っ白で、虚構しかなかった彼女の色は黒く浸食されていっていた。
今、それに合点がいった。
あれは、"何かに支配されて色を変えていった"のだ。
それはあの神が仕込んだものに違いない。
――そうだ。これが、『試練』と言っていたものだったのだ。
実際、見た限りでは全て黒色に飲まれてはいない。
まだ、彼女の中に『シノ』が残っている。
だが今更だ。
もう自分にどうすることもできない。
「げほッげほ――グフッ」
息がもう続かない。
未練があっても、後悔に打ちひしがれていたとしても、運命は待ってくれないらしい。
――死ぬ。
(あんだけ、大口叩いたんだけどな。やっぱり、信頼なんてクソだ‥‥‥)
他人に裏切られ、それを嫌悪し奪われた。
ただ、結局人間は皆同じものだったのだ。
――自分すらも自分を裏切る。
ヨウコに掛けた言葉も、その時の気持ちも嘘偽りはなかった。
だが、それでも死の間際、それを後悔してしまった。
こんなことに首を突っ込まなければ‥‥と。
頭の中に怨嗟する感情。
それは全て自分に向けられた。
最後の最後まで、結局自分よがりなままだ。
――熱い。
体中に、熱がこもる
氷は本来、冷たいはずだが、
体温を上げて"痛み"で意識を失うまいと。体はまだ熱で抵抗しているようだ。
だがそれとは逆に、どんどんと、視界が暗くなっていく。
――意識が遠ざかる。
熱くて、痛くて、苦しくて、そんな感覚も消えていく。
――――寒い。
腕と左足の感覚はもう完全にない。
開けていた眼も瞼が重く、口は
声を出したくても――‥‥‥あー、動かない。
このまま死ぬ。
理解できる、これが最後の壁であり、‥‥絶対に乗り越えられない。
これが詰みだ。
――ああ、結局何もできなかった。
―――は‥‥‥に無事会うことができたのだろうか。
そうだといいなと、願う。
―・ ・・
―・・― ―・ ・・
――――‥‥‥‥死にたくねえよ。
その時だった。
自分という人間を絞り出し、出てきた最後の感情。
"あきらめたくない"という言葉。
それを誰が聞き届けてくれたのだろうか――返答が確かに来た。
「ならば、起こしてやろう。」
頭にこだまする嫌な声。
それは、つい先ほど聞いた声だ。
聞きたくない、それでも縋れるのは"こいつ"しかない。
――誰でもいいから助けてほしい、そう願ったのは自分なのだから。
「お主の"絶望"と"死"を対価に、権能を授けよう。果たして、扱えるかは見ものじゃがのぉ」
(――黙れ。いいから、あるだけ全部俺によこせ‥‥!!)
「‥‥フフフ、よかろう。精々足掻いてみるがいい」
その言葉を最後に――タカシロ・コヨミの命はその色を失った。