けれども、私は貴方と一緒に生きたい
妹視点です。
私には義兄がいた。
私が本当に幼い時から、少し時間が経って色々と考えることが出来るようになるまでの期間、私は日本で暮らしていた。その時に義兄が出来た。
私のママと彼のファーターが結婚して、突然私達は家族となった。最初は全くついていけなかった。
幼少の頃、とにかく引っ込み思案、更にはお子ちゃまだった私はこんな急展開にはついて行けずに一人の時にただ泣きじゃくるだけだった。
家族と接する時だけは引っ込み思案であまり喋らない子になり、一人になると私は泣いていた。
お子ちゃまな私でも今のママが幸せそうなのはわかっていたから。それを崩すことは出来ないと思ったから…だから私は一人で泣いていた。
「へいへい! どうしたんだ? そんなに泣いて…やっぱり俺達のことは認めたくないかい?」
そんな泣いている私を、一人の男の子が見つけた。
「そりゃあさぁ…俺も最初はなんでって思ったけどさ、それでも新しく家族が出来るのはいいことだと思うんだよな…君はどう?」
その声色は優しかった。あまりにも優しそうな声だったから、私は泣き歪んだ顔をその男の子…義兄に対して向けた。
『…別に! 家族がふえるのが嫌なんて言ってない!!』
その優しそうな声に対しても私は癇癪を起こした。まるで見るもの全てを憎む様な勢いだったと思う。
『ただっ…ただぁ…! ママが私以外を見るのが嫌なのっ! 私だけを見て欲しいのっ!』
私は義兄を睨み付けた。やはり彼はのほほんとした顔をしていて緊張感が全くない。それが私の不満に更に拍車を掛けた。
『貴方達なんかに…!! ママを渡したくなんか……』
「あー、…ごめん!」
私の最大の不満を叫ぼうとしたその刹那、義兄が言葉を差し込む。
「俺、外国語わかんないや…そもそも俺の言葉通じてなかったりする?」
『〜〜〜〜っっっ!!!』
言語の壁が私の不満を台無しにした。自分の全てを曝け出した言葉は何にも伝わっていなかった。
「ば、ばかぁぁぁ!!!」
「あ、それはわかる。…ご、ごめんって」
私は拙く覚えていた日本語の罵倒を彼に対して送る。その言葉に対しても彼はのほほんと言葉を返したのだった。
でも、伝わってなかったとしても一度本音を曝け出したのは事実。
それから私は彼にだけ、ほんの少しだけ懐いた。それはずっと育まれ続ける。
─
私は頭がいいらしい。元々母の影響で日本語を聞き取ることは出来ていたが、いずれ自分でも話せる様になっていた。
母は日本語をドイツ語に翻訳する仕事をしていたのだ。
言語の壁はすぐに取り払い、私は彼と一緒に時を共有していった。逆に彼は全くドイツ語を覚えてくれなかった。
義兄曰く、出来ないものをやろうとするのは無駄だ。とのこと…一応やろうとしてくれた形跡はあるが、それでも無理だと悟ったのだろう。それならば仕方ないと当初も今も私はそれを許した。
自分に出来るからと相手にそれを求めるのは傲慢だ。出来る私が彼に合わせればいい。だから余計に日本語を習得する時間を早めたという背景もある。
私は色々なことを理解するのが早かった。だからすぐに家の雰囲気が悪くなっていることにも気付いていく。それは義兄もそうだった。
幸せは半年しか続かなかった。
義兄はそこまで頭が良くはなかったが、物事の機微を察する能力には長けていた。母と父が険悪な空気を醸し出せばすぐさま私を自分の部屋に招いてくれた。
そんな日々が続いていく中、ふとした時に私は彼にこう聞いた。
何故ここまで私を気に掛けるのかと、最初からそう、なぜ貴方はそこまで私に嫌悪感を抱いていないのかと。他人に優しく出来るのかと。
そう聞くと、彼はまるで当たり前の様に…。
「え、だって俺普通にカノンと仲良くしたいし、別に特別気に掛けているつもりはないよ。家族なんだから大切にしようと思うのは当然だろう?」
私が悩んでいた他人という線引きなんて彼には全くなくて。
「それにさ、最近親父とお義母さんの雰囲気が険悪だろ? でもそれは二人の感情で俺達にとっちゃ関係ないというかぶっちゃけ迷惑でしかないだろ? なんか居た堪れない空気になるし」
親の影響なんてどうでもいいと断言して。
「だからさ、せめて俺達だけは仲良く過ごしたいと思うんだよ。親とか兄妹とかそんな面倒に縛られないで、俺とカノンの関係をこれから作っていこーぜ!」
満面の笑みで、彼はそう言ったのだ。
「血が繋がってなんかなくてもいつか本当の家族になれる。家族になろうと思えばより強固な絆が出来る」
きっとそれは彼にとっては何でもない言葉で…彼がよく見る戦隊もののヒーローが言っていた言葉によく似ていて、ただそれをなぞっただけで。
「そしたらさ…俺達、ずっと一緒にいられるよな!」
だけど、その言葉は心に深く突き刺さった。それは現在でも抜ける気がしない。
その日、私は本当の意味で彼に好意を抱いた。そのあどけない顔が今でも忘れられない。胸の高鳴りを今も覚えている。
幼い身で調子に乗っていると言われても仕方がない。けど、それでも…。
あの日、私はどうしようもなくこの人を愛しいと思ってしまったのだ。
─
私の母と彼の父が離婚した。
理由は単純、両者が嫌悪感を我慢出来なくなったから。
離婚届はすぐに受理され、私と彼は兄妹ではなくなった。書類上では単なる他人でしかなかった。
ドイツへ旅立つ飛行機、彼の父親は見送りには来なかった。
当然だ、むしろ離婚相手の見送りに来るのは稀有な例だろう。私は母と二人で空港に佇んでいた。
『お母さん、少しここから離れるけど…一人で座っていられる?』
『うん、大丈夫だよ。ママ』
何か用事があったのだろう。それともお手洗いに行きたかったのか…母は私から離れていった。
言われた通り空港の待機場所で黙って座る。
そんな時だ。
「おーい…」
小さな声だ。だけど私はその声を絶対に聞き流すことはない。
「義兄さん…!?」
「よっ」
彼が無造作に私の横の空席に座る。やはり彼はのほほんとした顔で私を見ていた。
「や〜、今日日本を出るならそうと言ってくれよな。親父からポンと告げられた時はすげぇ焦ったわ」
「な、なんで…どうして…き、来てくれたんですか…?」
先程まで使っていたドイツ語を捨てて、捨てた筈の日本語を喋る。もう、話すことはないと思っていたのに。
「どうしてって、そりゃ会いたかったからだけど…ダメだった?」
「いいえ…! …でも、私達はもう家族じゃない。ただの他人です。…だったらもう会う必要がないじゃないですか…」
自分は今必要のない言葉を喋っている。伝える必要のない言葉を伝えている。
綺麗な記憶だけを与えたかった。
あの日、母と一緒にあの家を出ていった日…その時までは我慢出来たのだ。
仕方ない。もう二度と会うことはないけれど、また、いつか会えたらいいね。そんな当たり障りない言葉だけを伝えられた。彼もそれで納得していたのだと勝手に思っていた。
それでよかった。後はもうこの記憶を封じて、向こうで生きて行けばよかった。
何も考えることはなく、何も動じることはなく…いずれ時が全ての情緒を流し込んでくれると思った。
……なのに。
「なのに、どうして会いに来てしまったのですか? …会いに来てくれたのですか…? もう二度と、関わることが出来ないのに…」
嬉しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうで…感情を堪えきれなかった。
もう会えないのに、もう喋ることはないと思ったのに、もう触れ合うことはないだろうと確信していたのに…そう思って心を備えていればこの溢れる涙を我慢出来た筈なのに。
「…どうして、あなたと離れたくないという気持ちを消させてくれないのですか…?」
伝えたくなくて、伝わっていて欲しかった言葉をつい漏らしてしまう。…涙はどうしても止まらない。
「……俺、さ」
私が泣くとは思ってなかったのだろう。彼はどうしていいかわからずといった感じで私の肩に優しく触れた。
「正直今がどんな状況になっていて、どうしてカノンと離れてしまうのか…あんまり理解出来ていないんだ。…理屈ではわかるけど、感情がついて行けない」
辿々しくも、彼なりに言葉を考えてくれている。数年過ごしたから彼のそういう機微もよくわかる。
今、彼は真剣に言葉を紡いでくれている。
「けどさ? 結局俺達は子供だからさ…先生とかが言うように大人の言うこと聞くしかないんだと思う。親の言葉に逆らう強さを俺達は持っていない」
「…だったら、あなたと離れるのが仕方ないと…言うんですか…?」
今更ながら意地悪な言葉だったと思う。だってそう言われても“はい”としか言いようがない。
ただ、私が“いいえ”と言われたいが為の言葉だ。そんな言葉でしかなかった。
でも。
「あぁ、今はそうだな」
彼にとって、二択というのは小さ過ぎる指標でしかなかった。
「……今?」
その言葉の真意がわからず、また私は聞き返す。
彼はその言葉にすぐには返答しなかった。優しく微笑みながらも、何処か真剣な表情で私を見ている。
「俺、中学になったら部活に入るよ」
突拍子もなくそんな言葉が届いてきた。
「陸上部。…俺、走るの好きだし得意だからさ」
「…だからなんですか」
確かにこの人はいつも走っていた。鬼ごっこで彼に勝てた人は見たことがない。彼の足の速さは私はわかっている。
…けれども、その脈絡もない言葉が理解出来なかった。この人の言っている真意が全く察せなかった。
だからこそ、次の言葉を貰った時に来る衝撃は大き過ぎた。
「高校でも頑張って、もしかしたら大学でも頑張って…いつか世界大会に出てそして…いつか、絶対カノンがいる国へ向かう。そして、そのままカノンの下まで走っていってみせる」
「 」
え…? と、反応することも出来なかった。頭の中には空白だけが残っている。
「……関わることが出来ないなんて寂しいこと言うなよな。俺だってカノンと離れ離れになるのは寂しいよ。…だから、俺、頑張るな! いつかカノンと再開する為にずっと頑張るから!」
今も私の涙は止まらない。その涙を彼は無造作に来ている服で拭う。
「だから、もう泣き止んでくれ…な?」
涙の意味はとうに変わり果てていたのに、余計に私は涙を流してしまう。
胸に刻み込まれた想いが再燃する。忘れようと思っていた想いが更に刻み込まれる。
もう絶対、二度と忘れることのない傷を彼は私に与えた。
考えていたことが反転する。
もう二度と忘れない。もう二度とこの想いを捨てない。
ずっとずっと、この傷を大切にする。
この恋しさを…愛しさを…踏み躙ることなんてもうしない。
「…は、いっ!」
私は涙でぐちゃぐちゃになった顔をゆっくりと変えてそう返事する。
それは不恰好ではあったけれど、その時に出来る精一杯の笑顔だった。
「…うん。じゃあ、またな」
彼は何でもない様な言葉でそう言う。まるで明日にでも会えるとでも言いたげに。
「また、ね…お兄、……ううん。義明さん…!」
この人はもう義兄ではない。単なる他人。
だけれども、他人だからこそ…私は貴方と共に生きることが出来るのです。
─
あれから六年が経ち、私は日本で言うところの高校一年になった。
ドイツに帰った後はそこそこ大変だった。何せ十歳で自分の進路を決める必要があるのだから。そこはまぁなんとか突破したけれども。
なんとか大学進学コースへと進み、なんとか留学する手段を手に入れて、なんとか日本へやって来た。人間、なんとかすれば意外と何とかなるものだと思う。
彼の動向は常に確認している。彼の走りの才能…いや、努力は凄まじいらしく。日本の地方新聞に載るほどには頑張ってくれている。私の為にこんなに頑張ってくれているなんて本当に嬉しい…。
そんな彼の努力をドイツでニヤニヤと眺めている最中、ふと思ったことがある。…このまま待ち続けるだけではいいのかと。
正直に言おう、寂しい…ずっと離れ離れなのは嫌だ。
でも彼が世界に羽ばたくにはもう少し時間が掛かる。…その間黙って待ち続けるのは辛くして仕方なかった。
(だったら自分から彼の下へ行けばいいのでは…?)
急に、天命の様にそんな考えが思い浮かんで、実際にどうすればいいのか、また実現出来るのかを考えて…最終的に行けると確信してからは話が早い。
再婚した親を説得して、学校からの扶助を捥ぎ取り、どうにかこうにかして私は日本へやって来た。
そして今、彼は私が借りたアパートの中にいる。
彼は私のことを覚えていなかった。正確には少し思い出してくれた。
彼は私に伝えた言葉を少しも覚えておらず、私のことを元義妹としか思っていなかった。
まぁ、それはいい。完全に忘れられていたのならアレだったけれど、少しでも覚えてくれているのならいい。…むしろ好都合かもしれない。
きっと昔の彼は私のことを妹としか見ていなかった。あくまで家族としてしか見ていなかった。もしその認識のままなら後々少し大変そうだから。
だから、このぐらいが丁度いい。
昔の様に彼の袖を引く。
これをする時はいつも甘えたかったり、やって欲しいことがあったり…私の我儘を伝えたかったりするときにする行為…要するにお願いと言ってるのと同じだ。
「…お願いします。私と[一生]一緒に過ごして下さい…義明さん」
その部分だけは本当に小さく、か細く…絶対に伝わらない様に伝える。
ここ数年しなかった甘え声、私はこれまでこの仕草を誰にだってしたことはない。私にとって親とか教師とかは頼る存在ではなかった。
私が頼るのは…縋るのはこの世で一人だけ。…私は、貴方にしかそんなことはしたくないのです。
「よーし! 任せろー!!」
その反応はわかりきっていた。
彼は優しい…きっと困っている私を放っておくことはしないと思った。
…けれども、あまりに早くその言葉を返してくれたものだから。
嬉しくなって、愛おしくなって…誰にも渡したくなくなって。
「…ふふふ、有難うございます」
私はその感情を遂に隠さなくなった。この歪んだ執着心を漏らしてしまった。…いや、もう隠さなくていいのだ。だって…。
この人は、こんなにも近くにいるのだから。
「どうか…末永くよろしくお願いしますね? 義明さん…?」
微笑みながらそう伝える。
もう、絶対に離れない。
次か次の次の話でラストです