決めつけ病
初めての子を夫との間に授かった。赤ん坊の名前は未来。十代で活躍している人気女優の志田未来みたいになって欲しいという願いを込めて付けた名だ。
未来が二足歩行を開始したのは一歳の中盤に差し掛かった頃だろうか。それだけではない。この一年後、つまり二歳の中盤では言葉を喋り始め、三歳に差し掛かる時には漢字すら書けていた。
家族全員はこう考えた。『もしかしたらこの子は天才なんじゃないか』と。
でも、そんなことはなかった。
未来は他の子よりも少しだけ観察力が鋭いだけだったのだ。
「つまりね。早めの時期に歩けたのは僕らを見ていたから。喋ったのは僕らの口を見て、真似をしていただけで、漢字を書けたのは僕らが書く字を見ていたからなのさ」
そう言うのは五歳年下の夫。
小説家の仕事をしている彼を、フリーライターの私が取材をしたのがキッカケで知り合った。
「そう言われてみれば確かに……ほら、未来が書いたこの『死因』って漢字。貴方が前ネタ帳に書き記した物だわ」
「僕のネタ帳を勝手に見て欲しくないんだけど……うん。僕が言いたい事はそういうことだね」
ある日。
私達家族は三人で近所の公園へ出掛けた。天気予報が外れて晴天となったそこには、未来と比べると五歳くらい違いそうな小学生の男の子と女の子六人が鬼ごっこをしてはしゃいでいた。
「アーウー」
言葉を喋れる様になったと言ったものの、レパートリーがママとパパとおはようくらいしかないので、何かを伝えたい未来は人差し指を子供達に向けながら唸った。
「なーに未来ちゃん? お姉ちゃん達やお兄ちゃん達と遊びたいの?」
「いや。違うね」
すると夫は未来と同じ様に子供達へ人差し指を向けた。
「観察力が鋭い未来がただ単に遊びたいだけなんて有り得ない」
「じゃあ未来は何を見て唸ってるのよ」
「子供達の体の構造を見てるんだ。自分が将来どんな体になるのか……動きやすい体はどれか……どうすればその体になれるのか、とかね」
それは無いでしょと言って笑ったら、いや有り得ると夫はまた笑って返した。
またある時。
私達は鍾乳洞に来ていた。
「アーウー」
「なあに未来ちゃん? 中がデカくて驚いてるの?」
「いいや違うね。未来は外側と内側がどう繋がっているのかを見ているのさ。構造を調べてるんだよ。未来は」
またまたある時。
「アーウー」
「な」
「いやいや違うね」
こんな会話を繰り返した。何かがおかしい。夫は未来のことを変な風に決めつけ過ぎてないか。私はとりあえず夫を病院に連れていくことにした。勿論、未来は大家さんに預けて。禿頭のメガネをかけた医師はこう言った。
「三竹一樹さん。あなたは『決めつけ病』にかかっています」
三竹というのは私と夫と未来の苗字。
一樹というのは夫の名前。
決めつけ病というネーミングセンスのカケラも感じられない病名は……医師がふざけて言っているとしか思えなかった。だけど医師の顔は真面目だった。
「その……決めつけ病というのは何なのでしょう」
唖然としていた夫が我を取り戻して聞く。医師も夫に向かいあった。
「三竹さんが未来ちゃんという赤ちゃんに抱いている『観察力が鋭い』という決めつけのことを称している病名です。そのせいで物事をおかしく捉えてしまっているんですね。とりあえずレントゲンで頭を見てみましょう。さ、君。三竹さんをレントゲン室へ連れていってくれ」
こうして夫は半ば強引に連れていかれた。私も夫と一緒に部屋を出ようとするが、「あ、奥さんはここにいて下さい」と医師に言われたので、意味がわからずもとりあえずは椅子に座る。
「あの……その……き、決め付け病というのはどれくらいで治るのでしょうか?」
すると医師は、先程までの顔とはより一層真面目度が増した表情で私を見た。
「決め付け病なんてある訳ないでしょう」
医師の顔に反して、言っていることは理解不能だった。
「ど……どういうことですか? ちゃんと説明して下さい」
「ですから、三竹さんに席を外して貰ったのは奥さん、貴女と話しがしたかったからなんですよ」
言葉をそのまま受け取ったらセクハラ以外の何物でもないが、医師の顔が本気であることを確信させる。セクハラではなく――夫に問題があるのではなく――私に問題があるのだと。
「一つ例え話しをしましょう。未来ちゃんが公園で遊んでいる子供達を見て唸ります。未来ちゃんは何を考えていると思いますか?」
これは以前同じ状況を体験したことがある。私はその時思ったことをそのまま言った。「子供が遊んでいるのを羨ましがっている」と。すると医師はそうですか……、と溜め息を一つつき、私と向かいあった。
「奥さん。普通の人間ならね……「子供達の体の構造がどうなっているかを見ている」と答えるんですよ」
私は出産の次に驚いた。この医師は何を言っているんだ。
「でもそれはさっき決め付け病だって……」
コホン、と一つ咳ばらいをして私を見る。瞳には哀れみが写っていた。
「仮に決め付け病という病名があったとしたら、それは夫の三竹さんではなく、奥さんにつくでしょう。貴女の思考は常人のそれではない。今すぐ本格的な精神科へ急いで下さい。早急に手をうった方がいいです」
こうしてこの日、私は精神病院へと向かった。未来は連れていかない。私の思考が普通でないのなら、極力一緒に居ない方がいい。医師は何故か夫にこのことを話すなと言った。意味がわからないが、医師が言うならその方がいいのだろう。
病院に入り受け付けに行き、十分程待ったら私の名前が呼ばれた。
小部屋に入ると、そこには若い医師が居た。罰が悪そうな顔をしている。俯き、私の顔を直視しない。そこまで私の頭はおかしくなってるのか。内心酷く悲しんだが、治すため、医師に向き合う。
医師は椅子に座った私の顔を一目見ると、溜め息をついてこう言った。
「すいません三竹さん。あちらの手違いです」
一瞬意味がわからなかった。
「手違いって何のことですか?」
「いやー私もね、奥さんの頭を撮ったレントゲン写真を見たんですけど、これといって異常が見られないんですよ。だから先方の総合病院の……柳沢さんっていう、三竹さんの病状を診た医師なんですけど、柳沢さんの頭が異常だったことが判明したらしいんです」
話しを聞く限りでは、私を診察した医師の方がおかしかったらしい。ということはつまり――
「大丈夫ですよ三竹さん。あなたは正常ですから」
こうして私は家に帰った。まさか医師の方がおかしかったとは。でもよかった。これで私は安心出来る。未来も夫も正常なんだし。
と、ここまで考えたところで私は歩くことを一時中断する。
――夫?
夫は確か、おかしいと診断された医師に『正常』と言われた筈……ということはつまり……
「一樹さんは……正常じゃない……?」
私は一目散に向かい、夫を呼んだ。未来の声がテレビの音をバックに響く。
「どうしたんだい、そんなに急いで」
夫はいつも通りに返事をしてくれた。いつもが異常の夫の返事。私は全く安心出来なかった。
「あなた!! 早く病院に行きましょう!!」
「え? だって僕は正常だって診断されたじゃないか」
「あなたは普通じゃないの!! 普通だったら公園で遊ぶ子供を見て、子供の構造とか考える筈ないじゃない!!」
「……だからそれが普通なんだって。やっぱりもう一回医者に見て貰った方が」
「私が異常じゃなくてあなたが異常なのよ!!」
私が無理矢理夫の腕を引っ張り、扉を開けて外に出たら、お隣りさんである狩谷さんが心配そうな顔で私達を見ていた。
「大丈夫? さっきから二人の声がよく響いてるけど」
「いえ、大丈夫じゃないです。なのでこれから夫を病院に連れていくんで心配しないで下さい」
「いーえ、違うわよ。私が心配してるのはお父さんの方じゃなくて、あなたよ」
そういう狩谷さんの指は、私をさしていた。
「あなたの方がおかしいのよ」
家から聞こえてくるテレビからは、こんなニュースが聞こえていた。
『ある精神病気で、若い医師の異常が判明。直ちに治療を開始したそうです』
総合病院の医師のニュースは何もなかった。
いつオチがくるのかわからない仕様になっております。横書きで読んでいる人、特にすいません。