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ジラドは相変わらずゴミの山の中を、機械の間を縫うように歩き回っていたが、暮らしは以前よりよほど楽になっていた。
リサイクル屋のおやじから、例のビルにちょくちょく荷物を運ぶ仕事をもらえるようになったおかげである。
ジラドもこれが少なからずヤバい話と関わりがあるらしい、とは気づいている。が、少しずつでも金の蓄えができることは、明日のメシの心配をしなくていい、ということであった。
そうなって初めて、ジラドは母を失ったことを悲しいと思うようになった。
ジラドは相変わらず無口だ。他の少年たちのギャングチームにもあまり関わらず、深入りもしない。
言ってみれば、スラム街の「勢力」たちからは「どうでもいいガキの1人」と見られていた。
そのことが、リサイクル屋のおやじやバリドゥにとっては「うってつけの運び屋」として重宝できる資質でもあったのだ。
バリドゥは馴染んでみると頭もよく、意外に優しさもある男だった。
誰にもあまりなつかないジラドが珍しくこの男になついた姿勢をとったのは、バリドゥが、子どもだからという理由でジラドを見下すようなことをしなかったからかもしれないし、危険な世界にいるこの男の内側に隠された本質を、子どもならではの嗅覚で見抜いていたからなのかもしれなかった。
他の大人とはめったに言葉を交わさないジラドは、人によっては「言葉が話せないガキ」と思われていたようだったが、バリドゥとは短いけれど会話をすることがあった。
「おまえ、字が読めないのか?」
ある日、普通に市場での買い物を頼もうとメモを渡した時、ジラドが困った顔をしたのをバリドゥは見逃さなかった。
「うん・・・」
相変わらず短い単語でしかないが、ジラドのその返事には今までにない響きが微かに混じっていた。
バリドゥはメモに書かれたラカン語の単語を、1つ1つ指差しながら読み上げてやった。それはただの食品や日用品の名前だったが、少年は食い入るようにその紙片を見つめて聞いている。
「これ、あとでもらっていい?」
少年がバリドゥを見上げた瞳の驚くほどの子どもっぽさに、バリドゥの方が狼狽えてしまった。
それからというもの、使いにやってくるたびにバリドゥはジラドに少しずつ「文字」を教えてやるようになった。
「バリドゥ、あまり情を移し過ぎない方がいいんじゃないか?」
この部屋にはバリドゥの他、もう1人男が住んでいる。小太りで丸顔の、バリドゥより10歳ほど年上といった感じの男だ。30代半ばといったところだろうか。
2人の立場上、接触する人間はよほど慎重に選ばなければならないし、しかも与える情報は十分に吟味しておかなければならない。
さもなければ、権力の牙はどこで彼らを捕捉するかもしれず、そうなれば仲間を危険に晒すことにもなるのだ。
「無口だといっても、子どもだ。」
「分かっているよ、ゴルビア。でも、あの子は頭がいい。あの歳で状況がちゃんと分かっている。先々には戦力になる可能性もある。だが、訓練するにも、まず文字がわからないとな——。」
実際、ジラドは年齢以上に賢かった。
自分の請け負っている「仕事」が誰に対しても目立ってはいけないものらしい、ということを察していて、ある程度まとまった金が入るようになっても大きく使うことはなく、相変わらずゴミ山の漁りを繰り返していた。
危険な場所でゴミ漁りをしながら、危険がその身を牙にかける前に、するりと抜けるようにして危険と危険の間を泳いでゆく。
バリドゥはそんなジラドの姿を遠目に見ていて、この少年の中に「戦士」としての素質を感じ取っていた。
そんなことも、この少年を育ててみよう、という気になった一因かもしれなかった。
ジラドが何度かバリドゥを訪ねるようになると、初めは胡散臭げに見ていたあの少女が小さく微笑で挨拶をすることもあった。
そんな時はジラドも小さく頭を下げて階段を通った。
どこに住んでいるのかは分からないが、少女はよくその階段に1人で腰を下ろしていた。
・・・が、特に言葉をかわすわけではない。
ジラドも無口だったが、少女も無口だったから、特に会話をかわすこともなく、この幼い2人の関係はそれ以上進むこともなかった。
少年にとって、そんな奇妙な「オマケ付き下請け仕事」が続いていたある日、バリドゥは何気なくジラドに聞いた。
「母親には、どんな言葉のスペルを教えてもらったんだ?」
ジラドはその質問に、ちょっと嬉しそうな、誇らしげなような表情を見せ、雑紙を綴じただけの「ノート」に文字を書き始めた。
あらゆる情報伝達が端末で済ませられる現代であってもなお、極貧世界の住人にとっては「紙」は万能の情報伝達と記録の装置であった。
しかも、情報は物理的にそこにしか存在しないという点でも、バリドゥたちのような世界の住人にとっては意外に重宝な「端末装置」なのだ。
バリドゥが背後から見ている前で、ジラドがゆっくりと確かめるように書き進めてゆく文字。
そこに書かれてゆく言葉を眺めるバリドゥの眼差しが、次第に険しくなってゆくのをバリドゥ自身が自覚せずにはいられなかった。
愛 希望 幸福 未来 ・・・・・・・・
現れてきたのは、母が幼い我が子に与えようとしていたもの・・・・。あるいは、その儚い夢・・・・。
現実に役立つ言葉ではなく———。
覗き込んでいたバリドゥは、一瞬、それを掴んで破り捨てようかという衝動に駆られたが、実際に取った行動はバリドゥ自身さえ意外に思うようなものだった。
ふう、と1つため息のような息を吐き出し、それから、少年を背後から掻い抱いたのである。
ジラドは驚いて、びくっと体を縮めた。が、その腕の中は意外なほどに温かい。戸惑いがペンを持つ手を止めた。
バリドゥの表情には、それまでとは違った何かが宿っている。それは、ゴルビアがここに一緒に住みだしてから、初めて見る表情だった。
「おい、バリドゥ・・・。」
咎めるような訝しむような声をあげたゴルビアに、少年を抱きすくめたままのバリドゥは、空中の一点に目の焦点を固定して、自分自身に問いかけるような声で答えた。
「なあ、ゴルビア。・・・俺たちは——」
「俺たちは、こういう子どもを救うために戦っているんじゃなかったか?」




