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唐紀 七十一 中和2(882)年(1)

 中和ちゅうわ2(882)年10月。



 唐の僖宗きそう)朱温(しゅおん)右金吾大将軍うきんごだいしょうぐん河中行営招討副使かちゅうこうえいしょうとうふくしとし、名を賜って全忠ぜんちゅう)とした。


 ところで李克用(りこくよう)は重ねて※上表(じょうひょう)し唐朝に投降を希望したとは言っても、(きん)(だい)州を占拠し、頻繁に(へい)(ふん)州へ侵攻・略奪して、楼煩監(ろうはんかん)を奪取した。


 それに対し僖宗は義武(ぎぶ)※節度使の王処存(おうしょそん)と李克用の家は代々婚姻(いんせき)関係を結んでいたため、王処存に※(みことのり)を下して李克用へ告げさせた。


「もし李克用(りこくよう)が本心から朝廷に帰順(きじゅん)するならば、とりあえず朔州(さくしゅう)に帰って朝廷の命令を待つべきであり、李克用の暴虐さが以前と同様ならば、朝廷は河東かとう)大同(だいどう)軍と共にこれを討伐する」と。


 平盧(へいろ)の大将・王敬武(おうけいぶ)留後(りゅうご)(節度使代理)とした。


 時に諸道(しょどう)の軍は皆※関中(かんちゅう)に集結して※黄巣(こうそう)を討伐している最中であったが、ただ平盧軍のみが至らなかったため、諸道行営都統しょどうこうえいととう)王鐸おうたく)都統判官(ととうはんがん)諫議大夫かんぎたいふ)張濬(ちょうしゅん)を派遣し王敬武を説得させようとした。


 しかし王敬武(おうけいぶ)はすでに黄巣から※官爵(かんしゃく)を受けていて、張濬を出迎えなかったため、張濬は王敬武に会うと彼を責めた。


「公は天子(てんし)(皇帝)の藩臣(はんしん)(天子を守護する臣)となったにも関わらず、※勅使(ちょくし)侮辱(ぶじょく)し、朝廷に仕えることが出来ないのであれば、どうして部下に命令することができようか!」(いや、命令することはできない)と。


 これに王敬武は愕然(がくぜん)とし自身の非礼(ひれい)を謝罪した。


中和ちゅうわ


中和ちゅうわ(とう)の第18代皇帝・僖宗きそう)の時代に用いられた元号。


上表(じょうひょう)


君主に文書をたてまつること。


節度使せつどし


中国、唐・五代(ごだい)の軍職。初めは辺境警備のための軍団の司令官であったが、唐が衰退するきっかけとなった安史(あんし)の乱(755〜763年)で国内各地に多く置かれるようになり、管轄区内の軍事権・財政権・民政権を掌握し、強力な権限をもつようになった。


(みことのり)


天子(てんし)(皇帝)の命令。


関中かんちゅう


(とう)の都である長安(ちょうあん)(現・陝西(せんせい)西安(せいあん)市)一帯のこと。


黄巣こうそう


唐末期の大反乱、黄巣の乱の指導者。


官爵(かんしゃく)


官職と爵位(しゃくい)


勅使(ちょくし)


皇帝の命令を伝える使者のこと。

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