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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(8)

 其 八


 ()げられもせず、寝られもせず、心は()れるが、神経だけは不思議に鋭くなる。ただ一人、遙か隔たった座敷から聞こえてくる眠たげな三味線の響きを聞いて悶々とする雪雄は、ふと隣の間のひそひそ話が耳にとまった。何の気もなしにその声に耳を傾けると、先刻(さき)に見た肥った女であろう、身体には似合わない(しわが)れた声で、

「言うまでもないことですが、昨日や一昨日のようなことをなさってはためになりませんよ。あれはお年寄りだからご分別強くて、来ても下さいますが、若い方には()()()がなくては、もう来てくれはいたしません。決して剛情を張ってはいけません。今夜のお客はきっと良いお(うち)の立派な息子様。まだこんな所へお出でになったことがないほどの()れのない方。花魁(おいらん)次第で夢中にもなって来て下さろうというものです。花魁が瀟湘(しょうしょう)さん(*不明。有名な花魁の名前か? この楼の娼妓か?)のようなら、舌打ちをして(よろこ)んで、必ず末永く繋ぎとめて、色々と何でもしておもらいになりますよ。さあ、ウジウジしていてはいけません。何です、そんな顔をして。お腹が痛いでは済みませんよ」と、最後には少し叱るように、声も確かに聞こえるほどになったが、初めの(うち)は所々聞こえなかったので、雪雄はその会話が何を意味しているのか分からなかった。 

 自分のことについてかと思えば、そうでもない様子なので、()いて分からなくても好いと、そのままにしておいたが、やがて襖の開く音がして、誰かこちらに足を運んで来ると思うと、たちまち訳もなく、きまりが悪くなり、眼を閉じて、静かに(ねむ)っているふりをした。

 襖を閉じる音がした。確かに人が入って来たと思ったのだが、再びの足音もせず、しばらく室内には物音もない。さては、ただこの室内の様子を見ただけで行ってしまったのかと思うが、しかしまた何となく人の気配がするようなものの動きの音が微かに、心の迷いかも知れないけれど耳に届くようにも感じられた。人が居るのか、居ないのかと、思う()に、今度は障子の開け閉めの音がして、確かに隣の間から外に立ち去った人が一人居る。後は(ふたた)びシンとして、ただ隣の室の鉄瓶が少し(たぎ)っている音がするだけである。


 室内にはいよいよ人は居なくなったのではと、雪雄は眼を開いて見ると、ちょうどその時、燈火(ともしび)の薄明かりを浴びて、屏風の蔭の小暗い所に半身を寄せ隠しながらこちらを覗っている者がいる。名画から脱け出たか、神女が雲から下りたかと思われるほどに気高くて、一点の(いや)しい(なま)めかしさの無い、齢は十五か十八かくらいで、月のような丸額(まるびたい)、真黒な髪も(つや)やかに、遙か彼方(かなた)の山を形取ったようなとても淡い眉をして、眼差(まなざ)しを凝らし、こちらを見詰めていた。雪雄がハッと驚けば、又、向こうも(ねむ)っていたと思っていた者が眼をぱっちりと開けたのに驚き、急に身体を転じ、鶴が人に見られるのを(おそ)れて花底に隠れてしまうように、屏風の陰に隠れた。

 雪雄はあれこれの考えもなく、急にがばと()ね起きて、心を病んだ人のように、つかつかと寝床から歩み出て、

「お願いだ、俺を帰らせてくれ。どうか着物を返してくれ」と言いながら屏風を引き退()ければ、そこに居た女は、風に当たった一枝の牡丹の花が地に落ちたまま、起き上がることも出来ないように力もなく、なよなよと坐っていたが、首を垂れ、惜しげもなく美しい(えり)を見せながら、言葉もなく、ただ僅かに(かぶり)を振って、雪雄の言葉は受け容れないという気持ちを示すのだった。


 雪雄はこれに少し()れて、

「頼むと言っているのに、頼まれてくれないというのはあまりに(ひど)いではないか。帰らなくてはならないことがあるのだ。どうか帰らせてくれ」と、もう一度繰り返すけれども、なおも押し黙ったまま一言も発せず、美しく結った髪を揺らせて(かぶり)を振るばかりである。

「エエ、分からないか。これ、この通り頼むと言うのに」と言いながら、女の前に両手をつき、頭を下げる。しかし、雪雄の方を見ていないので、一向に甲斐もないばかりか、女は一層首を低くして雪のように白い手をついたまま、今は身動きさえも出来ないでいる。

 流石に雪雄も焦れに焦れて、片手は畳に着いたまま、今まさに、もう片方の手を伸ばして女の手を取り、引き起こして、自分が嘘偽りを言っているのではないのを見せようとしたが、女の手にほとんど触れようとする時、たちまち雪雄は(おの)ずから身に震えを覚えて、指は(くう)(そよ)ぎ、言うに言われぬ恐ろしさを覚えて躊躇してしまった。しかし、こうしていても(らち)は明かないと、遂に一大決心をして、胸をどきつかせながら、玉のように(あたた)かな手をそっと握って引き起こし、見られまいとしている顔を覗き込んだ。その時偶然眼と眼が合ったが、雪雄は愕然として驚いた。どんな訳があるのかは分からないが、見れば女は真珠のような涙を頬に伝わらせていた。

 これは、と雪雄は不審(いぶかし)んだが、女は片手を取られながら、()を合わせて、無言のまま雪雄を(おが)み、はらはらと涙をなおも()とした。それは、ここに(とど)まっていて欲しいという意味だろうと想像は出来たのだが……。


つづく

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