Fire Lover
冷蔵庫が突然爆発した。牛乳や納豆、冷凍保存してあった今日の夕食が、全て燃え上がる。
不燃物を燃やす臭いが部屋中に広がった。鼻をつく臭いが、私の眼前を覆う。
冷蔵庫が燃え上がったことにより、家の様々な物に引火する。その様は、赤い魔物に全てを引きずり込まれているかのようだった。
私の城は、一日で消し炭と化した。
翌日。冷蔵庫を作った会社から賠償金が渡された。家のローン等を考慮すると、その金額は私が元の生活をするには足りなかった。街をただただ歩く。何もかもが未定の時に歩くと、自分がどこにいるのかわからない浮上感を得る事がある。この浮上感は、心地良いものでは無い。私は一日の半分を浮上感と共に過ごした後、ネットカフェに行って寝た。私がネットカフェ難民になる日が来るとは驚きだった。
その翌日。ネットカフェで寝泊まりしていた私を叩き起こしたのは、ポケットに入っていたマナーモード中の携帯だった。母から電話がかかってきたようだ。「はいもしもし」と受け取ると、「これを機に家の農業を継がない?」と言われた。返事は「ふざけるな」だ。事故にあった息子を心配するどころか、これ好都合とばかりに隠居生活をしようとする両親の言う事を聞く訳がない。
こうして私は何もかも失った。残った物は、燃え上がった冷蔵庫の情景の記憶だけだった。
――いや、この表現は間違っているかもしれない。
私は、燃え上がった冷蔵庫の記憶を強烈に自分の頭に残した。その映像を繰り返し再生する。何度でも。何度でも。何度でも何度でも。そして、何度でもうっとりとする。何度でも。何度でも何度でも、だ。
ふむ。どうやら私は、恋に堕ちたらしい。
――冷蔵庫を燃やす、嬉々とした赤い炎の美しさに。
この恋に気付いた途端、私の身体から浮上感が消えた。私の予定は埋まった。今日何をするかも決定した。
私は無我夢中のまま目的地へと移動する。街を歩いていると、横を通り過ぎる若者が私を見て笑った。そう言えば、今来ている服は寝巻として使っていた服だった。笑われても当然かもしれない。しかし、今の私にとっとはそんな些細なことなど、どうでもよかった。
途中で雑貨屋を見つけた。そう言えば、冷蔵庫は自力で爆発しないことを思い出し、勇み足でバーナーを買った。よし。準備万端だ。
目的地である、電化製品を取り扱う店に着く。金属探知器には引っ掛からなかった。流石雑貨屋。客が「金属探知器に反応しないガスバーナーが欲しい」と言えば、簡単に作ってくれる。真っ先に向かったのは、冷蔵庫の前だ。沢山の種類がある。小さい物から大きい物、扉がスライド式の物や、容量を重視した物。素晴らしい。どれもこれも、炎を出したら美しそうだ。
ただ残念なのは、私が以前使っていた(共に過ごしていた)メーカーの冷蔵庫が一つも無いことだ。おそらく、先刻の事故のせいで回収作業があったのだろう。これはもう仕方が無いので諦めるしか無い。
しかし、そう考えると勿体ないな。美しい物を、わざわざ回収してメーカーに返してしまうなんて。私にくれれば、全てを一度に燃やし、塊となった巨大な炎を、さながらキャンプファイヤーの様に沢山の見物人で囲んで一大名所にしてみせるのに。まあ、私みたいな人間が他にどれくらい居るのかが最大の問題なのだけど。そして多分、この問題の答は出ない。
「冷蔵庫をお探しですか?」
いつの間にか私の横に、目元がパッチリした金髪の美女が佇んでいた。ふっくらとしていそうな胸部を控え目に抑え、客である私の反応を伺っている。
「はい。出来るだけ安い冷蔵庫はありませんか?一人暮らしを始めるんですけど」
「それでは、このメーカーの冷蔵庫なんか如何でしょう?当店では一番安く、お値打ち価格です」
後半の部分は要らなかったか、と少し後悔したが、そこは流石店員と言った所。不必要な部分はスルーして私の質問に丁寧に答えてくれた。
「じゃあ、これにします」
「えっ、あ、はい。ありがとうございます」
私の早過ぎる決断に一瞬驚いた店員だったが、見るだけで満足と言えるような微笑を私に向け、交渉を終わらせる。
私はこの時、目の前にした冷蔵庫を見て興奮した。バーナーは途中で立ち寄った雑貨屋で買った。早く燃やしたい。燃やして、炎を見て、臭いを嗅いで、残像を私のものにしたい。
「お支払いはどうしますか?」
現金で、と答えるのも億劫だった。そんなことはどうだっていい。いち早く、燃やしたい。
――ああ、駄目だ。
――もう我慢出来ない。
「すいません」
「は?」
先に一言謝っておいて、私は懐に忍ばせておいたバーナーを手に取り、冷蔵庫に勢いよく着火させた。その様子を見て店員は、顔をポカンとさせる。
程無く時間が経った後、私が買う予定だった冷蔵庫は爆発音と共に燃え上がった。周りの人々の反応も気になるが、どうでもいい。私は、この一瞬の快楽に溺れていたいのだ。
冷蔵庫の炎が燃え移る。周りを見渡すと、誰一人いなかった。横に居た店員もいつの間にやら姿を消している。私も身の危険を考え、堂々と入口から脱出した。
人に見られたことを認識し、私は店の裏へと移動する。今はもう、静かに至福の時に浸りたい。冷蔵庫から出た炎は、私の興奮を沸かせた。
消防車が到着し、火が完全に消されるまで私はずっとそこに居た。
「渡辺篤さん。署まで御同行願えますか?」
翌日。ネットカフェに刑事が二人、私の元を訪れた。一人は歴史のある風格を漂わせる男で、もう一人は痩せこけた青年だった。
私は刑事が言ったように警察署まで手錠をかけられたままパトカーで移動し、取り調べを受けた。その時の質問はこの一つ。
「何故冷蔵庫をバーナーなんかで燃やしたんだ?」
それに対する答えは、簡単に出た。
「私は冷蔵庫から噴き出る、海の波を模したような赤い炎に魅せられ、恋に堕ちたのです。それをもう一度見よう――見たい――見なければならないと思ったとき、私は犯罪のことなどとうに忘れていました。ストーカーと同じですよ。犯罪だとわかっていても、実行してみたくなってしまう。しょうがないでしょう? 炎というものは、人間の原点なんです。それが、冷蔵庫から現れるところを想像……いや、妄想と言った方がいいかもしれませんね。妄想すると、もう、興奮して興奮して、自分を抑えられなくなるんです。発狂する寸前ですよ。発狂しないだけ、まだマシだと考えていますが、刑事さんはどう思いますか?」
「さっぱりわからんな」
刑事さんは、私を呆れた表情で見ていた。人間では無い別の生き物を、取調室という動物園で見るかのように。
「そんな話はどうでもいいんだ。お前がヘマをおかしてくれたおかげで、渡辺篤。お前ん家の家宅捜索の申請が通ったよ。ほれ、これはお前の彼女さんだろう?」
私の家はとうに燃えて無くなっているのに、どうやって家宅捜索など行ったのだ。どうせ、私が居ない間に勝手に忍び込んで証拠だけを抑えたんだろう。
そんな文句が頭の隅に消えてしまう程、刑事の言葉には力があった。
――そうだ。
――私は先月、突然居なくなった彼女の捜索願いを出していたのだ。
慌てて、刑事が出した写真を手に取って見てみる。
そこには、炎が映っていた。
「可愛そうになぁ、彼女。こんな狂人に入れ込んでいたなんて、人生の汚点だよなぁ」
ああ、そうだ。思い出した。
私は、彼女も燃やしたのだ。
ああ、そうだ。思い出した。
彼女から出る炎は、冷蔵庫などとは格段に美しかった。
牢屋に入って、私は妄想にふける。
彼女をたくさんの冷蔵庫を敷き詰めた私だけの空間に呼び、「そこから一歩も動かないでね」と言った後、彼女の体にマッチで火をつける。彼女は私のいいつけを守り、律儀にその場から動かない。燃えているのに笑顔のままでいる彼女からは炎が出続け、少しずつ冷蔵庫に引火する。家が火事になり、私はそこから退散してからも、じっと眺め続け、うっとりするのだ。
ここで、私はもう一つ。素晴らしい妄想を思いつく。
「あの金髪の店員も、燃やしたら美しいだろうに」
乙一先生の「ZOO」を読んだ後書いた作品です。