幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(9)
其 九
気が競っているので、他人のことに気を遣う間もなく、二度三度、言葉忙しく、
「俺を帰らせてくれ」と言うが、女は承知をせず、ただ掌を合わせ、泣く涙に物を言わせて引き止める。世馴れた者なら何とでもしようはあるのだろうが、この里に今日初めて足を踏み入れたばかりの雪雄はほとほと困り果てた。と、その時、時計の鳴る音がした。早くも十一時、そうでなくても十時だと思われる。帰りたい気持ちがいよいよ強くなり、矢も楯もたまらず、声を荒げて一喝すれば、その声が外に洩れたようで、襖をさらりと開ける音がして、居ないと思っていた肥り肉の年増女が突っと入って来た。そして、雪雄と女を両手に引っ立てながら、顔に無理に作った笑いを湛えて、
「何ですねぇ、今帰るなんて、そんな酷いことを仰って、こんな処女い華魁を弱らせては困るじゃありませんか。それ、ご覧なさい、泣かせてさ。真実に罪になりますよ。罰が当たります。日本中捜しても無い華魁を振って済むものでございますか。どうしてもご用があるのなら、今お茶屋を呼びますから、それまでまあまあお休みなさっていらっしゃいませ。華魁もまた何ですねぇ、そんな弱いことではいけません。このままお返し申しては女が立ちません。人に聞かれたら、私まで笑われますよ。エエ、もう焦れったい。世話の焼ける。それではお茶屋を呼びますから、それまでこうしていらっしゃい」と、二人を夜具の上に突き倒し、屏風を引き廻して、外に去って行った。
寝衣の肌寒さに雪雄はどうしようもなくなり、身を縮めて堅くなりながら横になったが、怖れ厭がっていたようにはならず、女は近づきもしない。雪雄を怯れているのか、恥ずかしいのか、なおも俯いていたが、身じろぎしながら雪雄の方に近寄ろうとしては、また躊躇い、何度か口を開こうとしてはまた噤み、遂に、指でもって隣の間を差しながら雪雄の枕近くに寄って、
「はしたない今の彼の女がまだ耳を立てておりますので、一度はお休みになった振りをなさらなければ、簡単にはお帰しすることは出来ません。しばらくそうしてお窮屈でもいて下さいませ。私は貴方のお帰りを無理強いしてお泊めしようという気持ちは微塵もございません。ご用事がおありになるのに、この様な所にお引き留めするのは悪いと分かっております。けれども、私の自由にもなりませんのでお許し下さい。この様なことを言うのが彼女に知られれば、私は沢山悲しい目を見ます。口が利けないでもないのにこの様な真似をしてお話しするのも、彼女が怖くてならないからで、その上、まだもっと怖い人も居り、怖くて怖くてなりませんので、どうか堪忍して下さいませ」と、口では一言も語らず、時折涙を湛えた真黒な瞳を気遣い気に雪雄の面に注ぎながら、指でもって緩やかに蒲団の上に仮名書きで書いた。自分の気持ちを語るその様子は嘘ではないと思えたが、事の不思議さと、納得の行かない節々もあるので、雪雄はなおも冷ややかに心の眼で見遣りつつ、
「承知した」と、ただ一言を同じく指でもって語った。
無言の話も途絶えてしまった。雪雄の眼はただ屏風の腰にある貼交の地紙の絵の上に見るともなく留まり、女の眼はただ自分の膝の上の一点を訳もなく見ていた。
隣の間は人のいる様子もないように静まりかえっている。遠い廊下に人が行く足音がはっきりと伝わってくる。屋外の火の用心を告げる夜廻りの音が嶮しく聞こえるが、それが劫って淋しく、夜が更けたのを感じさせられる。
こうして二人は坐禅の床に僧が坐るよりも一層厳かに姿勢を保って、一寸も動かず、一時を百年の心地でしばらくじっとしていたが、雪雄がまず早くに動き出して、
「もう、帰っても好さそうだが」と、例の無言で語ると、女は微かに頷いた。
では、と雪雄が立とうとすると、怯る怯る女は玉のような腕を差し伸べて、徐に袖を引き止めながら、
「もし、お暇でご不都合がなければ、明日の夜もお出で下さいませんか。どのようなお遊びのお相手もいたしますので」と書く。雪雄はムッとして頭を振る。予想していたことだが、言うに言われぬ憂いの色を眉に現しながら、しかし、慌てもせず、
「明後日は?」と問えば、
「厭だ」と答える。
憂いの色をいよいよますます深くして、
「その次の日は?」とまた問うが、
「厭だ、厭だ」と、烈しく頭を振って見返りもしない。すると女は堪えかねたように憂いの色をたちまち悲しみの色に変え、雪雄を拝みながら泣き伏した。
つづく