カフェ奪還戦⑤
時間が止まったように両者は静止する。
「ぐっ……」
全力以上の力を発揮した海斗は大剣を振りぬいた姿勢のまま、崩れるように片膝をつく。
笑みを浮かべたホブが海斗に向かって振り返る。
「グ……グルォ……」
緑の巨体に鮮やかな赤い斜線が走り――上半身が地面へと向かってずれ落ちていく。
『ドサリ』と室内に響き渡る、落下音。
恐るべきモンスターは声もなく、抵抗する間もなく絶命した。
「だ、大丈夫ですか!?」
「マスター大丈夫!?」
歌恋は息を荒げ蹲る海斗に駆け寄ると、抱きかかえるように身体を支える。
そして寄り添うように二人の側を飛ぶティセ。
「あ、ああ。何とか……ね」
返す言葉は普段より小声だが、しっかりとした響きを伴っている。
「無事で良かった……」
歌恋の声は安堵を含み、どこかその瞳は潤んでいるように見えてドキリとした。
命の危機から脱した途端、そんなことを考えてしまう。そんな自分の心情に思わず苦笑いが漏れそうになる。
しかし本当に危なかった。正に紙一重。一瞬の判断ミス、たった一度の失敗が勝敗を分ける戦いだった。
ホブの実力が自身と互角程度などとんでもない。明らかに格上。本来ならもっと慎重になるべき相手だったと思う。
油断したつもりはなかった。
しかしこの場所に来てから戦ったゴブリン達を簡単に倒せてしまったことで、どこか驕りがあったのかも知れない。
今回の戦いは大きく反省しなければならない。だが大きな学びにもなった。
もしあのまま戦っていたなら、幸運が重なり最良の結果を引き寄せたとしても相打ち。
いや、恐らくそれも難しい。
歌恋が助けに入ってくれなければ、屍を晒していたのは間違いなく海斗の方だっただろう。
この経験はこれから先の戦いにとって大きな財産になる。
だからこそ彼女には本当に感謝してもしきれない。
「助かったよ、一ノ瀬さん」
「もう! 助かったじゃないですよ! 本当に心配したんですから!!」
歌恋の声音からハッキリと伝わる想い。それは海斗のことを心の底から心配していると言うこと。
これほど強く誰かから心配されることがあっただろうか。
遙か昔。記憶の彼方ではあったような気がする。まだ少年だった頃、まだ家族の温かさを感じることが出来た頃。
思い出すことはもう出来ないが、それはまだ夢を見ることが出来た日の残滓。
本当に嬉しいと思う。自分のことをこんなにも想ってくれる人がいることに。
「……心配かけてごめん」
だからこそ伝えたい。謝罪ではなく――
「本当にありがとう」
――感謝を。
「…………」
歌恋はぽかんとした表情――頬が少し紅潮している気がする――を見せると、首を左右に振る。
「わ、わかってくれたならいいんです! でも、本当にもう無理はしないでくださいね。海斗さんに何かあったら、私……」
そう言って歌恋は目を伏せる。
本当に心配を掛けてしまったことに申し訳ない気持ちが募る。
しかし話の流れと全く関係ないのだが、一つだけ気になることがあった。
「あの、一ノ瀬さん。海斗って……」
そう彼女が自分のことを名前で呼んでいることだ。
「えっと……その、それはですね……」
歌恋は少し困った表情を見せ言葉を詰まらせると――
「べ、別に良いじゃないですか! 苗字で呼び合うなんて他人行儀ですし。私達は仲間……そう仲間なんですから!!」
一息で言い切る歌恋、その息は少し上がっている。
理由は分からない、だが彼女の声には何故かこちらを納得させる響きがあった。
「……なるほど。確かに、他人行儀……かもしれないね」
「ですよね! 海斗さんも私のこと、歌恋って名前で呼んでくださいね!」
「…………」
なかなかにハードルが高いことを要求してきた。
自分を名前で呼ばれることに関しては――慣れないが――問題ない。
しかし海斗には女性――それも美少女と言える相手――を名前で呼んだ経験などなかった。
歌恋にとっては当たり前のことなのかもしれないが、自身にとってはかなりの難事と言える。
彼女は何かを期待した表情でこちらに視線を向けている。
「えっと、一ノ瀬さん?」
「…………」
どうやら名前を呼ばないと先に進まないようだ。
「あー歌恋……ちゃん?」
「『ちゃん』は必要ないですよ?」
呼び捨てで、女性の名前を、呼べと。
あまりのハードルの高さに目眩がする。だが歌恋に命を救われた海斗に拒否する権利などない。
二人の周囲を――ゴブリンが消える際に発する――神秘的な淡い光が包む。
「…………歌恋」
「はい!」
喜びの表情を見せる歌恋の姿。難しい要求を達成した意味があると言うものだ。
視界の端で邪悪な笑みを浮かべるティセに不安はある。
きっと物凄くからかわれるのだろう。だがそれも命あってのものと考えれば、決して悪い気分ではない。
「それで海斗さ――」
次の言葉を紡ごうとした歌恋の表情が固まる。
『レベルアップ。能力が上昇しました』
海斗の脳裏に、おなじみの無機質な声が響いた。