唐紀 七十一 中和2(882)年(2)
さらに張濬が平盧軍の将兵に向かって※詔書を読み上げると、彼らは皆それに反応しなかったが、張濬は落ち着いて彼らを戒めた。
「人生は先に道理に反することと従うことを理解するべきであり、次に利害を知るのである。
そして黄巣は以前塩を密売していた賊にすぎないにも関わらず、公等が代々続いてきた(唐の)天子を捨てて黄巣の臣と称していることに、いったいどんな利益があるというのか!
しかも今天下の天子に忠義を尽くす軍はみな京畿(都及びその周辺地域)に集結しているが、しかし淄青(平盧)軍だけ京畿に至らないで、ある日賊軍が平定され、※天子が都にご帰還遊ばされたら、公等はどのような顔をして天下の人に会うというのか!
それゆえ至急京畿に赴いて功名(功績と名声)を分け合い、富貴を得なければ(裕福になり身分や地位が高くならなければ)、後悔しても取り返しがつかないぞ!」と。
そしてそれを聞いた将兵は皆顔色を変えて自分の過ちを認め、振り返って王敬武に言った。
「※張諫議が仰ったことは正しいです」と。
そしてそれを受けた王敬武は間を置かず出兵して、張濬に従い西(京畿)に向かった。
※詔書
天子(皇帝)の命令を記した文書
※天子が都にご帰還遊ばされたら
広明元年(880)の12月に黄巣軍が都の長安を陥落させる寸前に、当時の唐の天子である僖宗は逃亡して、広明二(881)年の正月に蜀の成都に到着し、中和二(882)年のこの時もまだ成都にいた。
ちなみに広明二年は7月に元号が改まって中和元年となった。
※張諫議
昔の中国で官職に就いている者は姓+官職名で呼んだ、そして張濬はこの時諫議大夫であるためこう呼ぶ。