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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(34)

 其 三十四


 嬉しいとも嬉しくないとも、厭だとも厭ではないとも、何とも言いようのない気持ちのするまま、雪雄は彼女と盃事(さかずきごと)をさせられ、今もまだ夢のように多くの人達に取り巻かれて、新婿(はなむこ)よ、新婦(はなよめ)よと女と共に囃し立てられ、茫然となってしまい、心もフッとどこかへ飛んでしまったようになった。

 自分の身体を借り物か何かのようにそこにきちんと座らせたまま、神魂(たましい)は遠く他へ脱け出てしまったような感覚で、一体全体、これは訳の分からない合点の行かないことになったぞと、自分で自分を分析している(うち)、好い頃合いだと見計らってか、森山夫婦は自分達二人に飯を食わせ、寝所(しんじょ)(しつら)えた一室(ひとま)の内へ誘い入れた。(とこ)(さかずき)をしているまさにその時、猩々(しょうじょう)のように真っ赤になって酔いに酔った福岡が、同じく沈酔して真っ青になった花岡と共に大声で、何事かを呼び(わめ)きながら闖入(ちんにゅう)してきた。 


 無礼にも一人は女の袖を捉え、花岡は雪雄の袖を捉えて、

「雪雄君、君は(ひど)い、人を欺くにも程がある。英雄人を欺くということは聞いたことがあるが、君は普段君子ぶって道徳の、節操のとか言いながら、何だ、娼婦を妻にするのか。君子人を欺くとは初めて聞いた。僕らに品行を(つつし)めなどと堅いことを言って置いて、蔭で(そっ)とこの女と馴染みを重ねて、父母を説きつけ、こうして妻にしてしまうとは、実に感心な素早い手際(てぎわ)、隅には置けない御腕前だな」と、嘲笑すれば、福岡も、

「雪雄君も雪雄君だが、この女も女だ。まだ世馴れないおぼこ処女(むすめ)の風を(よそお)って、生き馬の眼も抜こうという遊郭(なか)の者を始め、我々までも一杯食わせ、僕の朋友(ともだち)の吉岡などを(うま)く涙で振りつけながら釣寄せて置いて、そうやって雪雄君と(うま)いことをしくさって、親の手から身抜けをした上、突然(だしぬけ)にこういう手管を使うとは寧ろ大いに感心した。大体どうして、今夜の宴席に我等を()んではくれなかった。僕らは君たち新夫婦を祝いに来たのだが、墨染には気の毒だが、ちと文句がある。僕は僕の友人の代わりになって、(ただ)さなければならないことがある。しかし、今夜は勘弁して欲しいというならしないでもないが、何にしても少し厭な思いをしてもらわなければならんのだ」と、厭味を()ね返す。


 それを聞くと、雪雄はもう堪えられないほどの不快さを感じて、ただ顔を(そむ)けて言葉も出さないでいたが、賤しむべきこの馬鹿馬鹿しい二人があまりにもあれこれと罵るので、こんな痴れ者には無用なことなのにと思いつつ、我慢をしながら一々答えて言い説くが、心中面白くなく、烈しい憤りを感じていた。

 女はなおさら顔を赤めて、(うる)んだ眼も恨めしげに二人をじっと見ていたが、遂に堪えられなくなったのか、()と立って、去ってしまった。

 どこに行くのかと、後を追って雪雄も一緒に立ち上がり、後ろ影を見ながらあちこちの(へや)経廻(へめぐ)ると、女は背後(うしろ)を振り返り、雪雄を涙の眼でじっと無限の(こころ)を籠めて見たが、そのままするりと床の間に上ったと思う間もなく、床に掛けた掛軸の中に身を躍らせて入ったようで、姿は雲と消え、煙と失せてしまい、ただ幅上には、画美人が生きているような笑みを湛えてこちらを見詰めているだけであった。


「あっ!」と驚いて、雪雄は茫然とする時、ふと周囲(あたり)を見れば、花岡も居らず、福岡もいない。家の中もいつもの通りで、自分の服も着替えてはおらず、自身はただ机に凭れているだけであった。新三郎が不思議そうな顔をして背後(うしろ)に座っている他は、まったく人もおらず、今見た掛軸も自分の(へや)にあるはずもなく、

「これはすべて夢だったのか。すると、少し前に、上野で彼女を見たと思ったのは事実(まこと)だったのか。それも夢か。夢の中での夢が先ず覚めて、夢かと悟ったのも夢であって、真実(ほんとう)はまだ覚めていないのか。後に見た夢が先に見た夢の中の夢なのか。それとも、先に見たのが後に見た夢の中の夢か。先に覚めたのが夢なら、今覚めたのも夢ではないのか。今覚めたのが夢でないなら、先に覚めたのも夢ではないのか。前覚後覚、先夢後夢、どちらがどちらで、何が何? 真妄、睡醒、どこを捉えて夢ではないとし、あるいは夢だとするのか」と、雪雄は我ながら呆れ迷った。


つづく

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