幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(33)
其 三十三
目覚めている時に思い浮かんでくるだけではなく、夢にまで面影を見てしまうとは我ながら迷ってしまっているぞと自分を叱り、『言は妄にすべからず。行は堕すべからず』と、昨日記えた康節(*中国、北宋の儒者)の四不可の漢詩を口ずさみながら自己の妄想を斥けていたが、その時、母上が声もやさしく自分の名をお呼びになった。
「はい」と答えて、何も考えずに声がした室に行けば、母上は黒の紋付、白の襟、いつもの姿ではない礼服をお召しになって、
「雪雄、お前はそんな衣服をしてどうするというのです。早くお着替えなさい。大切な席にそれでは何ともなりません。新三郎、新三郎、若旦那にあの御衣服を」と、忙しげにお命令になる。
よく分からないと思いながらも新三郎に導かれるまま納戸に行けば、自分の乳母であったお福というのが、暑中と新年以外は来ないのに、今日は何日の間にか来ていて、嬉しそうな顔をしながら挨拶をし、幼い時のように自分の帯を解いて、衣服を着替えさせ、袴を着けさせ、羽織を着せる。何が何やらまったく分からないけれども、されるままになっていると、身は黒の服、黒の羽織と、立派に礼服に着替えさせられていた。
これはどういうこと? と不審る中、何事が起こるのか、勝手口の方に人の出入りが頻繁になるような物音が聞こえ、座敷、座敷の燈の光りもいつもより多く灯り、家の中が何となく春めいたように感じる。
「さあ、あちらへ」と、お福が言い、
「こちらへお出で下さいませ」と、新三郎が言うのに任せ、座敷に行けば、仔細あり気に金屏風が折廻されており、室内は塵もなく片付いていた。
父の友人で親類のように日頃から交際っている森山某と言われる老人が羽織袴の礼服の出立で、四角張った平生の上にもなお増して、四角張って雪雄を席に就かせると、やがて森山の妻は黒の紋服の裾を長く曳き、同じく礼服を着付けさせた女を引き連れて来て、向かい合わせに坐らせた。
経験はないけれど、その様子は婚姻の式であるかのように見えるので、驚いて尋ねようとするが、その間もなく、森山の妻は、早くも新婦と覚しき女に盃を取らせた。女がこれを飲み乾しすと、森山はその盃を自分に取らせようとする。酌をする童女は銚子を手にして、盃を執れば酌ごうと控えている。
これは何事だ、おかしいぞ。今まで父からも母からも、媒酌人顔をしている森山夫妻からも、何一言もなく、突然一生の大礼を無理矢理行おうとするのはどういうことだ。普段から慈愛の深い母上、慎重な父上にも似合わないこと。いかに齢がいかないと言っても、自分が娶るものを自分の気持ちさえ決めていない中に、押し付け三昧とは。否応なしに娶らせようとはあんまりななされ方。これはどうしても言いなりにはなれないと、怨みと怒りとを含みながら、眼をあげて自分の前に座っている女を見れば、これは一体どうしたことか。他でもない、先の日から忘れようとして忘れられず、常に心に纏っている絳仙楼で一度だけ見た例の女に間違いない。あまりの不思議さに胸が潰れて言葉も出せずにいる雪雄は、ただ心中深く、父母の測り知れない心配りを怪しみ、また驚きながら、終にそのまま盃を手にすれば、それから森山の指揮により三三九度も済んだ。
女が退いて、休息の席へと入れば、ほどなく席は改められ、今度は自分と彼女が席の正面に推し直され、自分の父母は言うに及ばず、彼女の母と思われる老女、兄と思われる鋭い容貌をした男、そして自分の妹、我が家の親戚の誰彼に至るまで、皆々が席に連なって、目出度い数々の言葉を尽くす。歓声が沸くような中で、何が何だか訳が分からない状況に引き包まれ、奇妙と言う以上のものを感じる雪雄であった。
つづく




