幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(6)
其 六
いかに世間知らずの懐中育ちとは言え、周囲の様子に、それと悟って困り切った雪雄、心の中では花岡を恨むけれど、それを持ち出して争うこともできず、帰ろうと言っても帰さない勢いに、内心、ただ弱りに弱って、面白そうな顔をして花岡が茶屋の女と何か話しながら戯れ、笑いさざめくのを、なお酔いの残る力ない眼でもって、冷ややかに見るばかりであった。
一言も発せず、身動きもせず、私に自分の家の事を気遣えば、花岡のしていることが卑しく疎まれ、何とかして此里を脱れようと工夫に胸を痛めた。
某学術上の会合の席で、一度見ただけの福岡という男が何時の間にか同伴となっていて、馴れ馴れしげに、
「いや、眞里谷君、今日は偶然先刻の温泉で花岡君と君に出会ったが、君は熟睡しておられたのでご挨拶もまだしませんでした。僕と花岡君とは大分前から親しく交際っていますが、最近はご無沙汰していたので、何日かゆっくりと会おう会おうと思っていた矢先、これは奇遇ということで、談話も絶えず、興も尽きず、遂に二次会ということにして、今夜は共に語り明かそうということになりました。ご迷惑とは思いましたが、君にもお交際を願いたいと、成徳の君子(*巷の君子の意か?)をこういう所にお招きした訳で、その罪は幾重にもお詫びいたします。しかし、決して悪気の無い男ですから、この後も何分よろしくお願いします。我等は何も好色のために遊里に来ているのではなく、ただ煌びやかな場所で美味い酒を飲み、その間に平生の鬱を洩らして、道徳的活力を養うとでも言うか、そういうことに過ぎませんので、君もそれをお咎め立てなさることもないと考えています。なあ、花岡君、遊びも度を超さなければ悪いと言う人もいないだろうと僕は思うが、君も恐らく同感だろう。時にどうした、眞里谷君の敵は。君が選定して月下翁(*男女の仲を取り持つ人)の役をするのが好いのではないか。何? フム、フム、それは不思議、これは又何とも言えない、恐らく天縁というものだろう。どうです、眞里谷君、突き出しほやほやの美人が居るとは何とも不思議ではありませんか。いや、突き出しというような俗悪な言葉はお分かりになりますまいが、ここに来てまだ多くの客に接していない、いたって無垢に近い美人が居るので、フム、フム、十七だとか。それはいよいよ眞里谷君、艶福ありと言うべしだ。それならその美人に定めた方が好い。直ぐに送ってもらおうではないか。フム、僕の敵か。僕のは闊達磊落のが好い。箙というのか、それが好かろう。名前からして勇気があるように聞こえる。(*箙とは肩に掛けたりする矢を入れる容器)ハハハ、何? 眞里谷君、君は帰るというのか? 好いさ帰るのは僕も花岡も帰らなければならんのだから、どうせ一緒に帰ります。だが、このまま帰っては此家へも気の毒、それなら十二時頃帰るとして、それまで遊んで行きましょう」とどうしても帰さず、逃がさない言い廻し。
『ええ、この福岡とかいう男め、人を愚弄するような怪しからん事ばかりを言いおって、道徳的活力の気を妓楼で養うとは何という戯けな言い草だ。聞くも汚らわしい妓女などを自分に嫖とは礼儀知らずも甚だしい。失礼にもほどがある。もちろん、こんな卑しい男と交際もしたくないし、花岡がもしこの男の肩を持つようなら、二人とも自分の友ではない。一応花岡に話してみて肯なければ絶交するまでだ』と雪雄は胸に思い浮かべたが、思い切ってこの場で話をつけることまでは出来ず、何とかして穏便に逃げ出せないかと空しく苦しんでいる中、雪雄の眼に見馴れない大きな提灯を、この明るい中、不用なのにわざと灯して来たのを、婢が先に立って外に出れば、二人は雪雄を、『さあ』とばかりに急き立てて、同じように後をついて出た。
もし、知っている人に会うかも知れないと落ち着かない気持ちで、自然と首を低くして二人の間に挟まれながら、心弱くも遂に逃げ難くて、何樓と言うのか、初めての雪雄には気さえつかないけれど、ものすごく広大華麗とだけは感じられる家に連れられた。
千里も遠く離れた国へ旅している様な薄淋しい気持ちになって、広い室の中、この先どうなることかと気遣いながら、雪雄は物も言わずに律儀に真四角に坐って、死んだように動かないまま、姿勢を端然と構えた。
つづく




