唐紀 七十一 中和2(882)年(3)
話は変わり、※劉漢宏は再び登高の鎮将である王鎮を派遣し、七万の兵を率いて西陵に駐屯させ、錢鏐も再び夜浙江(銭塘江)を渡り、王鎮の陣営を襲擊して、彼を大敗させ、斬るまたは捕虜にした敵兵は一万人に上り、劉漢宏が諸将を官職に任じた偽の詔書二百余通を得て、王鎮は(浙東の越州に属する)諸暨に逃走した。
※「劉漢宏は再び………西陵に駐屯させ、錢鏐も再び夜浙江(銭塘江)を渡り」の訳について
この年の八月,※浙東觀察使の劉漢宏はその弟劉漢宥及び馬步都虞候の辛約に二万の兵を率いて西陵に駐屯させ、※浙西を併呑しようと謀ったが、それに対して(浙西の)杭州※刺史である董昌は都知兵馬使の錢鏐を派遣してこれを食い止めようとし、8月13日、錢鏐は霧に乗じ夜に浙江(銭塘江)を渡り、劉漢宥と辛約の陣営を襲撃して、彼らを大敗させていた。
そのため「劉漢宏は再び………西陵に駐屯させ、錢鏐も再び夜浙江(銭塘江)を渡り」という訳になった。
※浙東觀察使の政庁は越州の会稽(現・浙江省紹興市)にあった。
浙東は浙江(銭塘江)以東の地域、※浙西は浙江(銭塘江)以西、長江の南にまで及ぶ地域。
※刺史、州の長官。