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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(40)

「みやこどり」最終章です。

このお文(墨染)の手紙は名文だと言われていますが、私の拙い訳で、それを台無しにしていないかと不安でもあります。


後書きで原文を載せましたので、興味のある方は是非お読みください。

 其 四十


 申し上げるべき言葉は最早ございませんが、お汲み取り戴きたい心は今なお悠々として(そら)遠く、雲静かに(のこ)っております。岩にせかれ、風に(あお)られて流れる身は、今まさに急を告げておりますが、それを忘れるほど、どうしようもない思いに堪えかね、またしてもお目障りになりかねない手紙を書いてお出しする次第でございます。


 先日差し上げました手紙にも、また、その前に差し上げました手紙にもお返事はございませんでしたが、間違いなく届いているものと思っております。お返事のないのはお考えがあってのことで、貴方様にはまったくお(かわ)りないと、昨日、他所(よそ)ながら、花岡様にこの頃のご様子をお尋ねしたところ、そう(うけたまわ)るに及び、お恨めしく、かつまた安心いたしております。


 花も末となり、樹々(きぎ)の梢も青み渡り、(あさ)未明(まだき)の景色などは一層心地よく、残月の光り薄く、千切(ちぎ)れた雲のただよう中を杜鵑(ほととぎす)が鳴いて過ぎる一ト声二声、愚かな身にも面白く聞こえて、これを心憂いなく聞くことが出来れば、と思いますこの陽気の時候に、なおも書斎に謹み()られて、紙上の聖哲と向かい合って居られるご様子。その涼しいお心入れ、清らかなお楽趣(たのしみ)、言うのもおこがましいですが、お慕わしくも、また、お羨ましくも存じます。

 それに引き替え、家だけは広く、綺麗に飾ってはおりますが、忌まわしいこの(さと)の中に寝起きするこの身、利欲の暑苦しい風に取り巻かれ、払っても去らない蒼蠅(あおばえ)のような無頼浪蕩(ぶらいろうとう)の男どもに(まと)いつかれて、朝から夜まで、夜から朝まで、一度たりとも心打ち解けて笑うこともなく、一度たりとも心弾んで語らうこともない暮らしに、頼みの母兄は雲の彼方にいて、手紙も四、五度以外に今はない心淋しさ、ご推量下さいませ。


 月日が経つに連れて、物が移り、眺めが変わっていくにつけ、想いに浮かぶ故郷のあそこは今はどうなっているのだろう、ここはこうなっていて欲しいなどと、心に行き交うことが(かえ)って慰めるよすがにはならず、悲しみが増すばかりでございます。昨日の雨、一昨日の夜の風、また今朝の晴れた雲もない空に世を我がもの顔で(つばさ)軽く蝶がひらひらと此楼(ここ)の窓近く飛び去ったり、飛んで来たりするのを見だけでも、すべて弱い心は何につけ()につけ、打ち惑うだけでございます。母上はこの騒がしい夜を寝苦しく過ごしておられるか、このしめやかな日を淋しく送られておられるか、この(うら)らかな日にも、去年のこんな日に私と共に麦の青く、菜の花の黄金色(こがねいろ)の美しい(なか)をゆっくりと歩いて、薬師の居られる田舎のお寺に参ったことなどを思い出されては、お気持ちも滅入っておられるのではと、何となく胸痛く感じるのでございます。


 貴方様は花岡様からお伺いするに、ご両親もお揃いあそばして何一つご不足なく、世の憂きという憂き事も書物以外はご存じないお暮らしをされ、余所見(よそみ)などされず、ご学問だけに耽っておられるとのこと。身の不幸(ふしあわせ)を思うにつけ、一層お羨ましく、愚かではありますが、私も父こそ居りませんが、去年までは貴方様と同じような暮らしをしておりましたのに、習い学んだ花を()し、琴をつま弾く猿ほどの(いささ)かの(わざ)を、今年は憎んでも余りある(たわ)けた男の喜悦(よろこび)を得るために学んだようになり果ててしまったのかと、本当に世の事は測ることのできないものだと歎くばかりでございます。


 花岡様、福岡様は、思い切って申し上げれば好いお方ではないと思っております。どうかお気をつけられますよう。とは言いつつ、花岡様のお言葉の中から貴方様のことを推し測ってもさせて戴いておりますが。

 つくづく考えてみますと、この愚かな心はどうしても貴方様のことを忘れることが出来ずにおりますが、今日という今日はどうしても、賤しい身、賤しくはない心のそれはさて置き、とりとめもない手紙を何度も差し上げることは、学問だけに日を送られている貴方様のお眼に触れれば、例えば()んだ水の中に得体の知れないものを投げ入れるのと同じで、もったいなくも貴方様のお心を落ちる花の力ほどにせよ動かすことができたとしても、真実(まこと)、貴方様をお慕いするならば、してはならないことだと気づいたのでございます。最早ふたたび、手紙も差し上げますまいと思い定めました。


 思えば、こんな貴方様と私の縁の果敢無(はかな)さも、前世からの運命(さだめ)に違いなく、ただ一度だけにせよお目にかかり、しみじみとではないにしても、お声を耳に出来たのは私にとっては過ぎた福分であると感じております。

 死というものは思いがけず早く訪れるもの。一方が生き残り、他方が先に死んだりするのが世のためし。ゆめまぼろしの世にあって、悲しみもはたまた歓びも深く語るには足りません。今、私の身に(せま)ったことがあるからといって、雲香る(そら)(もと)、日々心穏やかにお過ごしの貴方様をどうしてこれ以上、煩わすことなど出来ましょう。願うのはただ、貴方様が末永く栄えられ、その後、聖衆来迎(しょうじゅらいごう)(*人間が死ぬ時、阿彌陀仏が諸菩薩とともに極楽浄土から迎えに来ること)に至られます時には、()の世界にて、一言お言葉を賜りたいだけでございます。

 かびらゑの歌(*注)にもあります昔語りのように、一念が朽ちなければ手を()って、今のことを笑うこともあるかも知れないと、果敢無(はかな)いことを頼りにしながら、名残惜しい思いを抱きつつ、この筆を(とど)めることといたします。 あらあらかしく。



 雪雄はこの手紙にも返信せず、ただ打ち(ふさ)ぎがちになっていたが、その日、悶々とした気持ちを晴らすためか、白雲たなびく堤ではなく、青葉のつらなる向島(むこうじま)に散策したが、何に感じてか、風がおさまってなめらかな大河の上に浮かぶみやこどりを見て過ごした。


                  (了)


 注:かびらゑの歌…迦毘羅衛に共に契りしかひありて文珠の御顔あひ見つるかな

  (拾遺和歌集 婆羅門僧正)

 →釈迦の誕生地である迦毘羅衛(かびらゑ)で共に約束した甲斐があって、お互い文殊様のお顔を見ることができましたね。


先ず、原文を掲げておきます。


*****************


其 四十


 申しあげまゐらすべき言葉は(はや)絶え申候が、御汲取り願ひまゐらせたき心は悠々として(そら)遠く雲(しずか)(のこ)り居り、岩にせかれ風に(あふ)らるゝ流れの身の今の急なるをも忘るゝまで打烟(うちけむ)る思ひに堪へかね候まゝ、又しても御目障(めざは)りなるべき文して申しあげまゐらせ候。先の日さし(いだ)し候文も、又其前にさし(いだ)し候文も、御返しは無けれど定めし相届き候事と存じまゐらせ候が、御返し無きは(おぼ)しめしありての事にて、全く其方(そなた)様に御(かは)りなどありてにはあらずと昨日(きのう)余所(よそ)ながら花岡様に(この)(ごろ)の御様子御尋ね申上候て(うけたま)はり及び、且は御恨めしく且は安心いたしまゐらせ候。花も末となり候て樹々の梢青み渡り、朝未明(まだき)景色(けしき)などひとしほ心よく、残りし月の光り薄く、(ちぎ)れし雲のたゞよふ中を杜鵑(ほとゝぎす)の鳴きて過ぐる一ト声二声、おろかなる身にもおもしろく聞こえて、(うれひ)無くて聞かばと覚え候此陽気の時候に、猶よく書斎につゝしみ居玉ふて紙上の聖賢と対し居たまふよし、涼しき御心入れ、清き御楽趣(たのしみ)、申すは烏滸(をこ)なれど御慕はしくもまた御羨ましく存じまゐらせ候。それには引替へ家居(いへゐ)こそ宏く綺麗こそ飾れ、(いま)はしき此(さと)(うち)起臥(おきふ)しいたす身の利欲の暑くるしき風に取り巻かれ、払えども去らぬ(あを)(ばへ)のやうなる無頼浪蕩(ぶらいらうたう)の男どもに(まと)ひつかれ候て、(あした)より(くれ)まで暮より旦まで、一たび心()けて笑ふことも無く、一たび心進みて語らふことも無く暮し候が上に、頼むべき母兄は雲の彼方(あなた)に在りて、文も四五度よりほかは今だに得ず候心淋しさ、御推(ごすい)もじ下され(たく)候。月日立つに連れて物の移り(ながめ)の変り行くにつけ、(おもひ)に浮ぶ故郷(ふるさと)彼処(かしこ)は今やかくやあらむ此処(こゝ)は如是(かう)ぞあるべきなど心往き候も劫って慰む便宜(よすが)にはならで悲しさを増すばかりとなり、昨日(きのふ)の雨、一昨日(をとゝひ)の夜の風、今朝(けさ)の晴れたる空に雲絶えて世を自己(おの)がもの(がほ)(つばさ)(かろ)く蝶ひらひらと此楼(こゝ)の窓近く飛び去り飛び来り候にも、皆弱き心の何につけ()につけ打迷(うちまど)ひ候のみにて、母上の此の騒がしき夜を寝難(いねがて)にや過ごし玉ふ、此しめやかなる日を淋しくや送り玉ふ、此の麗(うらゝ)かなる日にも去歳(こぞ)のかゝる日我とともに麦の青く菜の花の黄金(こがね)(いろ)(うつくし)(なか)をゆるゆると歩みて、薬師(やくし)おはし玉ふ田舎(ゐなか)御寺(みてら)にまゐりしことなど思ひ(いだ)し玉はば御心地(みこゝち)(あし)くや(おぼ)し玉ふらんなど、徐(そゞろ)に胸痛く覚え申候。御許(おんもと)様は花岡様より伺ひ候には、御両親様も御揃ひあそばし何一つ御不足無く、世の憂きといふ憂き事も書物よりほかには御存知無く御暮しにて、(あだ)心(ごゞろ)無く御学問のみに(ふけ)り居たまふよし。身の不幸(ふしあはせ)をおもひ候につけひとしほ御羨ましく、おろかなれど我が上も父こそ無けれ去歳(こぞ)までは御許(おんもと)様と同じくてありつるものを、習ひ学びし花を()し琴を(たん)ずる猿ほどの聊かの(わざ)の、今年(ことし)(あだ)(たは)()喜悦(よろこび)を取らんために学びし()のやう成り果てしかと、世の事の測られぬを歎き候ばかりに候。花岡様福岡様は思ひきって申しあげ候へば好からぬ御方(おんかた)かと覚え申候間御心つけらるべく候。さりながら花岡様御言葉の(うち)より御許(おんもと)様の御上を(すゐ)しあげまゐらせ、つくづく考へ候につれ、如何(いか)にしても御許様をおろかなる心に忘れまゐらせかね候が、今日(けふ)といふ今日は如何(いか)にしても賤しき身賤しからぬ心のそれはさて置き、よしなき文ども(しげ)くさしあげまゐらせて、学問のほか余念も無く日を送り居玉ふ御許様の御眼に触れ候は、(たと)へば()める水の(うち)に得知れぬものを投げ入れ候にひとしく、可惜(あたら)御許様の御心を落つる花の力ほどにもせよ動かしまゐらするにて、まことに御許様を慕ひまゐらせなば成るまじき(わざ)と心付き候まゝ、最早(もはや)ふたゝびとは文もさしあげまゐらすまじく思ひ定め候。おもへば如是(かく)御許様との我が縁の果敢(はか)()きも過ぎし世よりの定まりなるべく、まだまだ一度(ひとたび)にもせよ(まみ)えまゐらせ、しみじみとにはあらぬも御声音(こわね)をも耳にせしは、我には過ぎたる福分とおぼえ申候。無常迅速(おく)れ先だつ世の(ため)し、ゆめまぼろしの世にありての(かなし)みも(はた)(よろこ)びも深くは申すに足るまじく、我が上に(せま)りたる事あればとて、香雲の(うち)に世を安く送り居玉ふ御許様を何(わづら)はし(たてまつ)ることのあるべき。願ふはただ御許様末長く栄えさせ玉ひて後(しゃう))(じゅう)来迎(らいがう)の時にも至りたまひなば、彼の世界にて一片の御言葉を賜はり(たく)のみに候。かびらゑの歌もしるしありし昔語り、一念くちせずば手を(うっ)て今を笑ひ候事もありぬべしと、果敢(はか)なきことを頼みにて残り惜しき筆をとゞめ候。あらあらかしく。


雪雄はこれにも返書せず、たゞ(うち)(ふさ)(がち)となりしが、其日(もだえ)を散ぜんとてか白雲(はくうん)十里の堤ならで青葉つらなる向島(むかうじま)に散策せしが、何に感じてか風をさまりて江水(かうすゐ)なめらかなる上に浮めるみやこどりを見て暮しぬ。



*****************


風流微塵蔵「みやこどり」は今回で終了しました。

読みにくい文章を最後まで我慢強く読んでいただいたすべての読者に感謝いたします。ありがとうございました。

参考までに、この「みやこどり」について、幸田露伴の研究家である塩谷(しおたに)(さん)氏は次のように書かれています。


『後半にいたってほとんど手紙ばかりになる。文面は美しい魂のひびきを伝える。私はいつも終わりに近い文面を読むごとに涙ぐんでしまう。特に有名な一篇ではないが秀作として推したい』

(「幸田露伴 上」中央公論社 P227)


私の拙い文章で「美しい魂のひびき」が伝えられたか、まったく自信はありません。何度も繰り返しますが、できれば是非原文をお読みいただきたいと思います。


そして、長い物語であった「風流微塵蔵」も、この「みやこどり」をもって、一応幕を閉じるのですが、実は、あと二つ、訳さなければならない物が残っています。

一つは、この「露伴全集 第八巻」の冒頭に収められている「引」という、いわば『序』にあたる短い文章。もう一つは露伴の筆によるものではないとされ、「風流微塵蔵」としてはこの岩波書店の全集には収められていない「もつれ絲」という物語です。


前者はその文章があまりに難解で、手に終えない代物であったため、今までアップできなかったものです。専門の方から見れば、たわいもないことかも知れませんが、素人の私には難し過ぎました。それでも何とか形らしきものはできましたので、誤訳があるかも知れませんが、次回、それを投稿したいと考えています。


後者は原物が手許になく、国会図書館デジタルコレクションから探し出しました。露伴の手にかかったものではないということから、現代語訳にするのも多少ためらいがあったのですが、現在作業中です。


この二つが終われば、すべて訳し終えることになります。

勝手な訳で、読みづらく、また間違いも多々あるかもしれませんが、興味ある方は、引き続き読んでいただければ嬉しいです。


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