インスタントに成り立つ人生
夜中の橙がぼうっといくらか宙に浮くように、冴島辰生も宙ぶらりんで最寄の公園を訪れた。
魚住町の夜は決して俺を蔑ろにはしないんだ。
冴島は酒に酔っていた。
今日は久々に馬券が酒にかえって、年相応とは思えないオーバーオールのポケットにはそのお釣り。手持ち無沙汰に揺らしてみたブランコで薄っぺらく羽織ったスカジャンが風を孕んだ。あんまり楽しくはない。
三十過ぎても就活浪人。
冴島の明日にはままならないものがある。
働く意思はあるのだ。
親不孝者の汚名を返上して、親戚宅を闊歩したい、とは思うが、肩までのびた髪やら、笑うと覗く黄ばんだ不揃いな歯、不衛生この上ない彼の出で立ちを受け入れる企業は残念ながら、ない。
冴島は公園を一巡して、酒屋の自販機にお釣りを投げた。
ありったけだ。
適当にボタンをたたく。しかし、いつもの感触がなかった。ピッという軽い電子音、がしゃんという生活の重み。それがない。
「おかしいな」
「お金が足りないんだよ」
冴島はぎょっとする。
自販機の影に一人の少年が立っている。
大きなリュックサックを背負い、学ラン姿で短髪。いかにも清潔。優等生の登場だった。
冴島の苦手な人種だ。
彼らの基本的に無害を装っている。
優しさの押し売りさえするが、その厚意を真に受けて自らのチャンスを差し出し尽くしてしまう冴島のような人間は、彼らにとって便利な文具のようなものだ。
幸運のステーショナリー。
しかし優等生たちは自らが相手を陥れたという自覚はまるっきしなく、何らかの事故にあって途中下車した憐れな友達、くらいには気にかけながらも、負け犬なんか忘れ去ってしまって、彼らは彼らの道を行くのだ。
そんな優等生が、冴島と対峙している。夜中に。彼らは昼間の生き物なのだとばかり思っていた。
優等生はおもむろに両ポケットを探りだした。
ナイフでも探しているのだろうか。だとしたら、よっぽど間抜けな通り魔くんだ。冴島は、死ぬことを恐れてはいなかった。ただ、殺されることには納得がいかない。なんの意味も持たない命に意味を生むものが死だと冴島は知っている。
高校の時、クラス一番の優等生が死んだ。
昼間は晴天だったのに、塾の帰り頃には大雨が降って、しかし彼女は傘を持ち合わせていなかった。
誰もがままならない視界の中で、精一杯温もりを得ようと走った日だ。帰路を急いでいたのは彼女だけではなかった。
小走りに暗闇を抜けようとする。
ふと、自分にスポットライトが当たって、救われたのだと直感する。
帰路を急いでいたのは、彼女だけではないのだ。
軽トラは彼女の存在に気付かぬまま、ちっぽけな命ひとつを奪って行方知れずとなった。
彼女の葬儀は大々的に執り行われ、同じクラスの冴島らも招かれた。みんな本心なのかわからないような涙を浮かべて「あの子は委員長としてよく私たちをまとめてくれた。頑張りすぎていたんだ。勉強にストレスを感じていたみたいだった」と述べる。
生前、それらは「優等生」の人くくりの言葉でしか彼女に届くことはなかったのに。その言葉が彼女の重圧になっていたことは間違いないのに。彼女が死んだそのときに、冴島らは彼女と初めて対峙した。
彼女の本質を見なければならなくなった。
死とは、冴島にとって相手に向き合うきっかけでもあったのだ。しかし今、冴島が死んだところで向き合ってくれる誰かがいるだろうか。両親が、友人が、誰かが、浮浪の俺を受け入れているか?
「おっさん、やばいよあんた。焦点が二つになってるよ」
「お、っさん?ああ、そうか。すまなかったな」
なぜ謝るのか。
ともかく優等生が怪訝な眼でこちらを見ている。
通報されても困るな。
こちとら賭け事で生計がたってきたところなんだから、職業紹介所に送られたら勘が鈍るじゃないか。冴島は思う。
ふと、優等生の通り魔くんがさしだした右手に目がいく。
「なんだい?この手は」
「あと百十円でしょ、あげるよ」
小さな手のなかに硬貨が二枚収まっている。
冴島は迷った。
これを受け取ってしまっていいものか。受け取った瞬間に強盗だと叫ばれはしないか。無垢な少年からたかが百十円を奪うために乱暴している就職浪人なんて笑えない。
「もしかして、僕がおっさんに服脱がされていじめられそうになりましたーとか叫ぶと思ってる?」
「いや、まあ……なんでそうなるんだ」
強盗の類いは想定したが、強姦だとは。想像の斜め上を通り越した。
「試してみる?」
「なにをだよ。ちょっと君さ、こんな時間なんだから家に帰るべきじゃないか?もう……」
冴島はとっさにあたりを見回した。時計が見当たらない。
「深夜零時二十分」
「そうだ、深夜零時二十分なんだからおうちの人も心配してるだろう。変なことは考えないで俺のことも忘れろ」
「おっさんを忘れるなんて一瞬さ。ただね、僕にはいまどうしても家に帰れない理由がある。これは暇潰しだよ、おっさん。百十円あげるから今夜の話し相手になってってこと」
こいつ、外面か。
冴島は猫だましを食らったように押し黙る。
優等生は次第に落ち着きがなくなり腕を組みだした。
「駄目なの?じゃあおっさんは強姦だ。か弱い中学生を貞操の危機にさらす凶悪犯だ」
「ちょっと待て、早まるな」
この間にも少年はリュックサックを放り学ランを脱ぎ捨てカッターシャツのボタンに手をかけた。ああ、この子中学生なんだ。呆然としてそんなことを思う。少年はカッターシャツのボタンを四つ外したとき、顔をあげて冴島をにらんだ。
「もしかして、そういう展開、期待してるわけじゃないよね。だから止めないの?呆然自失って感じで実は、中学生男子に興奮しちゃってんの?おっさん本当に信じらんないよ。百十円もらうだけでおっさんは警察のお世話にならなくていいんだよ?僕もこんな思いしなくていいし、円満解決だ。そうでしょ?」
こんな思いをしているのか。
じゃあ最初からおとなしくしていればよかったのに。
思春期は分からんな。冴島はしみじみ思った。
「わかった、わかったよ。もらうから」
「……そう、よかった」
「あと、俺は別に興奮してたわけじゃない。下手に触ると本当に訴えられかねないと思ったんだ」
「だろうね、おっさんの見た目は最悪に近い」
「おまえさ、初対面の大人相手によくそんなこと言えるな。まったく俺が優しくてよかった。普通のやつは逆上して殴りかかっててもおかしくないぞ」
「いいんだよ。殴られたら殴られたで。強姦されても、それでもよかった。じゃ、これあげるから」
冴島は硬貨を受け取って、ようやく適当なカップ酒を手中にした。なんだかもう萎えてしまって酒を仰ぐ気分でもなかったが、自販機の劣化かなにかでぬるいままのカップ酒を柄にもなくちびちび飲んだ。
「それじゃ、助かったよ。金はまた会えたら返すさ。だいたいはドリームズか競馬場にいるから。まあ多分、無理だろうが」
ドリームズは近所のパチンコ屋の愛称だった。
行きつけの連中はだいたいドリームズと呼んでいたが、それは店員のゆめのちゃんという童顔で三十代前半の女性の容姿なりが派手で男慣れした風情があり中高年の親父らにはたまらなくあったこと、ドリームズにはゆめちゃんという渾名の店員がゆめのちゃんの他にも四人いることも起因していた。
ゆめこ、ゆめじ、ゆめさき、ゆめだい。ともあれドリームズという愛称は一般的には定着していない。パチンコ屋は正式には「アイリーン」というのだし、まして子供がその名を知るはずがない。この優等生くんと関わりあいになるのはこれ以上やめにするべきだ。冴島の中で、誰かが言った。
ちゃっかり風紀違反を犯す優等生に背を向けて歩きだす。ぬるい酒にまた酔いがまわる。果たして自分は真っ直ぐ歩けているだろうか。熱を帯びた体には心地良いはずの夜風がなぜか悪寒を誘った。どうして?わからない。ほんの違和感かもしれない。わからないことだらけだった。今まで少年と対峙していたのは本当に俺だっただろうか?どうしてこんな時間に優等生であるような彼が?その違和感を大きく感じなかったのはなぜだろう。酔っているのだ、俺は。馬券が当たって興奮した。興奮のまま酒にのまれた。結局今日もなにも残らなかった。俺はどこに行くのだろう。劣化するばかりの体。それはどこかで叫んでいる。なにかになりたいと。なれるはずだと。
「ちょっと待ってよ、帰るつもりなの?」
「……帰るつもりだよ」
「僕、言ったよね?今夜の話し相手になってって」すっかり風紀を正した優等生の姿があった。恵まれた立場にあるのだろうな、彼は。そんなことを思う。推測に過ぎない。本当に何もかもが順風満帆、そういう子供は夜中に放浪者の金の工面を手伝ったりしない。ただ苛立ちを感じていた。少年の態度にも、何者でもないことに負い目を感じる自分にも。
「じゃあどうするつもりなんだ。そこの公園でお喋りでもするのか?それとも強姦ごっこか?なにがしたいんだ。どうせ自分のプライドなんて詰まらない代物を保つために底辺を見つけ出したかったんだろう?だから君はこんなところにいる、こんな時間にだ。さんざん俺を馬鹿にしてデトックスはできたのか?俺は優しいからな、手をあげたりはしない。ただこれ以上はどうだろうな。もう、帰ったほうがいいと思うぞ」冴島は捲し立てる。少年は目を丸くして固まった。いい気味だと冴島は思う。中空の一点を見つめ呆然として身動きをとらない少年の様子を窺った。すると少年は申し訳なさそうに視線をさ迷わせた。その素直さに、冴島はぎょっとする。
「わかった、ごめんなさい。もう怒らせるようなことはしない。約束します。だけど、僕は、家には帰れなくて」
「なら、他のあてでも探せばいいんじゃないか?」
「だって、誰も通りそうにないし。その間に朝になったら嫌だし」
「俺と話してたって朝にはなる」
「誰かいるのといないのとでは違うんだよ。たとえおっさんみたいな…………おじさんみたいな、すごく年が離れてるような人でも、隣にいてくれたら少しは眠れるかも」
「つまり、つまりだ。君は安全な睡眠が欲しいのか?」
「そういうこと。あと、ご飯も。……もし、おじさんが家に帰りたいなら、連れていって欲しいなあ、なんて、思った」あっという間に素直になった少年は捨て犬の風情をも漂わせている。萎えていくな、酔いも怒りも。
「名前は、なんていうんだ」冴島は尋ねた。少年はぱあっと花が咲いたような笑顔を冴島に向ける。
「ひかる!藤原光!!」
なんという切り換えの速さだろうか。あの捨て犬はどこへ消えたのだろう。やはり、このまま放っておいても生きていけるんじゃないか。しかし、ころころの表情の変わる光少年は腹をすかせているらしい。しょうがない。俺は酔っているのだ。今日だけ、いいじゃないか。立派な社会貢献だ。
「おじさんの名前は?」
「冴島だよ。今日だけだぞ、光くん」
「え、なんかちょっと気持ち悪い……不思議な感じがするから、光でいいよ。冴島のおじさんのほうが年上だし」呼び名で年齢を意識するのか。さすがは光少年、根が生意気なのだろう。カップ酒は大して減っていない。冴島は残りを腰に手を当てて豪快に仰ぎ、光少年と共に帰路を辿った。
実家からの援助を得て冴島は風雨を防いでいる。築70年、ぼろの二階建てアパートではあるが、管理人の努力によってクモの巣がはっている訳でもなくシロアリがわく訳でもないので、造りは頑丈で和洋折衷の情緒漂う大正ロマン的な建造物だと冴島は思っている。最も彼に大正ロマンを語られるだけの教養はないが。光少年は冴島の後について俯き加減に歩いていた。自分の影からまた自分を見出だそうとしているかのように頑なに顔を上げなかった。冴島が声をかけると肩を揺らして立ち止まり、そうっと、目を合わせた。冴島は少年の心の機微というものは分からないが、光少年は相当繊細な方だろうという直感があった。二人は示し合わせに頷いて、煉瓦を積み重ねて作られた階段をのぼった。光少年は電灯が少く視界がはっきりしないなかでしきりに辺りを見回して周囲の情報を集めようとしていた。
「言っておくが、食事なんて大層なもんはないぞ。偏った栄養補給くらいはできるがな」
「いいよ。そんなに長居するつもりはないんだ。一日、様子を見て、もしかしたら二日くらい」
部屋に入ってすぐに交わしたのはこういう会話だった。光少年は居間に通されると、冴島の雰囲気と相反して整頓された室内に目を丸くした。整頓された、というより金が無くて物が買えず置こうにも置けないという方が正しいが。始めは今夜だけの約束だったが、明日の予定までも組み始めているところをみると、どうやらこの部屋を気に入ったようである。
「お腹すいた」
「ちょっと待ってろ」沸いた湯をカップに注ぎながら、風呂でも先に入っておくか、と尋ねる。光少年は一瞬目を丸くして、それがあたかも、冴島の精神の欠落がもたらしたそれであったかのようになにもなく、いつもの良くできた笑顔になるのだから、彼は不安になった。あまりこのわけありの優等生と心を通わせるべきではないと自身に言い聞かせる。
「おじさんの家、お風呂あるんだね」
ほらみろ、思った通り。あの目を冴島は知っているのだ。優等生が、相手に覚られぬようにそこはかとなく値踏みをする目を。彼ら優等生であっても、自分の世間においての価値を正確に把握することは困難だ。相手の価値を推し測ることで自分の立ち位置を知り応対を決定する。その機会がまた必要になる。それがあの、一瞬の瞳である。呆然としていると見えて、実は頭は稼働している。
「俺のなりを見てか?水道代は馬鹿にならないんだよ。入ってもいいが、三分以内にあがってこい。湯船はないぞ、浴びておしまい」
「え、ああ。そうだよね。行ってくる」
「三分測っとくぞ!」
光少年の、あのはっとした表情。悪事が暴かれたかのように不安が顔面に伝染した表情がしてやったりとたまらなかった。
「おじさん、着替えはどうしたらいいかな」
キッチンまわりのステンレスに脱衣所の扉からそっと顔をのぞかせる光少年が映った。もうは脱ぎ捨ててしまって、そうしてから自身の失念に気付いたと見える。光少年の顔に羞恥の色があったからだ。冴島はキッチンを離れ、箪笥を確認しにいった。少年向けの服が、あるいは彼のサイズにあうものがあるとは到底思えなかったが、せめて肌を隠せて寒い夜を越せるものを着せてやりたかった。丸まった袴が窮屈に下着と絡んでいたりして、冴島の衣類に頓着の無いのはあからさまだ。中学の時に使っていたジャージが箪笥の底から発見されたので、ともかくこれを着せようと思い立つ。青色の、ズボンに三本線が入ったジャージ。仄かに洗剤の匂いがしていた。
冴島は寒そうに腕をさする光少年にジャージを渡す。寒くて当たり前だ。暖房器具は大方売り払っており、冴島は修行僧の思いでこのアパートに住んでいるのだから。
「これしかないから、気に入らなかったら裸で過ごせ」
「十分だよ。僕の学校の指定ジャージとおんなじだ」
学校現場の時は相当遅れているとは話に聞くが、まさかファッションにおいても変わらない価値観を維持し続けているとは。着るものなんて肌が隠せりゃいい、という冴島もこれには驚いた。
「今からだよ、今から三分だからね」
「急げよ。晩飯はもうできてる」
何しろ、冴島の三食はお湯を注いで三分弱待つだけのインスタントラーメンなのだから。