幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(29)
其 二十九
向こうは自己の居る所も名前も、こちらが記えているだろうと思い、こちらの家の者の眼に触れないように気遣って、わざと名前と住所を書かなかったのだろう。あの時は半ば夢中で、心が動揺していたため、家の名も知らないし、彼女の名前も尋ねなかったので、今更どうすることも出来ない。雲の中から音信をもらって、返信が出来ないようなものである。
雪雄は独り苦笑いをして、そのまましばらくそうしていたが、そんなところへお気に入りの新三郎が顔を出し、
「花岡様がおいでになっておられますが」と言う。憎い奴めとは思いながらも、
「こちらへお通ししろ」と言って、忙しく何もかも抽斗に仕舞い込んで、知らん顔でいるところへ、花岡はいつものように虫も殺さないような顔をしてやって来て、
「君のところに来よう来ようと思ってはいたが、障碍があって、つい約束を果たせないでいた。これは過般約束した君に餽ろうと言っていたもので、僕には詰まらないけれど、君が見たら、あるいは面白いものかも知れない。君にあげるからゆっくり愛読してやってくれたまえ。時に、その後、詩とか文章の新作はないか。あれば、ちょっと見せてくれたまえ」と、莞爾つきながら言う。おのれ、そんな綺麗な口を利きながらこちらが見ていないところでは、思う存分、卑しい行いをして、つけ込む隙があれば、我をも同臭の仲間に入れようと企んでいるのか。いかにも憎い奴だとは思いながらも、面と向かっては何も責められず、
「これは有り難い。撃壌集は以前から読んでみたいと思っていたもの。もらうのも気の毒なので、借りるということにしておこう。で、あれから、君は福岡君と顔を合わせたことはあったか。君は僕が先日話した通りに、一応は福岡君に話をしてみたのか。福岡君は何と言っていた? 君からそれを聞きたいと僕は思っていたところだ。なるほど、福岡君は有名な磊落家で遊びも悪気なくやって退けられると某友人から聞いたが、そういう人には、なかなか僕のような齢も足らず、経験もない者が何か言ってもきく所以もないだろうと、僕は思う。だから、もし君が、あれから後、福岡君にまだ会っていないのなら、先日僕が言ったようなことを言わない方がややこしくならなくて好いのではないかと考えて、君が来たら言おう言おうと思っていた」と言えば、花岡は頷いて、
「実に君のその推察通りだが、しかしもう僕は福岡に会って、遊興をしてはならないという君の説を一応、そのまま取り次いで言ってしまったが、やはりなかなかその通りだと納得する様子はなく、
『それは一を知って二を知らない不通の論というものだ。不憫な者だからこそ、可愛がって遊んでやるのが好いではないか。彼等賤業婦があの状況に堕ちない前について論じれば、その論は情理には叶うが、堕落後にまでそう論じるのは、それは杓子定規だというものだ。彼等は論よりも、実際上、遊興をする者が一人でも多く来るのを望んでいる。現在僕(*福岡)などもあの後、招ばれるから、しょうがなく毎夜のようにあの絳仙楼に出かけて行くが、君(*花岡)も今日あたり交際たまえ。君が顔を見せたらどんなに君の敵が悦ぶか知れはしない。嘘だと思うなら行ってみたまえ。雪雄君もそうだ、彼の敵の墨染の新造から僕はどれだけ連れてきてくれと、行く度に頼まれたか知れはしない』と、反対に自惚れやら誘引の説教やらを聞かされ、驚いて僕は逃げてきたよ」と、花岡がまことしやかに話すのを聞き、ますますはっきりと彼の心中が見えてきて、
『怪しからん男だ。福岡が言ったようなことにしてこちらの気持ちを動かそうとする腹黒い奴だ』と、心底そう悟って花岡を憎んだ。
つづく




