夕焼け 泪橋 フレンチクルーラー
この思いを伝えたい。
夕焼けが街角を赤く染める交差点で、僕はそのドーナツ屋の外から由美さんを眺めた。
店内では三人のお客さんがショーケースに並ぶドーナツを選んでる。由美さんはその向こうのレジの内側。歩道橋の上からでもその笑顔がよく見えた。
僕が由美さんを好きになったのは半年前、小学校6年の春、初めてこのドーナツ屋さんに入ったその瞬間だ。由美さんの胸にある『研修中』という名札はバイトを始めたばかりの印だというのを僕は知ってる。
まだぎこちない、でもとびきりの笑顔で僕とパパに「いらっしゃいませ。ようこそトールキンドーナツへ」と大きな声で言った。
由美さんのまん丸の大きな瞳、三つ編みの黒い髪、ピンクのほっぺ、僕は一目で好きになった。
でもわかってるさ。小学生で、しかも僕なんかを高校生の由美さんが相手にしてくれるわけないって。
店の窓から駐車場に三毛猫がいるのが見えたよ。僕を見てニャアとからかうように鳴いた。
イートインのテーブルでパパが「コロンボはこうやってフレンチクルーラーをブラックコーヒーに浸して食べるんだ。格好いいだろ」って読みかけの文庫本を閉じて実践した。
だから試しに一緒にやってみたけどせっかくの甘いドーナツが台無しだ。由美さんに大人っぽく見られたいのはやまやまだけど、二度とやらないよ。
「ダメだ。苦いよ、パパ。僕なんかがこんなことやっても似合わないし」
パパは笑いながらまた文庫本に眼を落とした。何かジブリ映画のノベライズだって。
…でパパ、コロンボって誰?
パパはブラックのコーヒーを美味しそうに一口飲んで、ニッコリ笑った。そして僕の質問には答えないで、こんなこと言ったんだ。
「なあ、太郎。太郎は口癖みたいに『僕なんか』って言うだろ。自分に自信がないのかな」
僕は答えられない。何でこんな僕になったのか。でも自信満々の僕なんて想像できない。
「ねえ、パパ。もっと堂々としてないとママとかに嫌われちゃうかな」
パパはコーヒーの染みこんだフレンチクルーラーをまた一口かじって、微笑んだ。
「大丈夫。太郎は大丈夫。どんな太郎だってパパもママも大好きだ。弱っちい太郎もパパは嫌いじゃないぞ。それから…」
「ママとかって、あとは誰に嫌われたくないんだい?」
ニヤリと笑うパパに僕の顔は赤くなったけど、お店の大きな窓から見える空も赤くなってきたので気がつかれてない…と思う。
それから時々僕はパパにねだってトールキンドーナツへ行くようになった。でもバイトの由美さんがいつもいるとは限らなかったし、「あのお姉さんに会いたいんだ」なんてパパに言えないよね。僕なんかじゃダメだってわかってるけど、いいじゃないか。由美さんを見てるだけで僕は幸せなんだ。
だからパパにねだるのは一週間に一回くらいにした。パパは僕が急にドーナツ大好きになったって笑ってた。
由美さんはお年寄りでも僕みたいな小学生でも、誰にでも親切で丁寧だった。
ある日、僕の前のお婆ちゃんが小銭出すのにモタモタしてたら、後ろのおじちゃんが「チッ」って結構大きな舌打ちした。目つきの悪い嫌な感じのおじさんだった。
由美さんは「いいんですよ。ゆっくりで」って優しい声で言って、そのおじちゃんをキッて睨んだんだ。あんな怖そうなおじさんにそんな顔ができるなんて、すごい。僕なんかじゃ絶対無理だ。
おじさんの半袖からチラリとサソリのタトゥーが見えた。僕は怖くて眼をそらす。
僕は知ってる。後で由美さんは店のエラい人から怒られてた。お客さんを睨むとは何事かって。でもあのエラい人も僕と同じで舌打ちしたおじちゃんから眼をそらしてたじゃん。由美さんのが勇気があってエラいと僕は思う。
帰りがけ、店の駐車場に棲みついているのか、あの三毛猫が僕を見てた。
「僕にも勇気があれば…」って猫に呟いたら、やっぱりニャアって答えが返ってきた。
勇気といえばやっぱりママは僕がいつもオドオドしてるのはあんまり気に入らないことのようだ。
ママは趣味でウーマンズラグビーチームに入り、さらにボクシングの練習もしてるというとんでもない女の人だ。家で本を読んでいるのが大好きなパパとどうして夫婦になったのかな。
ママが僕を無理矢理ラグビーの練習に引っ張ってったのは春休みのことだった。
「ほら、太郎。タックルのコツは『低く、相手の片足掴んで引き寄せ、自分の肩を相手のお腹に一気に押し込む』…わかった?」
いや、ママ。何でそんなことを僕が。
「明治大学の北島監督が『前へ』って言ってる。あなたも前へ!頑張れ!太郎!」
キタジマ監督が誰で、何が前へなのか知らないけれど、僕はパパよりもずっとゴツいオバさんの腰を目がけて何回もタックルをさせられ、前へどころか、もう二度とここに来ないと心に決めた。
「はい、繰り返す。『低く、片足つかむ、肩をぶつける!』太郎!頑張れ!前へ!」
ママの声が夕焼けのグランドに何度も響いた。
その夜パパとママの話を僕は聞いちゃった。盗み聞きじゃないよ。僕がソファでグッスリ眠ってるって思ったママが話し始めたんだ。
「ねえ、太郎は大丈夫かしら。今日練習に連れて行ったけど…」
ママは僕があんまりやる気を見せなかったことが不満らしい。
「私は強い子になってほしいの。ラグビーやってほしいとかじゃなくて」
パパは笑った。
「太郎は優しい子だよ。人のことを自分のことのように考えられる優しさがある。それで充分じゃないか」
「わかってるわ。でも優しさだけじゃ…」
ママの気持ちもわかるけど、僕なんかにそんな強さを期待するのは無理だよ。
「ママはまだあのプールの件が気になってるのかな?」
パパの声は少し小さくなった。
「そういうわけじゃ…ううん、そうかもしれない」
二人はしばらく無言になった。『プールのこと』っていうのはたぶん冬休みに旅行に行ったとき、僕が温水プールの前で震えて青ざめ、動けなくなったことだと思う。自分でも驚いたさ。
何でも僕は4年生の夏、学校のプールで溺れたらしい。『らしい』ってつまりよく覚えてないんだ。結構な大騒ぎになったはずだけど、不思議なことに記憶がない。記憶はないけど確かにそれ以来、水辺がダメになった。海にもプールにも近寄りたくないんだ。
旅行の時、ママは『温水プールに足をチャプチャプ』くらいから馴らそうとしたけれど、僕の様子が思った以上にひどくてショックだったんだって。
「こういうのは無理矢理何かしようとしないほうがいい。大丈夫。太郎は大丈夫」
パパがママの肩をポンポンと叩く音がした。
パパの言葉は嬉しかったけど、僕なんかをそんなに『大丈夫』って信じられてもなあ。
「ボクシングに連れてくのは止めておくわ」
ママの声に僕は安心したけれど、パパもホッとしたらしい。
「太郎は矢吹丈じゃないからね」
「泪橋を逆に渡ってくれたらと思ったのだけど」
ママが何を言ってるのかよくわからないけど、僕にガッカリしてるらしいことはよくわかった。
僕が一人きりでトールキンドーナツに行くのをパパが許可してくれた。
「一人で行っても構わないけど、その場合ドーナツ代は自分のお小遣いから出すこと。それからあの交差点は車通りが多いから横断歩道をちゃんと渡ること」
パパの言葉に「太郎、デブになるわよ」とママが僕とパパの両方を睨んだのは夏休み前のことだった。
夏休みのはじめくらいにトールキンドーナツの企画で『好きな人の似顔絵を描こう』ってコンクールがあった。紙ナフキンの裏側が応募用紙になってて、店の隅に色鉛筆やクレヨンが置いてあった。ホントは低学年の小さな子がお父さんとかお母さんとか、好きなアイドルやサッカー選手とか描いて出すんだ。
僕はすごく勇気を出して由美さんの顔を描いた。1時間も店にいたのは初めてだよ。
『由美さん、いつもニコニコありがとう。おいしいフレンチクルーラーが100倍くらいおいしくなります。あなたのファン 太郎」
似顔絵につけるメッセージにホントは『大好きです』って入れたかったけど、さすがに僕なんかにそんなのもらっても気持ち悪いだろって思ったから止めといた。僕はストーカーじゃないからね。
出来上がった似顔絵をそおっとレジに持ってって、由美さんの手元に置いて僕はパーって逃げちゃった。その時の顔はきっと揚げたてのドーナツみたいにホカホカしてたに違いない。
なぜだろう、いつもの猫が後ろからニャアアアっていつもより大きな声で僕を呼び止めてた。
その似顔絵の紙がどうなったと思う?僕は知ってるんだ。夕方、何だかいつもより騒がしい雰囲気のトールキンドーナツ前の交差点に来て、上から店を覗いたからね。
由美さんがバイト終わりで出てきたとき、スクールバッグのポケットにその紙があったよ。由美さんはいつものように自転車で帰ろうとして、僕の似顔絵を取り出した。じっと見て、泣き出しそうな顔で胸に抱きしめた。それからもう一度丁寧に畳んでバッグの中に入れたんだ。
「すごく大切にしてくれてるな…」僕は空を飛んでるみたいな心持ちだった。
それから…いつの間にか夏休みが終わってた。不思議なくらいにあっという間さ。
新学期になって久しぶりに僕はトールキンドーナツに行ったんだ。何でこんなに長いこと行かなかったんだろう。やっぱり恥ずかしかったからかな。
そっと店の中を覗いたけどパパと一緒じゃなかったからか、店の人には気がついてもらえない。
由美さんも店にはいなかった。まだバイトの時間前なのかな。
まあ、いいやって思って、そっとお店を出ようとしたらちょうど由美さんが店の中から現れた。何か急にすごく恥ずかしくなって、僕はスイーッと店の外へと移動した。
とてもじゃないけど、由美さんと視線を合わせられなかった。由美さんがハッとしてこちらを見たような気もしたけど、その顔は少し元気がなくてそれはすごく気になったんだ。いつもはあんな太陽のような笑顔の由美さんなのに。
その日は誰とも話さなかったけど、子猫だけが僕に挨拶してくれた。ニャアってね。
ドーナツ屋の交差点にかかる歩道橋で変なおじさんに会ったのはそんな夕方のことだったよ。ヨレヨレのコートを着たどこの国の人なのかよくわからないけれど、ちゃんと日本語は話せるようだった。
最初はすれ違いざまに話しかけられたんだ。
「あのぉ、ちょっとお伺いしていいですか」
大人の人にそんな丁寧に声を掛けられるなんて珍しいし、嫌な感じはしなかったから振り向いたんだ。
「はい」と「はあ」の中間くらいの返事をしたら、ヨレヨレおじさんが優しく微笑んだ。
それから額に親指と人差し指を当てて僕に訊ねたのが「あそこのドーナツ屋さんにはフレンチクルーラー、ありますかね」だったからちょっと笑っちゃったよ。
「ありますよ。コーヒーにつけて食べると美味しいってパパが」
「そりゃいい。そうしてみます」
おじさんが言った。軽いパーマがかかってて僕のパパより少し歳上かなって感じ。
「あ、それからね」
おじさんがまるで友達に言うように笑った。
「あなた、この歩道橋の名前を知ってますか?」
変なこと訊くなあ、って思うよね。ちょっとじゃないくらい怪しいかも。でもおじさんなのに笑顔がホントに可愛くて、僕もやっぱり笑い返した。
でも、おかしいな。歩道橋に名前があるのかな。
「歩道橋の名前ですか?」
おじさんはなぜかウィンクをして、歩道橋のたもとを指さした。
「後でご覧なさい。私ゃまたここに来ますから、会いたくなったら来るといい」
僕は首を捻りながら歩道橋を降りて、そのたもとを見た。
『泪橋』と彫ってある。…うーん、どこかで聞いたことあるなあ。
由美さんの浮かない顔の意味がわかったのはその後だ。
僕はすぐに夕暮れの泪橋であのヨレヨレコートのおじちゃんと再会した。
「またお会いできましたね。太郎さん」
僕はビックリしたよ。
「何で僕の名前知ってるの?」
「それより、ほーら。由美さんもそろそろ帰りの時間ですかね」
おじさんが僕の質問には答えず、橋の上からやっぱりレジにいる由美さんを指さした。
「…」
僕はさすがにちょっと気味が悪くなったけれど、不思議なことにそのおじさんが怖いという気持ちにはならなかった。逆に何だかすごく懐かしいようなそんな雰囲気だったんだ。
「由美さん…何だか元気がないような気がする。心配なんだ」
僕は歩道橋の上から由美さんの顔を伺う。
「でしょうな、ご覧なさい。何か変なやつが店の駐車場にいるの見えます?」
ヨレヨレおじさんの言葉に僕は眼を凝らす。何か…見覚えがあるな。何度か会った気がする。
「あれは…」
思い出した。トールキンドーナツで由美さんに舌打ちした嫌なおじさんだ。サソリのタトゥー…
「ここしばらく由美さんにつきまとっているみたいですな」
「ねえ、あなたは誰なの?僕のことも由美さんのことも知ってるなんて」
僕は思い切って尋ねた。
「ふふーん。私ゃロス市警のコロンボといいます。海を越えて、あなたの応援に来ました」
コロンボさんは何だかお茶目な笑顔を見せるけど、怪しさマックスだ。
でも、やっぱり心配なのは由美さんのことだ。
「ねえ、コロンボさん。あのサソリ男は何で由美さんにつきまとってるの?」
「どうなんですかね。ストーカーの気持ちはわかりません。タイプなのか、以前睨まれたんで、根に持ってるのか」
コロンボさんが『ストーカー』っていってドキッとした。僕は違うよ。似顔絵を渡しただけだ。でも由美さん目当てでお店に何度も行ったのも確かだけど…。
「太郎さん。今日は何か起こるかもしれません。ほら、由美さんの自転車のところに」
コロンボさんの指さした先を見ると、自転車置き場の茂みに潜むサソリ男がいた。
…!!絶対、由美さんに何かしようとしている。何とかしなくちゃ。
「コロンボさん、由美さんを助けて!」
僕は言ったけど、コロンボさんは首を振った。
「ここは私の管轄じゃないもんでね。あなた、太郎さんが助けに行きますか?」
「僕なんか、僕なんかじゃ無理だよ」
コロンボさんはヨレヨレコートのポケットから手帳を出して真ん中へんを開き、覗き込んだ。
「ああ、確かに『太郎さんなんか』じゃ無理かもしれませんな。はははは」
僕はちょっと腹を立てて、コロンボさんを睨んだ。
「由美さんが危ないんだ!何とかしてよ!僕なんかじゃ何もできないよ」
コロンボさんは急に真剣な顔になって僕の眼を見つめる。
「あなたが、『僕なんか』と言ってるうちは大事な人を救うことはできませんな。あきらめますか?」
そう言ってコロンボさんは手に持ったチビ鉛筆で眉毛をポリポリしながら、夕焼けの空を見た。
「あきらめていいわけないじゃない!どうしたらいいの!?」
ニッコリ笑うコロンボさんの背中から白くて大きな羽が生える。頭には光る輪っかが現れた。
「えええっ!」
何だ?どういうこと?コロンボさんは天使なの?
「言ったでしょ、私ゃあなたに勇気を持ってもらうために来たんですよ」
そして頭の上にある天使の輪っかをヒョイと取って、足下に置いた。
「ほい、ほいっと」
「?」
足下の輪っかはいつの間にかフレンチクルーラーになってる。そのドーナツがグングン大きくなる。
「ドーナツが!うわっ!」
大きく大きく、僕の部屋くらいの大きさになって止まった。
「勇気を出して飛び込んでご覧なさい。あっち側に戻れますよ」
…あっち側?どういうことなんだろう。ここは現実の世界じゃないのかな?
『泪橋』という歩道橋の上には僕と天使のコロンボさん、その橋の下でものすごく大きなフレンチクルーラーが空中で夕焼けに染まっている。
「コロンボさん、ここはいったい…?」
「太郎さん、あなたまだ気づいてないんですかね」
「…僕は、まさか…死んだの?」
「いやいや、まだ死んでません。死ぬ間際のどっちでもない世界にいます」
コロンボさんが少し切ない顔をした。
「あの日、由美さんにファンレターを出したあの日、太郎さんはドーナツ屋さんの前でひき逃げにあいました」
僕は全部思い出した。
「そうだった。どうりで夕方様子を見に行ったら騒がしかったわけだね。由美さんが悲しそうな顔をしていたのも僕の事故のせいだったのかな。この歩道橋の上から見たよ」
「太郎さん、思い出してください。お父さんから『ここの交差点は横断歩道を渡ること』って言われましたよね」
「…うん」
「もともとこの交差点には歩道橋なんてありませんよ」
「…ずっとドーナツ屋に行けなかったのも、久しぶりに行った店で気がついてもらえなかったのも」
「入院しているからです。今も生死の境をさまよっています」
ひき逃げにあった時のことも少しずつ思い出しかけてきた。信号無視して横断歩道に猛スピードで入ってくる車、ブレーキ音、運転席の窓から覗く腕、サソリのタトゥー…
「コロンボさん!あいつ!サソリの入れ墨!」
コロンボさんが手帳に何か書き込んだ。
「フムフム、あの男がひき逃げ犯ですな。由美さんも事故の瞬間を目撃してます。彼女は警察に『本人を見れば判るかも』と証言してますが、もちろんまだ捕まってません」
そう言って、パタンと手帳を閉じる。
「あそこにいますからね」
「コロンボさん!危ない!由美さんが危ない!」
コロンボさんが巨大なドーナツの真ん中を指さしてニッコリする。そこから助けに行けって、そういうこと?僕はドーナツの中を覗き込む。ドーナツ屋さんの裏にある自転車置き場、その陰に潜むサソリ男、帰り支度をする由美さん…
僕はすぐに飛び込もうとして、心臓がドクンと動いた。
ドーナツの中には並々と水が張ってある。小さなプールのようだ。ここに飛び込まないと由美さんが助けられないの?
「コロンボさん、これは…」
僕は冷や汗を出す。身体が動かない。『あの日』のことを思い出しかけて心臓がバクバクした。
『あの日』は小学校3年生の溺れた日、一度心臓が止まりかけた日のことだ。
「私ゃあの日も太郎さんにお会いしましたけど、覚えてませんかね」
コロンボさんがフフフと微笑んだ。
「太郎さん、あの時はただ溺れたんじゃなくて、子猫を助けたんですよ。学校のプールで溺れてた猫を助けようと飛び込んだでしょう」
「…あの猫」
「そうですね。いつか恩返ししようとしてるんですかね。ドーナツ屋の駐車場にいます。恩を返す前にあなたが交通事故に遭っちゃったわけですが」
フレンチクルーラーのプールの中に由美さんが見える。店を出て自転車置き場に向かってる。
「あなたは誰かの悲しみや苦しみを自分のことのように考えられる優しさと、そういう人を助けようとする強さがある人だったでしょ。思い出しなさい!」
コロンボさんの声が夕焼けの中、響いた。
「でも、でも無理だ。僕なんか…」
どうしても水が怖くて、僕はドーナツプールの前でしゃがみ込む。
「立て~!立つんだ~!太郎~っ!」
僕は眼をこする。コロンボさんの隣にもう一人、天使がいる?…違うな。
眼帯をして腹巻きをした和風の天使…いやどうみてもただのおじさん。
「立つんだ!太郎!」
その声はママの声だ!
僕は何故だか勇気が湧いてきて、ようやく泪橋の手すりに立ちあがる。
でもまだ踏ん切りがつかない。足が震える。目がくらむ。心臓がバクバクいってる。
もう自転車置き場で恐怖に立ちすくむ由美さんとその前でニヤニヤ笑うサソリ男が見える。
行かなきゃ!助けなきゃ!
僕の大事な人を助けなきゃ!気持ちは焦るけれど、身体が動かないんだ。誰か!
誰か僕の背中を押して!
「太郎!前へ!」
もう一度大きなママの声が響いた。
僕は目をつぶってドーナツのプールに飛び込んだ。
ドサッ!
「痛ててっ」
お尻から駐車場のコンクリートに落ちて、僕は悲鳴をあげた。
眼を丸くする由美さんとサソリ男の間だ。
「な、何だ。このガキ。ど、どこから来やがった」
サソリ男の手にはナイフが握られている。
もちろん僕は怖かったけど、さっきプールに飛び込めた僕だ。絶対由美さんを助けるんだ。
「…太郎…くん?」
由美さんが驚いて眼を大きく見開いている。
僕は手を広げて由美さんを後ろにかばう。
「お前が僕をひき逃げしたんだな!この悪党め!」
僕の声にサソリ男が顔をひきつらせ、由美さんがさらに眼を見開く。
「そうだわ。間違いない。ひき逃げのドライバー…」
「このガキィ。仕方ない。ここで二人とも始末してやる」
サソリ男の顔はホントのサソリのように凶悪になった。
「由美さんに指一本触れさせるもんか!」
威勢よく言ったものの、じりじりと僕は後ずさる。どうしよう。ママの言うことを聞いてボクシングに行っとけばよかった。
そんな僕の考えを読んだかのようにサソリ男がニヤリと笑って、一歩踏み出した。
「ニャアッ!」
その時、三毛猫がサソリ男の顔にビョンと飛びかかった。
「うわっ」
サソリ男が思わず顔を両手でかばう。
(低く、片足つかむ、肩をぶつける)
僕は頭の中で呟きながら、サソリ男にタックルした。
相手の膝くらいの低い態勢でぶつかる。左手で片足を持ち自分の方に引き寄せる。肩をサソリ男のお腹に押し込み、踏ん張って一気に前へダッシュ!前へ!
「ぐわああっ!」
ゴンッ!
サソリ男は見事に後ろにひっくり返り、後頭部を駐車場のコンクリートに打ちつけた。
「どうしました。何の騒ぎですか?」
その時、ようやく物音や大声に気づいた店の人達が駆けつけ、そこでのびてるサソリ男と呆然と見ている由美さん、そしてニャアと会心の鳴き声をあげる猫を見つけたんだ。
僕はというと…もちろんそこにはいない。だって病院のベッドで生死の境をさまよっているからね。
「お見事でした。太郎さん」
泪橋の上で再び僕とコロンボさんが下界を見下ろしている。
「ほら、警察ですよ。由美さんがひき逃げのことも話してます。これでたぶん大丈夫。あなたを轢いた車が見つかれば、言い逃れもできないでしょう」
「僕は由美さんを助けることができたの?」
「はい、あなたが由美さんを助けました。『僕なんか』じゃない太郎さんです」
僕は眼を閉じて思い出す。
「でも、やっぱり僕だけの力じゃダメだった。ママの声でプールに飛び込んで、ママの教えてくれたタックルで悪党を倒すことができた。それから猫の助けと」
「後さ…」
コロンボさんは僕をまた優しく見つめる。
「はい、何でしょう」
「コロンボさんはパパ…だよね」
コロンボさんはそれには答えず、ニッコリ笑って言った。
「さあ、そろそろ帰りましょう。大丈夫!もうあなたは大丈夫です、太郎さん」
そういうとコロンボさんは羽をパタパタさせて、空に浮かぶ。
「どうすれば帰れるか、わかりますか?太郎さん」
「えっ?どういうこと?」
「ここから帰るにはどうしたらいいか、答えはもう知ってるはずですよ」
僕は思い出す。確かに聞いた気がする。確かに…
「わかったよ、コロンボさん。『泪橋を逆に渡る』んだね」
ママがそう言ってた。そうすれば強い人になって帰っていける。
コロンボさんの声はもうだいぶ遠くから聞こえる。
「ご名答。ドーナツ屋さんの方角と逆に、お家の方へ渡るんですよ」
そう言えば、あの眼帯のおっちゃんはどこに行ったんだろう?ママの声だった変なおじちゃん。
「ちょっと待ってよ。ねえ、コロンボさん」
コロンボさんは空に浮かび上昇するごとに形が薄れていった。
「大丈夫だ、太郎。太郎はもう大丈夫。ママのところへ帰ろう、太郎」
気がつくと病院のベッドで目が覚めた。ずいぶん長いこと僕は眠っていたようだ。
「太郎!」
「太郎ちゃん!」
パパとママの悲鳴のような声が病室に響いた。
トールキンドーナツ前でひき逃げにあってから意識のなかった僕は何と一ヶ月近く昏睡状態だったらしい。幸いなことに外傷はさほどでなく、間もなく退院ということになった。
退院の前日、僕はパパにそっと訊いた。
「パパ、コロンボさんって天使だったのかな?」
パパは唐突なその質問にさすがに戸惑った顔をした。
「い、いきなり何の話だい?」
「アハハ、何でもないよ」
僕は話を変えてひき逃げ犯のことを尋ねる。パパがうーんと唸ってこう言った。
「安心しろ。捕まったそうだ。だけどな」
パパが続ける。
「でも不思議なことに」
「あそこでバイトをしている女子高生が捕まえたっていうんだよ。信じられるかい?」
僕は笑った。
「たぶん、ラグビーとかボクシングとか習ってたんじゃない?」
ようやく退院の日、パパの運転で僕は家に向かった。
僕は久しぶりに病院の外に出て少し疲れ、後部座席でウトウトする。
パパが助手席のママにボソボソと言うのが聞こえた。
盗み聞きじゃないよ。ホントに眠るとこだったんだ。
「ねえ、ママ。太郎に『ベルリン、天使の詩』っていう映画見せたかい?」
1週間前からものもらいで眼帯をしているママが答える。(泣きすぎたせいかもとパパが言ってた)
「何の話?それよりあなたこそ太郎に『明日のジョー』買ってあげたの?」
「どういうこと?」
「『立て、立つんだ』って泪橋でママが言ってくれたから力が湧いたって」
「…」
僕は寝たふりしながら、笑いをこらえるのに必死だった。
それから2年後のこと、僕は中学2年生になった。こういうの後日談っていうんだよね。
僕はトールキンドーナツのいつもの席でフレンチクルーラーを食べていた。ブラックコーヒーはまだちょっと僕には厳しいかも。ミルクも砂糖も多めに入れたコーヒーを飲みながら、文庫本を読んでいた。初めてこのドーナツ屋さんに来たとき、パパが読んでいた本で『猫の恩返し』っていうタイトルさ。
ドーナツ屋のイートインは読書と待ち合わせにはちょうどいいみたいだ。
えっ?誰を待ってるかって?
決まってるだろ。
「お待たせ、太郎くん」
今日もバイト上がりの由美さんを家まで送ってくんだ。
夕焼けに染まる横断歩道の前で信号待ちをする。
「そろそろ受験だからバイトも来月でおしまいの予定だけど…」
まだちょっと僕より背の高い由美さんが僕の目をじっと見た。
こういう時は僕から先に言わないと。
ええと、ええと。僕なんかが…そうじゃないよね。僕は・僕だから・僕こそ…ええと。
この思いを伝えたい。
夕焼けが街角を赤く染める交差点で、僕はトールキンドーナツの前で由美さんの顔を見る。
…でも初めての告白はフレンチクルーラーに飛び込むよりも難しいような気がするな。
見つめ合う僕と由美さんの顔が真っ赤なのはきっと夕焼けのせいだけじゃない。
どこかで猫がニャアと鳴いた。
読んでいただきありがとうございます。家内に読んでもらったら「楽しめる年代が限定的かも」と言ってました。いやいや、コロンボもジョーも明大ラグビーも世代を超えてますよね。ね。ね?




