選択と決断①
――早くこの場所から逃げなければ。
頭の中に響く警報に追い立てられるように、身体を動かさなければと焦る。
もし一人だったらなら、心が折れてこの場で呆然と立ち尽くしていたかもしれない。
しかし今は胸元に感じる温もりが勇気を与えてくれた。意思の力で動かぬ身体を無理矢理動かしあとずさる。
海斗は少しずつ後退を始めるが、思うように身体は動かず遅々としてその場から離れることが出来ない。
――トン。
背が壁面へとぶつかり小さな音を立てる。
「「……!?」」
海斗とティセは二人揃って驚き、思わず身体がビクリと反応する。
どうしてこんな所に壁が! 心の中で悪態をつく。
恐る恐るゴブリンの様子を窺うが、こちらに気づいた様子はなく不気味な咀嚼音を響かせ続ける。
海斗がホッと息を吐くと、ティセもシンクロするように同じ動作を取っていた。
気付かれなかったという幸運に、張り詰めた緊張が途切れ――
――カツン。
しまった、とそう思った時には手遅れだった。
気付かぬ内に込められていた力が抜け、手に持っていたはずのスニーカーが地面を叩く。
目を見開きこちらへと振り返るティセ。
静寂に包まれた通路にその音が大きく響き、次の瞬間――
――赤い光を宿した大きく吊り上がった瞳が海斗を捉えた。
赤黒い液体をべっとりと付着させた口元が裂けたように開き、不気味な三日月を描き出す。
ゴブリンは新たなる獲物を見つけた喜びを隠すことなく、ゆっくりと立ち上がる。
手にしたナイフには赤黒く濡れており、不気味な輝きを放っていた。
「ちょっ! 何してんのさ! マスターのバカー!!」
海斗はティセに言葉を聞き終わらぬ内に、彼女が振り落とされないように軽く手で押さえ全力で駆け出す。
「わきゃっ!」
「舌嚙むぞ。じっとしてろ」
驚き戸惑いの仕草を見せるティセに声をかけながらも、全力で来た道を走る。
後ろからは何かが追いかけてくる音が聞こえるが、海斗に振り返る余裕はない。
「追って来てる! マスター急いで!!」
気配を感じることのできるティセが状況を教えてくれる。
絶対に追いつかれるわけにはいかない。海斗は強い意思を胸に全力で走る。
先ほどまで動かなかったことが嘘であるかのように、両足が軽快に動く。
しかし気が付くとすぐ目の前に壁が見えた。
「しまった行き止まりか!?」
「落ち着いてマスター! ここは……」
ティセの言葉に冷静になる。周囲を確認するとそこは――最初に目覚めた部屋。
行きはあれほど時間がかかったと感じたはずの距離。海斗はそれをほんの一瞬で踏破していた。
しかし呼吸に一切の乱れはない。
海斗は自身がこんなに体力があるなどと考えもしていなかった。
ここ数年、意図的に運動をした記憶は全くない。
どうしてこんなに動けるのか気になりはするが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
振り返り通路に視線を飛ばす。少なくとも視認出来る範囲には何も見えない。
ある程度の距離を逃げたと考えれば、もしかするとゴブリンを撒くことが出来たかも。
そう考え海斗はティセに視線で合図を送る。
すると彼女は首を横に振り――
「……追って来てる」
どこか申し訳なさそうな表情で海斗の言葉を否定する。
「くそ!」
悪態が口から漏れてしまう。
どうやらゴブリンは海斗達の位置を明確に捉えているようだ。
今こうして考えている間にも少しずつ距離が縮まって来ているのだろう。ティセが落ち着きなくソワソワとした様子を見せている。
焦りは募るが逃げ場はない。すぐ側で不安げな表情を浮かべる少女。
彼女のためにも海斗は決断しなくてはならない。
このまま何もせずに死を待つのか、それとも戦うのかを。
先ほど目にした無残な光景が脳裏に浮かぶ。
あんな風になりたくはない。
彼女だって欲しいし、先月買ったゲームだってクリア出来ていない。
何故自分がこんな目に遭わなければならないのか。
我が身に降りかかった理不尽に対する強い感情が湧きあがり、このままやられてなる物かと強く拳を握り締める。
だが不安もある。自分は戦うことが出来るのか? と言う単純な疑問だ。
目を閉じ自らの心に問いかける。
「……マスター」
「選択肢はない……よな」
心配してこちらに声をかけてくるティセ。彼女のことを考えれば、そもそも選択肢など存在しなかった。
使える物はないかと周囲に視線を飛ばす。
「何か、何か……」
海斗の視線が地面の一箇所で静止する。
その場所まで移動し屈み込むと、海斗はこぶし大の石を拾い上げた。
感触を確かめるように手の平の石を握り感触を確かめる。
「……よし」
部屋の壁面。通路に繋がるすぐ傍に身を潜めると深呼吸する。
海斗は湧きあがる感情に従い、ゴブリンを迎え撃つ覚悟をかためた。