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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(32)

 其 三十二


 重ねての手紙は断ったものの、内心では、もう一度手紙が来ないかと、少しは思わないでもなかった雪雄は、今回郵便物を受け取ると、初めての時のようには躊躇(ためら)わず、そのまま直ぐに封を切って読み下した。一通り読み終わっても、なおその手から手紙を離さず、(また)読み返し、読み返しして、(つい)にそれを巻き収め、自分の手箱の底に一旦は(おさ)めたけれど、またやがて取り出して、(はじめ)から(おわり)に至るまで何度か読み、その後机に寄りかかったまま頬杖をついて目を閉じ、何かを深く考えていた。


 揺れ動く気持ちを静めようとしてか、胸の中の塊物(かいぶつ)を捨ててしまおうとしてか、雪雄はいきなり立ち上がって、

「新三郎、もし人が来たら、上野あたりへ散歩に出たと言え」と命令(いいつけ)て、ただ一人、そのままふらりと家を出た。御成道を真直ぐに行って、上野にさしかかり、夕暮れの鐘に花も散りかかる公園の中をぶらぶら歩いていると、流石に時節だけあって、暮れかかっても淋しい景色にはならず、花を隔てて、女まじりに人の笑う声なども聞こえ、あるいは突然自分の前に横合いから追い追われしながら、駈け出し過ぎる酔漢(よいどれ)もいる。遊ぶには今、風も寒いというほどでもなく、これ以上のものはないくらいの美しい(おぼろ)月夜(づきよ)(そら)は、ぼんやりとして明るく、また、落ち着かなげにひらひらと花片が落ちる風情は、どんな()風流な者でも一句吐きたくなるような世界で、雪雄も独り興を起こし、古歌などを吟じて歩き回っていた。その時、ふと耳に入ってきた人の声、誰とは分からないけれども、覚えのある声音(こわね)だと思い、首を(めぐ)らせて見れば、散り敷かれた雪のような落花を下駄の音微かに、(しずか)に踏みながらこちらにやって来る若い美人がいる。白玉のような(おもて)に漆のような黒髪の(つや)が梢の花に映り合い、比較(たと)えるものもないくらい美しい。


『これは!』と驚いて、思わず路を避け、老木の桜の蔭に身を寄せて覗っていると、美人は人を捜しているように、しばらくあちこちに目を()っていたが、その(ほそ)やかな足で軽やかに雪雄の方にやって来て、乳白色の美しい手でもって雪雄の手を()り、花がもっと(みつ)に咲き乱れている方を目指して連れて行こうとする。ますます呆気に取られた雪雄は身を返して、誰の仕業だと、相手のすぐ近くで顔を見合わせれば、折からの淡い月の光が(やわら)かに、美人の少し打ち仰いだ(おもて)を隈無く照らして見せた。そっと雪雄の手を握りしめながら黙って語らず、微笑んでいるそのあどけなさ、何とも(たと)えがたく、骨はこのために萎え、筋もこのために弛むのではないかと疑われるほど美しかった。


「あなたは過日(このあいだ)、悪所で偶然会った人ではないのか。どうやって彼処(あそこ)を出ることが出来て、どうして此処(ここ)で遊んでいるのだ。同伴(つれ)はいるのか、いないのか。私をどこに連れて行こうとするのか。今の今まで、ずっと彼処(あそこ)に居ると思っていたのに」と尋ねようと思いながらも終に尋ねることも出来ず、引かれるままに手を引かれ、手を取られるままに手を取られて連れ立って歩けば、女は雪雄にひったりと身を寄せかけて、打ち任せた様子を見せて、ただ何の気もなく、何をしようとの気もないように恍惚として、眼の前にある花月の天地を楽しげに打ち見るだけである。雪雄も連れ込まれるように茫然となって、取り立てて言うべきこともないけれど、ただ何となく言いようもない楽しみを感じていた。言葉もなく、二人して笑みを含みながら、行けども行けどもこの花が尽きず、この月もそのままであって欲しいという痴想を描きながら、少しの間立ち並んで遊んでいたが、

「この畜生め!」と、恐ろしい大男の酔いしれたのが自分達二人を一喝し、無法な鉄拳を加えようとするので、はっと驚き、女を庇おうとする途端、急に我に返れば、それは小室の中で、机に凭れながら、知らない間に微睡(まどろ)んで見ていた一つの夢だった。



つづく



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