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すぐに読める短編の集  作者: 狩人二乗
学生時代の短編
11/16

絶対に泣ける本

ちょっと前半に遊び過ぎて長くなってしまいました。

 今日の僕はついていない。

 そう思い始めたのは早朝からだった。

「秘密結社のとある技術が確立されてから早三ヶ月、私たちはこの秘密結社に対してどのような」とか「結婚相手の男性の浮気相手を殺傷する事件が起こりました」とか、朝っぱらからよくわからないニュースやらやけに生々しいニュースやらを淡々と語る美人なアナウンサーを見ながら、黒く焦げたトーストを食べていた。ぼうっとそのアナウンサーを眺めていたら、気付くと職場に遅刻しそうな七時半。社会人になってから遅刻なんてとんでもないと思っていた僕は急いで家に鍵をかけて職場へ向かうと、いつも使っている駅の改札口に怪しげな占い師っぽい人がいる。なんだこれ、なんで改札口に占い師が。そう混乱していると、「貴方の前世が私には見えます。――見えました。貴方は結婚をしていながら浮気をし、その浮気相手と共に崖から落ちて死んだのです」などと訳のわからないことを白昼堂々宣告された。当然、駅員さんやら、僕と同じように遅刻寸前なのか秋なのに汗だくな男子高校生が冷ややかな目つきで僕を見る。おいおい違うでしょうが本当に冷ややかで見るべしな相手はこの占い師さんでしょうが、だって朝っぱらの改札口の前を陣取ってるんだよこれじゃ駅に入れないよ、あれ、いつの間にか電車が来てる――その電車が職場に遅刻しないでいける最後の希望だったことに気付いたのは、この時点から約一分後のお話。

「巷で話題の、絶対に泣ける本ってのを取材してくれねーか」十五分遅刻した僕に対し、ニヤニヤと笑いながら上司はこう言ってきた。「誰も行きたがる奴がいなくてな。いやー、ちょうどいい。よかったよかった」

 すみません遅刻しました、とは一応言った。これでも僕は遅刻の身。だから僕は謝ったのだけれど、社会における上司にあたる、いかつい顔をしているくせにニヤニヤとよく笑うハゲ頭は僕に命令する。

「おい、今だれか俺のことをハゲ頭とか言わなかったか」

「いやいや滅相もないです。桂伊さんは立派な頭をお持ちですよ」

「嫌味以外の何ものにも聞こえない。ほら、行ってこい。場所は書いてある」

 そう言うと上司は僕に一枚の紙を渡してきた。まごうことなく紙だった。ルーズリーフでもメモ帳の切れ端でもない、本当に純粋たる紙。四つ折のそれは上司のポケットの中に入っており、まあ、つまりは汗臭そうだったのだ。

「おかしいぞ。何故だかさっきから罵倒が聞こえる」すると上司はいぶかしげな目をして僕を睨んできた。有無を言わさない視線とはまさにこのことだろう。「まさかお前じゃなかろうな。汗臭そうだとか、年がら年中ハゲているだとか」

「年がら年中の方は僕じゃないです」

「うるせえよ。お前マジか? ああん?」

「…………」その疑問詞ともとれる挑発は、果たしてどちらに向いているのだろう。僕以外に不満を呟いている人間の存在か、それとも、ここで平然と心中を吐露してしまう僕に対してなのか。「すいません。口が滑りました」

「謝るのはそっちじゃねーだろうが。……ったく、新入社員の中でもお前は特に酷いな。遅刻はする、それでいて上司には平気で悪口を言う。一体お前はどんな教育受けてきたんだ」

「えーと、義務教育が六年間と自主教育が八年間ですね」

「自主教育ってなんだよ」

 というかその年数間違ってねーか? と言うと上司は僕に紙を渡し、ドスを効かせた声で言う。顔は既にニヤニヤではなく、ギラギラだった。「とにかく、今から準備して行ってこい。先方さんには話をつけてある。あとは、お前がそこに行って、絶対に泣ける本ってのを読んで、取材すればそれでおしまいだ」

「なんなんですかそれ」僕は色々と言いたいことはあったのだが、とりあえず一番疑問に思った単語について聞いてみる。「その、絶対に泣ける本っていうのは」

「な、おま、しらねーのか!」マジかよ、と呟く上司。その表情は苦悶に満ちていた。「まさかあれをしらねー奴がいるとは……今から取材させる奴をもう一回探すか……? ていうかお前もなんなんだ」

「え、今誰に喋ってますか」

「お前だよお前、柏木だよ柏木。いちいち欝陶しいな、お前は」もはや暴言しか言わなくなった上司は続ける。「なんで雑誌の記者が芸能ニュースをチェックしてねーんだよ。馬鹿じゃねーのか」

「いやー、実は僕はこんな仕事に就く気はなかったんですよ」

「……殴る前に、一応聞いてやる。お前が本当にやりたかった仕事ってのはなんだ」

 冗談抜きで上司は僕を殴りそうだった。何故だ、何故今僕はこんな状態になっている――と思って考えて、考えた末の結論は、どう考えても僕が悪い、だった。駄目だ、流石に調子に乗りすぎた。果たしてここから僕は上司に好感を得ることが出来るという立ち位置まで移行出来るのか。全ては上司からの質問に対する答えにかかっている。緊張した僕は、額から汗を流しながらこういった。

「真面目な社会人というものになりたかったんです」

 顔に痛みが生じた、と思った時には既に殴られていて、「お前はもう、既に死んでいる」とどこぞの漫画の決め台詞を上司にたたき付けられると共に、今日の仕事は決定した。




 絶対に泣ける本。

 そんなものは存在しない、と僕は思う。

 よく、「百万人が泣いた!」とかいうキャッチフレーズを見たことがあるが、僕は「んな訳あるかい」と一蹴する。有り得ない。そんなことは、有り得ない。何故なら僕は、その百万人の涙腺を揺らすことが出来る本を読んでも全く泣かなかったからだ。というか、泣く泣かない以前に、僕はまずその本のストーリー自体に疑問を持った。

「確かに、学校の図書館で男女が抱き合うのに感動するのは無理だね」

 僕の持論にそう返事をしてくれたのは、昔付き合っていた彼女だった。大学生の頃。あの頃はまだ楽しかったなあと思いながら、僕は電車の座席で揺れつつ、携帯のインターネットを使って絶対に泣けない本という代物を検索する。

「うわ」

 すると、何万件も検索に引っ掛かった。その事実に困惑しながらも、「やっぱりアナウンサーだけじゃなく、芸能ニュースも聞かなきゃ駄目かな」と周りの人に聞こえないような声の大きさで呟く。周りの人といっても、車両にはおばあさんが二人とおじいさんが一人しか居なかったんだけれども。

 液晶画面の一番上にあったサイトをクリックして入る。サイトの名前は『絶対に泣ける本についてのご案内』。名前からして、このサイトが所謂公式サイトというやつなんだろうと勝手に納得する。サイトを開くと、白色の画面の左端に小さく四つの項目が黒色の日本語で書かれていた。一番下の項目が『言語』というあたりから、海外にも知れ渡っているものらしい。それを何故僕は知らなかったんだと自問し、すぐさま、アナウンサーを見ていたせいだと自答する。全く、なんて罪な女性なんだアナウンサーという人種は。

 一番上にあった『絶対に泣ける本を読める場所』によると、どうやら絶対に泣ける本とやらは僻地の教会にあるらしい。本屋に行けば簡単に読めるというものでも、ないらしい。この事実を確認し、改めて上司から渡された紙を開く。紙に書かれた駅名は、成る程確かに都会のど真ん中に建つ出版社とは全く別次元にある場所のようだった。

 次に、僕は『絶対に泣ける本を読むにあたっての注意事項』という項目をクリックする。

 お支払いについて。

 予約制について。

 この二つの項目に対して、つらつらと書いてある文面が液晶画面にあらわれた。

 こういうところはちゃっかりしてるのかよ、と僕は内心げんなりする。そうなんだ。百万人が泣けるだとか絶対に泣けるだとか、そんな小綺麗なキャッチフレーズを掲げるならば、お金をとらなきゃいいだろうと僕は思う。それでいて、実際に読んでみると泣けない本の方が多いんだ。詐欺だろうこれは。百万人を泣かせられて、何故一人を泣かせることが出来ないんだ。

「おっと」

 気付くと僕は頭の中で怒りの渦を展開させていた。いけないいけない。今は仮にも仕事中なんだ。これから取材しにいくものに対しての情報は、出来得る限り入手しないと。

 代金についての項目を、画面を下にスクロールして一通り読んだ。瞬間、「詐欺だろこれは」と小さく呟く。教会に入るだけで五万円、実際に本を読むことで十万円、払わなければいけないそうだ。計、十五万円。僕が遅刻した時間と被っていることに嫌な運命を感じつつ、「詐欺だろこれは」ともう一度呟いた。

「マジなんだよ、これが」出版社を出る寸前、怒りで顔を赤くしていた上司が冷静になろうとしながら僕に話していたのを思い出す。「絶対に泣ける本ってのを読むには金が要る。金、金、金の三重苦だ。なのに、本を読もうって奴は絶えない。それどころかリピーターも続出だ」

 泣きたいんだろ。泣いて、日頃のストレスをぶちまけたいんだ。今の俺みたいによお。

 そう言う上司の顔が再び怒りに染まり始めたので逃げるように出版社を出た僕だった。

「いつだって人は泣きたいんだよ」という台詞も、確か元彼女のものだった。「気持ちをぶちまけて、楽になりたいの。でも叫ぶなんて格好悪い。だから、泣くしかないの。消去法よ消去法。後ろ向きな、消去法」

 彼女はその持論を消去法に結び付けていたのだけど、僕はその持論が消去法から紡ぎ出されたものではない、と推論していた。普段は冷静沈着な彼女は、意外と泣き虫だったのだ。家だけじゃなく、家の外でもよく泣いていた彼女。彼女は今、何をしているのだろう。社会人となった彼女は、何に対して泣いているんだろう。

「……まさか彼女が絶対に読める本を読みに行っている時に鉢合わせるなんてことはないよな」

 予約制で読める本だったが、金額やら立地条件やらの云々を込みで考えても人気らしい。事実、予約は三年後まで埋まっている。それというのも、どうやら絶対に泣ける本とやらは一日に六人しか読めないらしい。午前中に二人、午後に二人、夕方から深夜にかけて二人。何故こんな条件にしているのだろう。そこら辺も聞いてみる価値はありそうだ。

 うん、そうなんだ。

 結局の所、僕は絶対に泣ける本とやらに興味を持ち始めている。取材だから特別にってことで、諸事情で空いてた時間帯に無料で行けるんだ。これで興味を持たない方がおかしい。

「間もなくー、白魚ー、白魚ー」

「あ」いつの間にか電車が目的地である白魚駅に着いたらしい。

 電車を降りた僕は、改札口に不審な占い師が居ないことを確認しながら駅を出て、絶対に泣ける本とやらを読みに行く。




「ブラック・ジャックの家かい」

 歩いて一時間。水田やら畑やら川やらを抜け、活気に満ちあふれているとは言えないまでも、田舎以上都会未満という表現は使えそうな町を歩き、そして僕は教会が建つ海岸へとやってきた。岸の端に、教会が建っている。太陽が照る中、波の音と風が僕を涼しい気分にさせてくれた。

「こちらは絶対に泣ける本が読める教会でございます」教会の前まで行くと、執事風な青年が僕を出迎えてくれた。「ご予約の方でしょうか」

「大河出版の柏木という者です。取材に伺ったのですが」

「あ、失礼しました。大河出版の方ですね。話は聞いております。こちらへどうぞ」

 言うと、青年は僕を教会の中へと誘導してくれた。しかしこの青年は何歳なんだろう。敬語を使うべきか、否か。客だから敬語を使わなくていいのか?よくわからない。まあうだうだ考えた所で拉致があかないし、普通にこのまま敬語を突き通そう。

「ここで、持ち物検査をさせてもらいます」

 いつの間にやら教会の中央まで来ていた。長細い木製の椅子が立ち並ぶ。窓から差し込む日光しか光りがないので少し暗い。外国人女性の賛美歌が流れる中、ああだこうだ考えていると、青年はいきなりこんなことを言ってきた。

「持ち物検査、ですか」

「はい。ここから先は神聖な空間となっております。なので、金属の類や、筆記用具などは全てこちらで保管させてもらいます」

「な、そんな」金属の類となるとボイスレコーダーも入るだろう。ペンやメモ帳などは当然の如く筆記用具の類。「それじゃあ取材が出来ませんよ」

「あれ、桂伊さんという方には事前にお伝えした筈なのですが」

 僕が困惑することは青年にとっても予想外だったことらしい。この事態に至ったのは、青年のせいというよりもあの上司のせいだろう。要は、不手際。間違いなく僕は事前に上司から聞いていない筈だから――

「いいか柏木。よーく聞けよ。今まで何人もの記者が本を取材したが、誰一人有力な情報を持ち帰っていない。それどころか、一人一人違う本を読んできたって言い出す始末だ。取材する為の道具を本を読む場所には持ち込めないってのも理由の一つかもしれねえ。とにかく気をつけろよ。雑誌記者の間じゃあ、あの本はタブー中のタブーってことになっているからな」

 ――ああ。

 事前に取材道具が取られるって言っていたような言っていなかったような。

「柏木さん。こちらの不手際だったら申し訳ありませんが、ご了承いただけますでしょうか」

「え、あ、はい。不手際ならしょうがないですよ。ははは」

「……私と視線を合わさないのは何故でしょう」

「深い理由はありません。はい、ありませんとも」慌てて僕は取り繕うようにしてセカンドバックやらポケットの中にあるものを全て取り出し、右横の長細い椅子に置いた。

 けれども青年のチェックは入念で、何処から持ち出したのか金属探知器を僕の全身にあてて検査する。ここまでするのか、と疑念を持つ。どうやら上司の言う通り、雑誌記者のタブー中のタブーとやらはあながち言い過ぎでもないらしい。

「すいません。予約した者なんですけど」

 ようやく青年の金属探知器攻めから開放されたと思ったら、後方から女性の声が聞こえてきた。「はい、少しお待ちください」と言いながら青年が金額探知器を持ったまま教会の入口へと向かう。

「あ」「あ」

 ほぼ同時に、僕と彼女は声を出した。悪い予感は大体あたる。今日の僕は本当に不幸だ。

「なんで柏木君がここに」

「そっちこそ」

 そこには、元彼女が居た。バッグを持つ手の指には、指輪が嵌められていた。おいおいこんな事実をここで知ることになるのかよ、と心の中だけで悪態をつく。




「では、お二人共荷物の検査が終了しましたので、右に見えます懺悔室にて本をお読みください」

 男性の平均身長くらいはある僕と肩を並べ、スレンダーな体格をしている。肩までの長さに切り揃えられた黒髪をなびかせながら、いかにもキャリアウーマンというような恰好をしている彼女は青年の荷物検査を受けた。持っていたバッグを青年に渡し、金属探知器をあてられる。「お手数かけました。では、懺悔室へとお進みください」と青年は確認し、僕らの荷物を持って姿を消した。僕ら二人が最初に顔を見合わせた時から判断して、僕らが顔見知りなのは間違いない筈なのにそこについては全く言及してこない。そのような事など小さいことですよどうでもいいんですと言わんばかりの性急さだった。

「何でこんな平日の昼間に柏木君が居るのよ」長細い椅子と長細い椅子の間を歩きながら、自然、僕の左横に位置する彼女は言う。「大学を卒業してから何やってたのよ。プー?」

「違うって。そんなんじゃない。というか、そういう君こそどうしたんだよ。何で平日のこんな時間にこんな場所に居るんだ」

「何、私の真似してるのよ。そっくりそのままその質問を返すわ」

「じゃあ僕はそっくりそのままその質問を返す」

「堂々巡りじゃないの」

 あー、あほらし。やっぱり柏木君は柏木君のままね。「相変わらず欝陶しいわ」

「……別れ際のどぎつい一言を今ここで言わないでくれよ」

「そうね。ゴメン。柏木君の性格をろくに知らずに、付き合ってとか言った私が悪かった」

「…………」

 何故、絶対に泣ける本とやらを教会の懺悔室で読む前にここまでの心的苦痛を味合わなければならないのだろう。いや、それよりも、何なんだこの偶然は。平日に取材しに来たっていうのに、その時間帯には元彼女がいる。そんな偶然があってたまるか、と思ったところで、不服そうな彼女の横顔を見つめる。「大学生時代より若干皺が増えた、か」

「……柏木君。君って本当に有り得ないと思う」

 もし働いてたとしてもどうせ上司に逆らってるんでしょ、と彼女は言う。「まあ、ハゲとかは言うけど」と僕が返すと、「社会人の定義ってなんなんだろうね」と彼女は侮蔑を込めて僕に言った。社会人の定義とは。その問いに対する答は、少なくとも僕では到底わからないものなのだろう。

「じゃ、私はこっちに入るから」

 懺悔室は二部屋あり、入口のドアが完全に隣接している。つまりは、聞く側と懺悔する側でわかれているということだろう。気付くと彼女は懺悔室に入っており、ぼうっとしていた僕は慌てて彼女が入った懺悔室とは違う懺悔室に入った。

 懺悔室の右前方に、机と椅子がある。木製の机と椅子が。窓から差し込む光りが、それを照らす。

 机の上に、本があった。

 ハードカバーの白い本。机に近づき、手に取って確認してみる。厚さは二百ページくらいだろうか。ただ、表紙にも背表紙にも、タイトルは書かれていなかった。

「……これが、絶対に泣ける本なのか」思わず呟くと、僕はまず本を写真に撮ろうと思いバックを探ろうとする。だが、バックはなく、更にはカメラもないことに気付いてげんなりした。と同時に、ここまでがっかりする自分に対して驚く。

 何故だろう。撮らずには居られなかった、記録を残さずには居られなかった。

 その何の変哲もない本に対して、僕は畏怖にも近い感覚をもった。それがまるで、人間が触れてはいけないもののような、そんな感じがしたのだ。

「これは」気がつくと、額に汗が流れていた。本を手にとりながら、肌触りを確認しながら、僕はゆっくりと椅子に座る。「これは一体何なんだろう」

 そうして僕は、絶対に泣ける本とやらを読んだ。読書がそんなに苦手ではない僕だけれど、それにしたってこのページをめくるスピードは異常だとわかる。文字がすっと頭の中に入っていき、気がつくとページをめくっている。それの繰り返しだ。

 本の内容は、こういうものだった。




 ある村に一人の若者が居ました。彼は村一番の力持ちで、それでいて一番頭が良い若者でした。一日中酒を飲む若者とは違い、一日中女性をたぶらかしている若者とは違い、彼は一日を畑仕事に費やしていました。

 いつの間にか、彼の横には妻がいて、彼には莫大な財産がありました。それでも若者は、せっせと働いて真面目な生活をしていました。

「貴方のことが好きです」しかし、その日々にも終わりが来ることになりました。突然現れたその女性はとても若く、結婚してから十年が経った妻よりもとても綺麗でした。「私は、貴方のことが好きです」

「しかし僕は結婚している。妻がいるんだ」

「でも、子供は居ませんよね」

 痛い所をつかれたな、と若者ではなくなった男性は心の中で思いました。彼の妻である女性は性交をしても子供が出来ない体をしており、故に彼には子供がいないのです。そればかりか、男性はここ何年も性交をしておりません。「何でそのことを知ってるんだい」

「貴方のことをずっと見てましたから。十年、待ちました。あんな女なんか捨てて、いえ、捨てなくてもいいですから。私と付き合ってくれませんか」

 そう言われた男性は一度は断ったのですが、「そうですか。じゃあ、一緒に飲んでくれませんか? それくらいならいいんじゃないですか」と誘われて行った酒屋で睡眠薬を盛られ、男性と女性は関係をもってしまったのです。

 そうして、これまで真面目にやってきた男性は、甘い汁というものをすってしまいました。彼女とはそこで別れましたが、あの夜に飲んだお酒、あの時に溺れた彼女を忘れることは出来ず、次第に男性は彼女を自ら誘うようになったのです。

 酒に酔う生活は当たり前、朝帰りもほぼ毎日となると、当然男性の妻は気が付きます。「今すぐその人を連れて来て。話し合いましょう」と男性に向けていいました。

 妻にばれ、いよいよ焦り始めた男性でしたが、しかしその頃には男性の愛情は全て愛人となった女性に向けられていました。

「そんな。あの人にばれちゃったの」

「そうだ。どうしよう、これから」

「因みに聞いておくけど、貴方は、あの人と私、どっちを愛しているの」

「もちろん君だ。この気持ちに偽りはない」

「そう」彼女は言うと、苦しんでいる様子で言いました。「……じゃあ、心中するしかないかな」

 愛人の言葉に、男性は驚きました。「え? 心中?」としどろもどろになります。

 何を言ってるんだ、と言おうとした口が。

 愛人の唇で塞がれました。

「ごめんね。こんなことになっちゃって。でもね、このまま生きるなんて私には無理なの。私のお腹には、貴方の赤ちゃんがいるから」

「え? それは本当かい?」

「うん。だから」そして、彼女は男性の耳に口を近付けて囁きます。それはまるで、罪人を天上へ連れていこうとする天使のような囁きでした。「三人一緒に暮らせないなら、三人一緒に死のうよ」

 こうして男性は愛人と自分の子と一緒に死ぬことを決め。

 深い深い山の中。

 二人は抱き合いながら、息を引き取りました。




「……うわ」僕はいつの間にか泣いていた。両目から涙を流しに流し、その激流が止まる気配は一向にない。「何で」

 何で僕はこんなに悲しい気分になっているんだろう。

 そうだ、よく考えてみろよ。小綺麗に纏めてはいるけれど、主人公の男性は愛していた妻を捨てて愛人を選び、揚げ句の果てに心中をしたんだ。

 何の救いもないこの物語に。

 僕は、どうしてこんなにも感動しているのだろう。これ程までに悲しく、切ない気分になったのは初めてだった。自然、涙だけではなく鼻水も出る。本を絶対に汚さない為に、ゆっくりと丁寧に机の上に戻すと、僕は立ち上がって泣いた。第三者からみると、僕のその姿は無垢な赤ん坊のようだっただろう。泣き、叫び、もう一度泣く。泣いて泣いて、僕はこれでもかというくらいに泣いた。

 時間の感覚が無くなったまま、そして僕はゆっくりと気持ちを落ち着かせる。感動の雄叫びがようやく静まった。目は泣きすぎたせいで水分が足りないのか、痛い。喉も少し痛みを帯びていた。

「絶対に泣ける本っていうのは、あった」

 最後にそう呟くと、後光が射しているようにも見える本に一礼をしてから、懺悔室を出た。

「いかがだったでしょうか」僕を出迎えてくれたのは、あの青年だった。相変わらず、笑顔のままだ。「本を読んで泣けましたでしょうか」

「はい。そりゃもう、あんなに感動したのは初めてでした」

 僕は心の底から青年に向けて言う。今日の僕は不運だと思っていたけれど、まさかこんな本に出会うことが出来るとは。

 感動した。間違いなく感動した。

 主人公が愛人と心中するだけの、何の捻りもない物語を読んで――。


「それだけなのか?」


 心に思ったことをそのまま言う。「本当に、それだけ?」

 いや。待て。冷静になった頭で考えるんだ。そうすれば、自ずとおかしな部分が見えてくるに違いない。

 鼻をすすりながら、僕は青年の顔をまじまじと見る。対して青年は、そんな僕の行動を見て楽しんでいるかのように見えた。

「そうです、柏木さん。その通りなんです。柏木さんが疑問に感じるのは自然な道理なんです。普通に読んだら何の変哲もない内容です。しかし、柏木さん――貴方が読むことによって、あの本は普通の本では無くなるんですよ」

「……どういうことなんですか。あの本は、何なんですか」

「とある遺跡からばらばらの状態で発掘し、私共が製本したもの。読んだ者に対して、不思議な現象を浮かべる本」

 そして。

 青年は、僕に告げる。「あの本は、読む人によって内容が変わります。あの本は、読む人にとって最も衝撃的な内容を記し出します。その人にとって泣く価値のある話が現世になければ――前世まで遡って」

 前世。

 その単語を聞いて、僕は思い出す。――今日の朝、改札口の前に居た占い師。その人物が言っていた、僕の前世にあたる内容。

「前世」と僕は呟く。「前世の死に方」

「そうです。例え平凡なサラリーマンにしろ、例え修羅場をくぐり抜けたヤクザにしろ。誰にでも心の中に秘めている物語はありますし、前世まで遡れるとまで出来るとなれば尚更」

 何故なら。

 死の瞬間という、当人にとって最も悲しい記憶が目の前に浮かび上がるんですから。「あの本は、絶対に泣ける本は、読む人の遺伝子という概念など通り越し、前世説まで肯定したまま、読む人を根本から揺らします。だから、あの本を読んだ人間は絶対に泣くんです」

 まあまあに長い説明だったけど、おかげで全て納得した。何故、絶対に泣く本を読んだ人の感想が全員違うのか。深層心理を揺らすだけじゃなく、前世の記憶まで揺らす本。だからあの本を読んだ人間は絶対に泣かせ、逆に、泣かない人間なんていない。

「いくらなんでも泣きすぎよ、柏木君」

 青年がいる場所より奥から彼女の声が聞こえてきた。僕より先に読み終わったのだろう。青年の横を通ると、長椅子に座る彼女がそこに居た。

「男なのにそんなに泣いちゃだめでしょ」

 そういう君はどうなんだよ、と言い返してやりたかった。

 彼女の頬は。

 全く赤く染まっていなかった。

「何で君は泣いていないんだ」と僕は驚いて言う。

「泣きたくても泣けなかったのよ」と彼女は嫌々返答した。




 教会を出ようとした僕と彼女に向けて、青年は「では、これよりお二方の記憶を一部消させてもらいます」と言ってきた。

「な」「何でですか」当然、僕ら二人は抗議する。それよりもなによりも、記憶を消すとはどういうことなんだ。本当にそんなことが出来るのか。抗議を続ける僕らだったけど、青年は僕ら二人の様子など全く気にしていないのか、尚も微笑を浮かべている。

「あの本の秘密を持ち出されては、我々が困るんですよ。だから、我々が所有する技術を使って、お二方の記憶を消させてもらいます。あ、いくら反論しても無駄ですよ。教会の出入口に装置が設置してありますので、お二方は記憶の削除から逃れることはできません」

「…………」

 沈黙の状態になった僕と彼女だったが、その一方で僕は納得していた。

 何故、記者の誰も、正確な情報を持ち出していないのか。恐らく、教会から出たら取材道具一式が渡されるんだ。「忘れ物ですよ、柏木さん」とかいいながら。だから、取材が出来ない。取材云々の話ではない。とりつく島も、ない。

 ふいに、朝聞いたニュースを思い出す。アナウンサーが言っていた訳のわからないニュースは間違いではないのかもしれない。

「……貴方、いえ、貴方達は一体何物なんですか」

「我々ですか?」青年は、表情を崩さずに言った。「お金が大好きな、しがない科学者集団ってところです」

 僕と彼女は教会を出る。

 記憶が、そうして消され――。



「あれ?」いつの間にか、僕は教会の外に出ていた。「今まで僕は、何を……」

 太陽の日差しが混乱する頭を射しているけど、何とか気にしないで思考を展開しようと思う。まず、僕は絶対に泣ける本というものを取材しに行った。そして、その本を読んだ。今思い返してみてもあの本のストーリーはよかったなあと感慨深く思う。浮気相手と共に心中する男のストーリー。

「……ん?」改めて思うと、何がよかったのか説明出来ない。いや、でも、感動したのは確かだ。「そうだ。僕は泣いた。絶対に泣ける本はあったんだ」

「よかったよね、あの本」

 空を見上げて感動にふけっていると、左方向から声がかかってきた。僕の元彼女にあたる人だ。


「感動したわ。あんなに泣いたのは生まれて初めてかも」


 そう言う彼女の顔が大学生時代に見たこともないような綺麗な微笑を浮かべていたので、僕は一瞬だけみとれてしまったけれど、「そうだねえ」と言って瞬時に取り繕う。彼女は、ニヤニヤと口の端を歪ませながら「そうだねえ」と僕の言葉を繰り返した。

「すいませんお二方。荷物をお忘れですよ」

 後方から聞いたことのある声が聞こえてくる、と思ったら例の青年だった。教会で働いているという青年が、僕ら目掛けて歩いてくる。バッグやらカメラやらを見る限り、どうやら僕達が忘れた荷物を届けに来てくれたようだ。

「あれ、私、忘れてましたか」彼女があらやだと言わんばかりに口を押さえる。そして青年からバッグを受け取り礼を言った。僕も同じような言動をして青年から取材道具が詰まったバッグとカメラを受け取る。

「では」青年は僕ら二人が荷物を受け取ったことを確認すると、手を振りながら笑顔で去っていく。「泣けなかった方も泣けた方も、またの機会をお待ちしています」

 ――この言葉で。

 僕の頭の中に、思考の渦が展開された。

 ――泣けなかった方?

 あの本を読んで、僕ら二人のどちらかが泣いていなかったってことなのか? いや、待て、思い出すんだ僕。そうだ、僕はあの本を懺悔室で読んで、その後になまじ信じられない話を聞き、そしてそして、信じられないものを見た。それら二つがどんなものだったのかが思い出せない。ぼんやりと、後者の方は記憶に残っているみたいだけど。

 ――記憶?

 どういうことなんだ。何故、僕は、この一言にここまで引っ掛かるものを感じるんだ。

「柏木君、大丈夫?」ずっと押し黙っている僕を心配してくれたのか、隣に立つ彼女が僕に話しかけてくる。「顔色悪いけど」

「いや、大丈夫。大丈夫だからちょっと静かにしてて」

「……ここで柏木君は何でそういう返しをするかな」

 不満そうな顔で僕の苦情を呟く彼女。ああ、こんな表情を見るのも久しぶりだなあと昔の記憶に思いをはせた。

 今の彼女との相違点はやっぱり、小皺の量くらいなものだろう。結婚指輪のことも忘れてはいけない。昔付き合っていた彼女が、結婚していたのだ。

 そうして、僕は。

 読んだら絶対に泣く本を読んで、彼女が泣いていなかったことを思い出す。「そうだ。なあ、君は泣いていなかったんじゃないのかな」

「泣いてない? 私が? 何でよ。絶対に泣く本を読んで、本人が泣いたって言ってるのに」

「だって、ほら」僕は、自分の右目を指差す。「僕の目は涙を流しすぎて乾燥しているのに、君の目は水分が豊富っぽい。それに何より、頬っぺたが赤くなってない」

「…………」

 僕に指摘された彼女も今の今まで気付いていなかったらしい。「あれ、なんで」とぶつぶつ呟きつつも、「でも私は泣いたわ。あの本を読んで泣いた。それは間違いない」と断言した。

「だったら」

 もしかしたら取り替えしのつかないことを聞こうとしているのかもしれない、と頭の端で危険信号が鳴り響く。絶対に泣く本とやらを読んで泣かない状況。もし彼女が泣いていないのなら、その状況に陥ったのなら――泣かない理由は一つしかないからだ。

「君が読んだ本の内容を、僕に教えてくれよ」

 彼女は最初、僕のこの要求に対して「いいわよ」と快諾した。しかし、そこで彼女の動きがピタリと止まる。顔が青ざめてきた。

「言えないのかい」

「ちょ、ちょっと待って。今思い出してるから」

「じゃあ、僕が読んだ本の内容を言うよ。その間に思い出して」

 そう言うと僕は、さっき読んだ本の内容を洗いざらい喋った。妻を捨て、愛人と共に死ぬ事を選んだ男の物語。僕は喋りながら、彼女の様子を観察する。

 彼女は僕の話しなどまるで聞いておらず。

 どうやってこの場を諌めようか考えているようだった。

 僕は喋りながら、彼女に悟られないようにゆっくりとバッグを開けて手を入れる。ボイスレコーダーのスイッチをオンにすると、「じゃあ、今度は君の番だ。僕だけ言って君だけ言わないのはおかしいだろ」

「……相変わらず欝陶しいね、柏木君は」

 彼女は僕の顔を見て、何かを諦めたような顔をした。それは一切の我慢を取り払ったような顔で、彼女は僕に語りかける。

 平日の昼間に社会人が絶対に泣ける本とやらを読みに行く。それがもしも、最後の晩餐的な代物だったなら。取り替えしのつかないことをして人生が尽きるのがわかっていて、それだったら最後の最後に泣いてしまいたいと思ったのなら。大学生時代に、彼女は言っていた。「人間は誰でも泣きたいんだよ」と。「泣いて、ぶちまけたいんだよ」と。

 何かをする予定で。

 それを実行すると、泣きたいのに泣けない状態になるのなら。

 絶対に泣ける本とやらを予約しておいて、その前日に行動に移せばいい――。

 普通なら泣きたくなるような内容が、その人にとって泣くに泣けない内容だった場合、泣けない。まるで、今さっきの彼女のように。

『そのようにして泣けない者は少なからずいます。しかし、そうなると絶対に泣ける本が嘘になってしまいます。だから私共が後ろに控えているのです。ただ、記憶削除だけでなく記憶操作までなると大金がかかってしまいますので、出来れば素直に泣いて欲しいんですがね』

 頭の中に直接、青年の声が響いたような気がした。これも記憶操作という奴なのだろうか。『そして私共は、お金よりも何よりも、見知った知人のそういう真実に気付く様を見るのが大好きなのです』

 信じたくはなかった。

 だけど、もし僕の予想が正しければ、彼女は――。

 今日の早朝にアナウンサーが言っていたニュースを思い出す。――「結婚相手の男性の浮気相手を殺傷する事件が起こりました」

 そして、結婚指輪を指に嵌める彼女は。

 悪魔のような天使のような。

 天使のような悪魔のような。

 見る者全てを魅了させてしまう程魅力的な笑顔のまま、読んだ本の内容を語り出す。

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