碧い目の天使
最後を迎える前に記録をつけようと思った。
たとえこのノートが消え去ったとしても、僕の魂に縫い付けるよう書き記す。
2000年代の真ん中、僕はちょうど20歳になった、でも僕の世界は広まるどころか狭まっていた。僕は引きこもりのニートだった。
案外ニートってのは時間に恵まれている割に満たされない。
もちろん将来への焦燥感はあったけどそれよりも刺激がなかった。
正確に言えば「刺激が足りない」という認識すらできないほど心が閉じていた。センサーがどうにかしていたのだ。
そんな閉じた世界での唯一の楽しみは夢を見ることだった。
見たことのない場所の夢は失いつつある好奇心を刺激したし、夢は時として宇宙や深海、時代も超えた。
現実では対人問題で利用できない喫茶店やファストフード店も夢でなら好きなだけ敷居を跨げた。明晰夢や体外離脱は子供のころ以来のアトラクションだった。
そうやって虚無な生活にも慣れた頃、彼女と出会った。
最初の出会いは行った事の無い東京タワーの中だった。
歪んだ壁やエレベーターがここを夢だと教えてくれた。
周りを見渡すと、面識のある人や昔の同級生が昔の姿のままで東京タワーの展望室らしき場所を楽しんでいる。ただ窓の外は海中であった。色とりどりの魚やグロテスクなほどの美しい知覚できない何かが外を泳ぐ。
可視光だけではない様々な光の屈折がまるでオーロラのように室内と海を照らしていた。
私も窓の外に映る歪な景色を楽しもうと窓辺に向かった時、彼女を見つけた。
喪服のような黒のドレス。肌の露出を極端に減らし、顔には黒のベールがかかっている。後ろに流す髪は漆黒だが、輝きを伴っている。そんな矛盾した美しさに僕の目は釘づけになった。
視線はわからないが、何故か僕を見た目ていると感じた。
僕は彼女に話かけようとした。現実では決して出来ない初対面の異性への声かけ。でもここは僕の夢の中。何も怖くない、僕はそう思っていた。でも彼女は近づく僕に一言を投げてきた。
「ごめんね、すぐ出て行くね。」
今でも彼女の声質は覚えていない。実際には声なんてなかったのかもしれない。でも僕の心に彼女の声は響いた。
そうして彼女は消えて僕は目を覚ました。
たった一言夢の住人に声を掛けられただけ。それだけなのに僕は忘れまいと彼女の詳細を手帳に記録した。
ニートの1日はひどく鈍く感じるモノだった。朝は両親との約束で必ず6時に起きていた。そして家の周りと二軒隣まで道を掃除をする。
休まず行うそれは自分が自分であるための楔でもあった。
朝食と昼食は食べない。掃除の後は飼っていたボーダーコリーの「ラータ」を散歩に連れて行く。散歩ははたっぷり1時間半かける。
何とか人と合わないよう裏道を縫うように行く。目的地は広い緑地公園だ。
ラータは僕がニートにだろうが学生だろうが、おそらくゴミみたいな人間もどきで有ろうが、変わらない笑顔をいつも向けてくれていた。帰ったらラータにご飯をやる。僕がご飯を美味しく食べられない分、彼にはたくさん食べてもらった。
それ以降は暗闇の時間だ。まだ日は高いが僕は部屋にこもって過ごす。カーテンを閉め切り淀んだ空気を吸って置物のようになる。
そんな生活が一年二ヶ月程続いた時だった。暦は10月に差し掛かっているのにまだまだ夏の暑さを残していた。寝苦しい夜だった。そんな夜に彼女と再会した。
夢の中でキッズルームにいた。僕の目の前にはブロック玩具で遊ぶ幸せそうな幼き日の僕がおり周りは様々なおもちゃやヌイグルミにあふれていた。玩具から放たれる原色の光が僕の瞳を塗りつぶしていた。
そして無邪気な幼い僕を後ろから見つめているあの時の黒衣の彼女が居た。
部屋の入り口にいる現在の僕をみて彼女は言った
「ごめんね、楽しそうだったから。」
彼女は幼い僕に向き直り頭を撫でようとした。でも彼女の手は僕に触れず離れた。
「もう来ないから安心して。ごめんね。」
そう言って消えそうな彼女の手を僕は掴んだ。
彼女は驚いて僕の手を振り払った。
「だめだよ!私に触れたら…」
そういいながら彼女は純白のハンカチで僕の手をしきりに拭っていた。その時も自身が触れぬよう注意していた。その姿を見た僕の心には悲しみが満ちていた。彼女に拒絶されたからか、それとも違う理由なのか。
「ごめんさい。頑張ったけど完全には取れなかった。本当にごめんなさい。」
彼女は泣きながらそう言った。彼女のハンカチはいつのまにか黒く汚れていた。
僕は申し訳なくなった。僕は何かを言おうと考えたが口を開く頃には彼女は消えていた。
僕は目が覚めると涙を流していた。僕の手を自責しながら拭っていた彼女が忘れられなかった。
それからしばらく彼女は見なかった。
そして僕の閉じた世界が揺れ動き出した。
年末の気配を感じる頃、元気だった。ラータが死んだ。
確かに若くなかったが、前日まで元気だったしご飯だっていっぱい食べていた。朝、散歩をせがまない事が不思議で体を触ったら冷たかった。僕は苦しみに耐えることができなかった。両親も慰めてくれたけどなにか大切な自分の一部を失ったと感じた。ラータを市役所の職員さんに受け渡す。火葬のあと動物霊園に眠るらしい。ラータの体は魂の分軽いはずが、死後硬直のせいかいつもよりはるかに重く感じた。
僕は眠れなかった。早朝、朝日がカーテンの隙間を縫って僕を攻め立てた。
僕はふと部屋の入り口を見た。扉が開いている。廊下があるはずの空間は真っ黒に塗りつぶされていた。
そこには彼女が立っていた。僕はいつの間にか眠っていたらしい。彼女が僕の傍に来て座った。
何も言わないし依然としてベールがあるから顔も見ることができないけど、彼女は泣きはらしていた。
「ごめんなさい。」
しばらく彼女はその言葉を何度も繰り返した。僕の生き物としての本能は彼女を恐れていが、自身の魂や感情すべてを抑えるような泣き声を聞くと、僕は何かをしてあげたかった。そしてハンカチを手に取り、彼女のベールを上げようとした。
彼女は慌てて僕から離れる。
僕はとっさに言った。
「大丈夫だから。僕は大丈夫だから泣かないで。」
彼女はその言葉で迷っていた。でもどこかで触れ合いを望んでいたのだと思う。彼女の迷うような動きが止まり僕に近寄ってくれた。そしてベールをめくりやすいよう僕に向かって頭を軽く下げる。
僕はどこかで見た結婚式を想像して少し照れてしまった。
丁寧に彼女のベールを上げる。僕はその光景を今でも鮮明に思い出すことが出来る。
白磁のような白い肌、まるで血管が通っていないような。そして長いまつげと大きな瑠璃色の瞳。
そこからこぼれ続ける涙は彼女のアイメイクを溶かし、白い肌の上で黒いグラデーションを描き上げていた。僕は何も考えることが出来なかったけど。ハンカチで彼女の涙をぬぐった。
「ごめんなさい。私はただ運ぶ者。あなたの見る夢が綺麗で、気になってつい入ってみたくて。ごめんなさい。」
彼女は何かを懸命に話しているが僕にはわからない。でもその分彼女の涙に集中した。
彼女には慰めが必要に思えた。今の僕と一緒だった。僕は女性を楽しませるようなトークや経験を持ってなかった。それでも僕が生きてきて集めた宝物を話した。
はじめてラータが家に来た時の事。僕が初めて自転車に乗れるようになったこと。両親との幸せな思い出。僕の作ったお菓子で両親が喜んでくれたこと。ラータといつも行った緑地公園に綺麗な椿が咲いていること。今思っても本当にちっぽけで他人からすれば何の魅力もない話だったけど彼女は懸命に聞いてくれた。そして今朝ラータとお別れしたこと。気が付くと僕は泣いていた。彼女も泣いていた。でも僕と彼女にはふれあいの喜びがあった。
彼女は言う。
「もう行くね。こんなに優しくしてくれてありがとう。人からこんなに優しくされたのは初めて。」
彼女は続ける
「本当はダメだけど、こんなこと言うのは卑怯だけど、またあなたに会いに来ていいかな?」
僕は答えた。
「もちろん。僕なんかの夢でよければいつでも。」
そうして彼女は僕に口づけをくれた。人間離れしたあまりに恐ろしく美しい存在との縁が結ばれた。
それから僕らは夢でたくさん会った。現実では経験が無いけどデートだってした。宇宙を回り巡る観覧車や、空を行く汽車、月面の忘れられた神社、恐竜を見に行くこともあったし、はるか未来の滅亡した地球をも視た。
次第に手をつなぎ、言葉を交わし。愛を語り。そして体を重ねた。
場所を超えて時間を超えて僕たちは逢瀬を繰り返した。
そうしている間に、外の世界では僕の親友が突然の事故で死んでしまったし、父と母も続けて末期がんで死んでしまった。両親の喪主をした後は親戚の叔父や叔母、僕より年下の従弟や姪のお葬式にも参加した。
僕は死にまみれていた。
随分と親不孝だと思う。随分と汚らわしい人間だと思う。随分と禍々しい存在になっていく。
でもただ、ただ僕は彼女を真に愛していた。
それはつい先日の逢瀬だった。
僕たちは鶴橋の焼き肉屋にいた。
来たことも行くこともないだろうがなぜか鶴橋とわかるし、なぜここなのかも分からない。
随分と年季の入った店で壁紙は油で黒く汚れており、その上に手あかのついた手書きの品札が貼ってある。
僕は向かいに座る彼女を見た。
いつか見た時よりも彼女はずいぶんと明るくさらに美しくなった。今日の服装は黒のブルゾンに彼岸花が描かれた黒のシャツを着ていた。
スカートは彼女の瞳と同じ無限に深い瑠璃色だった。彼女の瞳からはもう涙は流れない。
彼女は僕の手を愛しく包みこみ話す。
「ありがとう。本当にありがとう。私はさみしかった。みんなの傍にいつもいるのに、誰も私を見てくれない。私に触れてくれないし誰も私を愛してくれないし、温めてくれない。でもあなたが居た。私は貴方が居ればなにも要らない。」
彼女の目には久しく涙が現れた。でも悲しい涙ではないだろう。
僕は彼女とずっと居たかった。だって外の世界には僕の大切なものはもう何も残っていない。家族も家も。ただ彼女との逢瀬だけが病に侵されながらも汚く生き続けている理由であった。
「僕、目覚めたくない、ずっと君といたいな。」
現実では感じられない彼女の肌の温かみを味わいながら言った。
彼女は微笑んだ。
「大丈夫だよ。もうすぐずっと永遠に一緒にいられるからね。そのために最後の仕上げをしているから。もう少しだけ待っていてね。」
その言葉を言った彼女は僕に静かにキスをした。
目が覚める。
朽ちかけのアパート。かび臭い畳。しけった万年床。ゴミの山の傍でアパートと同じく、朽ちかける僕の身体。僕は息をするのもやっとだった。
でも何故か安心していた。彼女の言葉の意味は分からないけど。僕は久しぶりに太陽の光を浴びようと窓を開けた。
そとにはたくさんの人がいた。みんな大荷物を持って移動している。
車道は見たことが無いほど渋滞しているし、バカみたいなクラクションの多重奏が響いていた。
みんな狂乱している。中には呆然と立ち尽くしたり、一人のものではない多量の血をまとった人もいる。
警察も自衛隊もいない。何が起こったのだろう。僕は久々にラジオを付けた。
一通り情報を集めラジオの電源を切る。どうやら今日は隕石による地球最後の日だったようだ。
私は残された時間、愛にあふれた彼女との記録をしたため始めた。
「もうすぐだよ。」
背中に渇望するぬくもりが伝わる。姿なき彼女の声が部屋に響いた。
-End-