『的外れななろう批判』を見てきた僕が感じたこと
昨今、SNS等で様々な意見を眺めていて、筆者自身色々と思うところがありました。
それをSNS上でお気持ちとして発信するのはなんだか面白くないなと思い、せっかくならエッセイにしようと思い立って本作を書き上げた次第です。
タイトルを見た時点で色々と思うところのある方がいるとは思いますが、とりあえず本文に目を通していただき、ご意見等は感想欄に書いていただければ幸いです。
では早速、筆者の思う『的外れななろう批判』というものが何を差しているか明確にしたいのですが、ここで言う批判とはひとつの意見を差しているわけではありません。
ですので、本作ではそれぞれの批判ごとに章立てしてお話を進めていきたく思います。
* * *
1.なろう掲載作は文学的に質が低いという批判について
この章題のような批判は、皆様も少なからず見たことのあると思います。
結論から言えば、この批判は一面的な事実を示している一方で、多くの方が認識の齟齬を起こし結果的に的はずれになっている批判と言えます。その理由を簡潔に説明していきます。
そもそも、どうしてこのような意見が散見されるのか、という点について考えてみましょう。
前提として、この意見は『なろうで人気のある作品』を指していると考えられます。なぜなら、誰でも自由に作品が投稿できるなろうという空間で全体のレベルが低いという主張が仮になされたとすれば、それは当たり前すぎて批判になり得ないからです。プロ野球(興行)に比べて草野球(趣味)のレベルが低いと主張するのと同じですね。
その前提に立ち、章題の主張を具体化すると以下のようになります。
『なろうで人気のある作品は文学的に質が低い』
では、この批判が批判として成立しているのか、という部分について考えてみましょう。結論から言えば一面的には成立しているが意味のない主張であると筆者は考えます。
筆者は、なろうでランキング上位に上がっている作品の文章力や表現力、作劇力等の質が低いかどうか精査することにさしたる意味はないと考えています。なぜなら、それらの作品群は文学的な質の良否で競っていないからです。
仮に文学的な権威のある芥川賞で文学的な質の低い作品が評価をされたのなら批判する道理が立ちます。しかし、なろうは小説投稿サイトである一方、文学的に質の高い作品を評価する空間としては機能していません。
では、そんななろうにおいて人気のある作品は何において評価するべきなのか、という点について考えましょう。
これも結論から先に言えば、『エンターテイメント(以下エンタメ)』――つまり娯楽として見るのが自然だと言えます。
なろうは日本国内でトップ15に入る人気サイトであり、エンタメとしてそれなりに高い地位にあります。そんな空間で人気のある作品は、より多くの読者に文章コンテツを提供した優れた娯楽として評価するべきでしょう。
とりわけ、なろうはブックマークと評価点の加算によるランキングを開示しており、人気度が定量的に評価できます。そういった視点で見ると、なろうという空間において最も優れた娯楽作品は累計ランキング1位の『転生したらスライムだった件(以下、転スラ)』(2020年8月時点)になると言えます。
しかしながら、本作を読まれている方の多くはこう思うでしょう。「なろうで転スラより面白いと感じた作品は他にもある」と。実のところ、章題で示したような批判が出る背景には、恐らく上述したような『主観的評価』と『客観的評価』の乖離があると考えられます。
仮に、転スラを読んだことはあるが転スラより面白い作品は他にある、と主張する方がいたとしましょう。その方は、自身が面白いと感じた作品がどの点において転スラより面白いと評価できたのか、定量化して説明できるでしょうか? 恐らくできないでしょう。そもそも、ある娯楽が主観的にどの程度楽しめたか、などというのは個々人の経験や感性、趣味嗜好を始めその他多くの個性に依存するものなので、本来は客観性など得られません。
転スラがなろうという空間において最も優れた娯楽作品であるという話は、あくまで統計的に最も多くのユーザーがその娯楽を楽しんだという客観的結果に基づき出た結論なのです。
その一方で、この乖離に苦しむ方が多くいるという現状もあります。よくあるのが「世間では人気があるけど面白さが理解できない」という主張です。ここまで本作を読まれた方なら、人気は客観的評価の結果であり、面白さは主観的評価だから合致しないのは当然だろうと理解できると思います。
しかしながら、人は客観的な評価と主観的な評価の乖離が生じた時、違和感や不安を覚える生き物です。その理由は、世間がおかしいのか自分がおかしいのか精査したくなるからだと考えられます。そういった理由がなければ、人気作の面白さが理解できないことにわざわざ苦言を呈す必要はないでしょう。
では、以上の話を踏まえつつ、『なろうで人気のある作品は文学的に質が低い』という批判がなぜ批判になるのか、という点について考えてみましょう。
そもそも、なろうは文学的な質の良否を競う空間ではないので、なろうで人気のある作品は文学的に質が高いわけではありません。先に述べたように、文学的に質の高い作品とは、例えば文学賞を受賞したり文芸界の権威に評価されたりした作品等が挙げられるでしょう。
ではなぜ、そんな的外れな評価をわざわざなろうに持ってくるのかと言えば、それは恐らく文学の『芸術的側面』と『エンタメ的側面』を混同しているからだと考えられます。
例えば、文学を芸術として見るとするなら、作品の質は学問及び芸術的な知見から評価するべきでしょう。優れた芸術作品とは『他の誰もが持ち得ない高い技術と独自の美的感覚で作り上げられたもの』と言われています。それらを評価するのが権威ある小説賞審査員や学問的な文芸界の専門家なのです。もちろん、芸術はエンタメではないので、大衆に好まれるかどうかは二次的な要素となります。
一方で、文学をエンタメとして見た時は、多くの需要を満たした作品を評価するべきでしょう。より多くの人の手に届き、より多くの人を楽しませた作品は優れた娯楽作品であるという理屈です。
しかしながら、ほとんどの娯楽は基本的に芸術的側面を内包しているものであり、絵画や映画のようにそれが一部において両立している場合も多いです。だからこそ、『芸術的に優れたものはエンタメ的にも優れている』と思い込みがちになってしまいます。
ここまでの考察をまとめると、以下のような推測を立てることができます。
まずもって、なろう人気作を批判する発端は『主観的評価』と『客観的評価』の乖離だと考えられます。なろうの人気作がなぜ人気なのか(なぜランキング上位なのか)理解できないという点に始まるわけですね。しかし、なろうのランキングシステムは統計的に導き出されたものであり、娯楽として楽しまれた数という客観的な評価を簡単に否定することができません。
ここで持ち出されるのが『芸術的側面』です。芸術的な権威のないなろう人気作は、当然ながら芸術的な文学として優れているわけではありません。そこに『芸術的に優れたものはエンタメ的にも優れている』という思いこみが加われば、「芸術的に優れていない作品群が人気作になる空間はおかしい」という批判が完成するわけですね。これは明らかに的外れだと言えるでしょう。
2.なろうの台頭は文芸界のレベルを下げるという批判について
第一章を踏まえ、続いてはなろうというコンテンツの台頭が文芸界のレベルを下げているという批判について考えてみましょう。
これも結論から言えば、筆者は一面的な事実だと感じる一方で、批判すること自体は恐らく無意味だと考えています。その理由を本章では説明していきます。
そもそも、こういった類の主張は携帯小説がベストセラー化した時や、ライトノベルが売れ始めた頃にも散々言われてきました。正直なところ、筆者は10年以上前に言われていたそれら主張がどこまで正しかったのか評価できません。と言うより、評価するのは極めて難しいでしょう。
しかしながら、第一章で述べた『芸術的側面』と『エンタメ的側面』の乖離が生じることによって、芸術的側面が衰退することはあり得ます。例えば『習字』や『生け花』といった文化が娯楽的側面を徐々に失い、それらを娯楽として享受する人が減っていけば、間違いなく芸術的にも衰退するでしょう。
他にも、『能』や『歌舞伎』のようにエンタメとして衰退したことで、大きく規模を縮小した分野はいくらでもあります。しかし、娯楽を享受する側はどうでしょう。
現代日本には、数え切れないほどの娯楽があります。テレビ、ゲーム、インターネット……他にもたくさんの娯楽が勃興しては衰退するという流れを経ています。その流れにおいて、芸術的に衰退する恐れがあるからとエンタメ業界に警鐘を鳴らすことに、どれだけ意味があったでしょうか。
テレビやインターネットの普及時にも、何らかの悪影響があるという批判はありました。しかし、現実はどうなったか。テレビもインターネットも、圧倒的な需要を満たす一大娯楽となりました。
要するに、これも転スラの理屈と同じで、娯楽は最も需要を満たすものが普及するだけなのです。「テレビなんて見ないし面白くない」などと主張してみたところで、テレビという娯楽を享受したことのない日本人は一人もいないでしょう。
そういった観点で見ると、仮になろうが文芸界の娯楽的な需要を満たすことで文芸界の芸術的なレベルが低下したとしても、誰もそれを止めることはできないと考えられます。止める方法があるとすれば、香川県がゲーム規制条例を打ち立てたように、「この娯楽は一定の問題があるから法的に規制するべき」と主張する方法が考えられます。現に、アダルトコンテンツ等にはそういった規制がかけられていますが、それに比べればなろうが文芸界に与える影響など些末なものだと言えます。
以上より、なろうの台頭は文芸界のレベルを下げるという批判は的外れではないかもしれないが、主張すること自体が的外れだと言えるのやもしれません。
3.なろうが出版業界又は作家に悪影響を与えているという批判について
本章の批判については少し細かく説明する必要があるかと思います。
まず、どうしてなろうが出版業界及び作家に悪影響を与えているなどという批判が出たのでしょうか。それは、なろうを始めとするWEB小説サイトの台頭により『本(主にライトノベル)を出版するための条件が大きく変わったから』です。
かつてWEB小説というコンテンツがメジャーではなかった頃は、素人がエンタメ作家を目指すならば出版社等の主催する公募に作品を応募して受賞を目指すのが王道でした。しかし、今市場に出回っている完全新作エンタメ小説の多くは『なろうのようなWEB空間で一定の評価を得た作品』になりつつあります。
なぜそうなったか説明するのは簡単で、単純に新人作家にイチから作品を書かせイチから宣伝して売り出すよりは、すでにWEB上で一定の人気を獲得した作品を出版した方が商品として失敗するリスクが低いからです。
ではなぜ、この流れが出版業界と作家に悪影響だと言えるのか。
まず出版社については、編集者が『WEB上での人気』という数字しか見なくなることで、売れる作品を見極める能力を培えなくなるから、という指摘があります。これは一面の事実かもしれませんが、企業とは安定的な収益を確保できるマーケティングを優先するものであり、編集者という一個人の能力より客観的な数字で商売を考えるのはごく自然なことだと考えられます。
もちろん、その企業戦略が失敗であるなら、WEB上での人気のみを頼りにして出版を続ける会社は倒産するでしょうし、WEBで人気を得た作品が書籍化されることはないでしょう。しかし現状はどうでしょうか。なろうという空間では、数万ptを確保すれば書籍化の声がかかるとされています。それはつまり、数万ptを確保した作品は業界的に商業的価値が認められていると見なされているのです。
この現状が悪影響なのかどうかは、もう少し業界の推移を観察して評価を下す必要があるとは思いますが、各出版社はWEBでの人気と商業化した際の売上に関する何らかの統計データをもって出版判断を下していると考えられるので、一概に悪影響とは言い切れないと筆者は考えています。
続いて、その状態が作家にとってどう悪影響なのか考えてみましょう。
これは非常に単純で、WEB上にあった作品が多く出版されるようになったことで、実力を認められた作家群が作品を出版できる機会が狭まってしまうからです。
また、出版社がWEB上での人気を重視しているのであれば、どんな作家も一度WEBに作品を上げて人気を出すという過程を踏まなければなりません。要するに、小説賞等で一定の実力が認められた者しか出版が許されなかったという業界に、WEB上に掲載された作品群が乗り込んできたわけですね。
こればかりは、業界がそうなってしまったから仕方がないかなという印象です。悪い影響を受けた方もいるでしょうし、逆にWEBから出版機会を得た方もいるでしょう。ただし、出版社が作家より作品評価にシフトしたことで『エンタメ作家として専業で食べていくこと』がさらに難しい時代になったと言えるかもしれません。
では、本章の最後に消費者がなろうの台頭で悪影響を受けるかどうかという点について考えてみましょう。
結論から言えば、悪影響を受けた人はいるが、それは少数派だと言うことができます。なぜなら、なろうという空間で人気のある作品は統計的に多く消費されている娯楽だからです。大多数は、毎日ランキングに上がってくる人気新作を楽しんで消費しています。
一方で、それらを楽しめない消費者とは作品人気に影響を与えない少数派であり、衰退し行く娯楽を追う者になると考えられます。例えるなら、漫才より落語が好きな消費者はいても世間の漫才人気には抗えないといったところでしょうか。
当然ながら、WEB空間で人気が出た作品が出版される状況が続けば、それらの作品を娯楽として消費できない人にとっては悪影響なのでしょう。しかし、娯楽とはいつの時代も需要を満たすものが発展していきます。第2章で述べた通り、市場がなろうに席巻されれば文学の芸術的な側面が衰退すると危惧していたとしても、誰も需要の波は覆せないのです。
仮に、抗う術があるとすれば、自分の好きな物を評価し、宣伝し、買い支え、需要がなくならないよう保護してあげるくらいでしょうか。皆様も「こんな作品が評価されてほしい」と感じることがあれば、それらの作品に評価やレビューを積極的にしてあげてはいかがかと思います。
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以上が、筆者である僕の感じたことです。
最後までお読み頂きありがとうございました。
様々なご意見等あるかと思いますが、それらは感想欄にて記載していただければ幸いです。
そして、本エッセイを娯楽作品として楽しめたと感じた皆様におかれましては、是非☆による評価をしていただければ幸いです。