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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(38)

 其 三十八


 お文の長い手紙を読んで、雪雄は顔が火照(ほて)り、また同時に身体に寒気を覚えて、少し戦慄(ふるえ)も生じていたが、やがて手紙を巻き(おさ)め、机に凭れて長いため息をつき、しばらくうなだれていた。そしてまた、しばらくすると再び手紙を読み返し、(また)うなだれ、ため息をついた。

 だが、何を思ったのか、返事をするための筆も取らず、ただそのまま手箱の中に深く(おさ)めて終わりにした。


 その日は何事もなく、その翌日も翌々日も事もなく過ぎ、四、五日は友人も訪ねてこないので、静かに読書することを好む雪雄は外出もせず、例の如く(へや)に籠もって、花岡がくれた撃壌集を熱心に読み味わっていた。新三郎はいつも通り、忠実(まめ)に働いて(しゅ)の用事の合間合間には、雪雄からもらった小学(*中国における児童向けの修身・作法の教科書)と太平記(*南北朝時代の軍記物語)とを()()ぜに読んで、忘れた字を問い、解らない(くだり)を尋ねると、雪雄は五月蠅(うるさ)いともせずに一々(おし)えた。夜には折にふれて、古昔(むかし)の人の()い行いをした(ためし)などを語り聞かせれば、今までは何も知らず、眞里谷のお静の他は皆自分の継母(ままはは)のお力のような女でなければ、坂本屋の女房のようなものばかりが女で、自分の父の新左衛門のような男でなければ、坂本屋の喜蔵のようなものばかりが男のように思っていたが、正成(まさしげ)のように(すぐ)れた正しい人、正行(まさつら)の母のように偉い女もおり、孔子様のように不運でも心が広く、気持ちの大きい方もいて、(でん)(たん)(*中国戦国時代の斉の武将)、(がく)()(*中国戦国時代の燕国の武将)のように面白い人も、伍子胥(ごししょ)(*中国春秋時代の楚の武人)のように心持ちのよい人もいると思うにつけ、早くも、大望の(きざ)しが出る年齢なのか、俺も往時(むかし)偉人(えらいひと)のようになるぞと心の底で思うようになったか、毎夜のように雪雄の書斎にやって来ては、

「若旦那様、お話しをして下さいませ」とせがむので、雪雄も流石に憎からず思えて、思いつくまま何かれとなく語り聞かすのが常であった。


 今宵も定規(いつも)通り、小学の素読(そどく)を一枚分終えた後、その講釈も大概(あらまし)聞いて、

「ご用がなければお話しを」と言うので、それなら今日は文天(ぶんてん)(しょう)(*中国南宋末の軍人・政治家)という人の話をしてやろうと、一時間ほどその一代の概略(あらまし)を語り、

「お前はこの人をどう思う」と尋ねてみると、新三郎は不満の色を現しながら、

「こんな口ばかり達者で、詰まらない人はいません。私はこんな人は嫌いです。こんな人を高官にしていたので(そう)という国も亡びたのでしょう。弱い人は忠誠心があっても役に立ちません。伍子胥(ごししょ)なら(げん)に負けはしません。伍子胥(ごししょ)に比べれば詰まらない人です。私は伍子胥(ごししょ)が一番好きです」と言う。

「なぜそんなに伍子胥(ごししょ)()いのか」と問えば、

男児(おとこ)らしくて好いではありませんか」と言う。

「王の(しかばね)に鞭打ったのが男児(おとこ)らしくて好いのか」と(ただ)せば、

「それが気持ちの好いところです」と言う。

 雪雄はじっと新三郎の顔を見ながら、

「それはお前が間違っている。復讐(しかえし)をするということは心が狭いので余り褒めたことではないのだ」と言っても聴かず、

「恩を(かえ)せば怨みも返して、しかも十層倍、百層倍にするのが好いではありませんか。どうしても私は伍子胥(ごししょ)が好きで、文天祥のようなのろまな人は大嫌いです」となおも言い争う時、『郵便』と言う声が聞こえたので、新三郎は立って受け取って来て、

「若旦那様へです」と言いながら裏返してみて、

「アア、またこの人でございます。お()でになったこともない方ですが、よく手紙をお寄越しになる方でございますね」と、少し怪しみがちな口調になりながら、

「ハイ」と、差し出した。

 一目見て、あちらからの手紙だと分かるまま、新三郎がいる前で封を切って、中の女文字を見られるのもどうかと、そのまま机の抽斗(ひきだし)に仕舞い込めば、新三郎は(いぶか)しげに目を丸くしながら、主人の顔色を心の中で読んでいた。

 雪雄は疑い怪しまれないようにと、

「そうは言っても伍子胥(ごししょ)は徳がないので」と、前の話を続けようとするのを皆まで聞かず、

「もう、伍子胥(ごししょ)はどうせ私が好きなのですから、何と仰っても仕方がありません。それより、今来た郵便をご覧になってください。私はお玄関で今教えていただいたところを演習(さらい)ます」と言って退(しりぞ)いたのは、継子(ままこ)育ちの、(とし)はゆかないが、万般(よろず)に気の付くところである。


つづく

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