劇的な乱暴
先に書いておきます。読後感はかなり気持ち悪いと思うので覚悟して読んでください。
僕は今夜、罪を犯す。
間違うことなき悪という奴を。
だから僕はこんなに沈んだ気分で居る訳だし、逃げることは出来ない罪から逃げようともしている。けれど、それは無理なんだろう。
教室に、入った。夜の教室。僕が通っている学校の教室。二年三組。満月が輝く満天の夜空の下、僕は罪を犯すんだ。
「真ん中の列の、教壇の方から数えて三番目」
僕は見た。帰宅準備の時、彼女がソプラノリコーダーを机の中に置き忘れていたのを。あるいは、わざと置いていったのかもしれない。どちらにしろ、結局、彼女のソプラノリコーダーが机の中に入っているのには変わりない。
「はぁっ、はっ、はぁっ」
自然と息が荒ぐ。彼女の机に一歩一歩近づく度に、彼女のソプラノリコーダーに一歩一歩近づく度に、僕の息はどんどん荒ぐ。口の中に唾がたまってきた。「ゴクッ」という音が喉から響く。それでも、僕は止まらない。誰も居ないことを確認しながら、彼女のソプラノリコーダーに近づいていく。
「はぁ、はぁっ、ゴクッ、はぁあ」
そして僕は、彼女の机の右横にたどり着いた。彼女が毎日座っている椅子もある。心なしか、匂いが漂ってきた。いつもならクラスメートの中に紛れて、微かにしか嗅ぐことが出来ない彼女の匂い。それが、僕の鼻をくすぐる。勘違いかもしれないけれど、その感覚がなんとも言えない心地良さを携えていた。
彼女の机の中に手を突っ込む。ひんやりとした、机の中。この中の右、そう、右に。彼女のソプラノリコーダーがある筈。青色の袋の中に入っているソプラノリコーダーが。彼女がなめて、クラスメートと一緒に音楽を楽しんでいる時に彼女の口が付いている、ソプラノリコーダーの先端が。彼女の唾が。彼女の中身が、彼女のどろどろが、彼女のぐちょぐちょが。
「は、ははっ」
思わず笑いが転げた。恐らく今の僕はおぞましい姿をしているのだろう。己の欲求解消のために、彼女の見えないところで彼女を汚そうとする僕の姿。よだれが口の端に滲み出てきた。顔は恍惚で歪んでいるに違いない。
そんな、僕が。
彼女のソプラノリコーダーを、なめるんだ。
「は、ははは、はははは!」
ソプラノリコーダーの袋に手が届いた。思い切りそれを引っ張り出し、彼女の机の上にそっと置く。青い袋に包まれたソプラノリコーダー。彼女の、ソプラノリコーダー。先端。彼女が何回も何回もなめつくしたであろう先端。それが、今、僕の目の前にある。今からこれをどうしようが僕の自由なんだ。窓から夜の光りが差し込み、ソプラノリコーダーを照らした。その様子は、僕に今からソプラノリコーダーをなめろという神様からの啓示に思えた。
「はぁ、はぁっ」
丁寧に、青色の袋からソプラノリコーダーを取り出す。これは彼女のものなんだ。手荒に扱うつもりは全くない。ただ僕は、この先端をなめたいだけなんだ。彼女がなめた跡に、僕のなめた跡を残したいだけなんだ。
青色の袋から。
ソプラノリコーダーを取り出した。
「はぁ、ゴキュッ、はぁ、はぁっ」
それを両手で丁寧に持ち、僕の口の前に先端を配置する。彼女の口の中の匂いが漂ってきた。机から彼女の匂い。僕は我慢が出来なくなってきた。最初から我慢していなかったか、なんてことはない。僕は理性という名の我慢をしていた。いくら罪を犯すとしても、人間の枠から離れてはいけないと。
「はぁっ、はあ」
でも。
もう、無理だった。
僕はなめた。彼女のソプラノリコーダーを。立ちながら、彼女の机の横に立ちながら、教室の真ん中というような位置で立ちながら、なめた。音が聞こえる。自分の口によって彼女のソプラノリコーダーが汚されていく音が。それを聞いて、僕は一層激しく彼女のソプラノリコーダーの先端をなめつくしていく。僕の中のぐちょぐちょが彼女の中のぐちょぐちょとまざっていく。その一つの事実が、気持ち良い。僕のどろどろとしたぐちょぐちょが、彼女のソプラノリコーダーを、彼女がなめた跡を、彼女を、汚していく。僕が、彼女を。彼女を、僕が。
「何してんの」
それからずっとなめていたかった。彼女をずっとなめていたかった。
「……は」
だけど、無理だった。
夜の教室に、誰かが入ってきた。女子の声が教室に響く。僕が罪をおかしていた場所に、誰かが侵入してきた。
終わった、と思った。
「それ、新島さんのだよね。何してんの」
「…………な、何も」
苦し紛れにしては酷すぎる返答だ、と僕は素直に思った。頭の中では僕の未来が描かれていた。明日の教室で、彼女の目の前で僕の罪が暴露される。僕と彼女が溶け合ったソプラノリコーダーが彼女の手の中にあり、僕はそれを見ながらクラスメート全員に蔑まれるんだ。
「何も? 何もしてないの? そんな訳ないよね」目の前の女子は律儀にも僕の返答に応対していた。黒い手提げ鞄を両腕で抱えて、目がねをかけている短髪の女子。目がねのフレームの奥にある目は大きくて、かわいらしい外見をしている。「新島さんのたて笛、なめてたの?」
「…………」
僕は何も答えることが出来なかった。彼女の目を見ることも出来なかったから、俯く。視線の先には茶色い木で構成された床がある。古びた校舎の古びた教室の中、僕の中学生活は終わりを告げることになるんだ。
「無言ってことは、肯定の意味でとっていいんだよね。というか私、見てたし。君が新島さんのたて笛なめるところ」
「い、言う」
「へ?」
「言う、の?」
「私が、新島さんに?」
「う、うん」
「…………」
そう僕が聞くと、今度は目の前の女子が何故だか無言になった。いや、それよりも今更なんだけど、この女子は誰なんだろう。少なくとも僕のクラスメートではない。顔は見たことあるような気はするけれど、名前が全く浮かんでこない。
なのに。
彼女の机の場所を知っている、この女子は。
誰なんだろう。
「言わないよ。私は、言わない」
「へ?」聞いた時、目の前の女子が何のことを言っているのかわからなかったけど、言葉の意味を理解した後、僕はまた惚けた声を出す。「へ?」
「だから、言わない。私は言わない。君が夜中に教室に忍び込んだことも、新島さんのたて笛をなめていたことも」
「な、何で」
「何でも何もないよ。新島さんに言える訳ないじゃない、こんなの」
目の前の女子は苦しそうな顔をしていた。何か恐ろしいものに耐え忍んでいる、そんな顔。「私が新島さんのたて笛なめようとしたら、先を越されてたなんて」
「……え?」
僕は素直に驚いた。女子の言葉をそのままの意味で、そのまま解釈するのなら、この女子は、彼女のソプラノリコーダーをなめようとしていたということになるからだ。
「でも、君、おおお、女の子、だよね」
「うん」
「なのに、何で」
「変わりたかったの、私。今夜、変わるつもりだったの」
そう言うと、女子は僕の近くに歩いてきて、近くの机に鞄を置いた。そしてその中にあるものを取り出そうと、鞄の口を開ける。女子の手ががさごそと鞄を探り、少しの時間が経つと、僕に向けて女子の鞄の中にあるものが姿をあらわす。女子の両手で持ち上げられた、状態で。
それは、一冊の本だった。
「この本、読んだの。ボードレールっていう詩人の詩を集めた詩集。読んだことある?」
「ない、けど」
「だと思う。普通の中学生は、こんなの読もうとしない。だって意味わかんないんだもん。こんなの読むくらいだったら、国語の教科書読んだ方がまだマシ」
「…………」
「じゃあ何でこんな本を読んでるんだっていう話になるよね。それにはね、理由があるの」
僕はそんなことよりも、とにかくこの場を離れたかった。彼女のソプラノリコーダーをなめた跡。何だか急に怖くなってきた。だから、僕は、この場から離れたかった。
それなのに。
目の前には、暗い顔で語る女子がいる。
「漫画を読んだの。この詩集が中心になってる漫画。衝撃的だった。二人の中学生の男女が教室をぐちゃぐちゃにして、笑ってたの。笑ったあと、また明日って言ってそのままにしたまま学校を去っていったの。信じられなかった。私には絶対出来ないって思った」
でも、変わりたかった。この二人みたいに、あらゆる常識を投げ捨てて、自分を解放する為になにもかもを犠牲にしたかった。「だから、私は夜の教室に忍び込んだの。女が女の子のたて笛をなめるなんて、普通じゃないでしょ? ……保身の為に、もしばれた時にも笑って許してくれそうな女の子を狙った時点で、普通なのかもしれないけど」
本を女子の左の机に置くと、その女子は鞄の口を開けたまま、鞄の口を下にした。ニ、三回、鞄を上下に振る。ぼろぼろと落ちる、鞄の中身。絵の具が何十色分、こぼれ落ちる。墨汁が五個、こぼれ落ちる。筆もこぼれ落ちた。ありとあらゆる、何かを汚す為の手段がこぼれ落ちた。
「私、変わりたかった。新島さんのたて笛をなめた後、新島さんの机によだれを一面に広げた後、新島さんの椅子に排便した後、新島さんの机に、新島さんの椅子に、私の跡を残したかったの。それでも私が充たされなかったら、その後、教室全体に私の跡を残すの。私の中身がどろどろに流れ出た教室で、私のぐちょぐちょの匂いで臭くなった教室の中、私は私を解放したかった。でも、やっぱり、無理なのかな」
「…………」
「ひいちゃう、よね。ごめんね、こんな話聞かせちゃって。私のこと、誰にもばらさないでね。私も、君のこと、ばらさないから」
僕は。
この時、目の前の女子だけを見ていた。右手で握られていたソプラノリコーダーのことを気にかける余裕がないくらい、申し訳なさそうな女子を見ていた。見つめていた。女子の話を聞いて、僕は想像した。
目の前の女子が考える、目の前の女子なりの解放。
それは、なんとも言えない心地良さを兼ね備えていたように思われた。
「やら、ないか」
「え?」
「一人で無理でも、二人で。二人なら、出来るかもしれない」
「……は、ははっ」
目の前の女子は僕の提案を聞いて笑い、床に落ちた墨汁を二つ手に持って、その内の一つを僕に手渡そうとしてきた。僕はそれを手に取り、彼女と笑い合う。
「君、完全に普通じゃないね」と女子は言う。
「そっちこそ、普通じゃない」と僕は返した。
『惡の華』という漫画を読んだ後、その衝撃で一気に書きすすめた短編です。読んだ人の何かが変わると言っても過言ではないくらいの漫画でした。