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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(30)

 其 三十


 花岡の奸計(かんけい)を嫌悪した雪雄は、口数が少なくなり、()し黙りがちになれば、世馴れた花岡は早くも、これ以上話ししてもしようがないと見て、適当に話しを切り上げて帰って行った。いつもなら、もう少し話しをしようじゃないかと、引き留めるのだが、今日はそうもせず、自分の思うところを包み隠すことなく、ごく冷淡に待遇(もてな)した。


 しかし、花岡は雪雄の胸に毒を投げ入れて立ち去ったのだった。花岡のあれこれの話しの中で、雪雄は自分が一度会った女の名も、その住所(ところ)をも知ったのである。今まで夢のようであったものが、一気に明確になった。これによって、折角書いた返書を郵送しようかという気持ちが微かに動き始めた。しかし、相手は遊女屋の女である。どれだけ哀れんで気の毒だと思っていても、良くないところにいる良くない身分の女に対して、手紙を出すのは何となく気持ちが進まない。何度となく、送らない方が好いのではないかと躊躇していたが、自分に(やま)しいところが無ければ、手紙を出したとして何が咎められよう。ことさらこのまま放っておくと、自分は先日、ただ虚言(うそ)を言っただけの男となり、(つれ)()くされたと怒っているその返報(しかえし)として、返事をしないのかと思われるのも口惜しい。憐れな女が胸を痛めてこんな風に言い寄こしたのに一行の言葉も返さずにしておくのは、自分としても忍びがたいものがある、と真面目に考え、封をして、(したた)めた文章を遂に送った。

 あの遊郭(さと)燈火(あかり)に何度か(おもて)を照らされた者なら、女からの手紙などに真面目くさく返事をする者は誰もいないだろう。雪雄は世間知らずの人の好さから返事を出したのだが、これが悪縁の(から)み初めで、思わぬ淵に身も心も置く事態になるきっかけになったとは、後になって思い知らされるのである。



 お手紙、心して読ませていただきました。過日の私の言葉を心に掛け、お待ちになっていたとのこと。自分の言ったことを自分が果たしていないことに対し、そのように言われますと、何ともお返しのしようもなく、赤面している次第でございます。あらためてここにお謝罪(わび)いたします。しかし、その間のこちらの心中の辛さも察していただき、一旦口にしたことが虚言(いつわり)となったことをお(ゆる)し願う所でございます。

 あなたを(おとし)める気持ちはまったくありませんが、あなたの居られる地は、言うのも悲しい所、私が足を踏み入れることが憚られる所であります。既に過ぎ去ったあの日は、泥酔の(うち)、知らない間に誘い入れられたのでした。初めてあなたとお会いした時も、帰ってから、思い切り自らを咎め、父上は疑っておられないか、母上は(いぶか)っておられないかと、今までにないくらい心配したものです。あの時、あなたに虚言(うそ)をつこうと決め、今、またこういう風にお断りをするのは、自分が口にしたことを果たさないという恥と、罪を自分自身自覚もし、我ながら本当に心苦しいのですが、どうしても再びそちらの地に行って、(ふたた)び父上、母上に対して知らない顔をするのが忍びがたいのです。

 周りの人が皆引き留める中、あなただけは心を汲んでくださったお蔭で、夜もそれほどまでに更けない(うち)に帰ることができ、幸いに父母の(とが)めにも()わずに済みました。本当にお心の優しい方だと嬉しく感じ、このお返事を書いていますが、私を憎い虚言者(いつわりもの)とお思いでなければ、そして、お腹立ちでなければ、他人の目に触れる恐れもあることなので、重ねてのお手紙はご容赦ください。

 お不幸(ふしあわ)せの今のお身の上は、他所(よそ)からではありますが、無念に思っております。力の及ぶことならと、愚かにも考えたりもいたしますが、あの肥肉婦(ふとりじし)のような者が力強く生きる魔界では、私の思いなどは煙でもって石を動かそうとするのと同じこと。ただできることなら、あなたが其処(そこ)での生活に馴れてしまい、其処(そこ)の生臭いにおいを何とも感じなくなってしまう前に、その世界を脱け出られることを祈るのみです。

 お筆の跡も(うるわ)しく、よく整ったお手紙を見るにつけ、あなたを(いつく)しみ育てられたお父様お母様は、こんな手紙を書かせるためにあなたに読み書く(すべ)を習わせられたのではないはずなのに、今はただ一見(いちげん)の者にまで、見事なお手でもって長い手紙を書かせているのかとお思いになって、きっと悔しさに涙されておられているのではと、そんな風に思いながら、今のあなたのお胸の(うち)を推し測っております。

 先ずはいただいたお手紙のお返事として書き送る次第です。


つづく

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