幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(28)
其 二十八
雪雄はその手紙について、虚偽か真実かを考える暇もなく、直に信じて、書き手にたちまち共感を覚えた。自分を苦しめた彼の肥肉婦めが、この間も物陰で彼の女を責めていたような気がしたが、憎たらしくもまた苛めているのか。この文面から推測すると、女は未だあの里の習慣に染まらず、娼家に深く身を堕としたことを悲しみ、愧じて、苦悶しているように思える。もしそうであれば、本当に哀れむべきではある。しかしながら、自分にはそれを救う力もなければ因縁もない。仮に肥肉婦の老婆の考えを変えたとしても、今はこの事態をどうすればいいのか。憎むべきは花岡、福岡である。福岡は今もまったく変わっていない。花岡は自分の前では二度とあの里などには行くことはないと言葉を放ちながら、面従腹背。きっと自分のことを腐れ学者の気があるようだなどと冷評して、福岡と一緒に遊んでいるのだろう。騙されたのはこちらの不覚だから、これまでのことはしょうがないとしても、この先、彼を友人と見て、交際うことは甚だ面白くない。見棄てた友と争ってまで諫めるのは無益なことなので、そんなことはしようとも思わないが、我が家の者はこんな事情を知らないので、彼を好い人のように思っているから、自分から完全に絶交だと言い出して、孤立してしまうのも変に思われる。これからは、来れば拒まず、去れば追わずという風にして、自然自然と遠のくことにしよう。自分の名前を知らせ、住所を教えたのも、恐らく花岡か福岡がしたことに違いない。賤しい所の者に姓名、住家を知られるのは何とも面白くないのに、もしかしたら、理由にもならないことを言って、花岡等が自分の許へ手紙を送れなどと言ったのかも知れない。よくよく考えてみれば厭な人間達だ。ただ、それはそれとして、この手紙の書き手は憎むべき者ではないと感じる。あくまでも自己の身を恥じている心のゆかしさがあるし、卑しい慾を斥けながらこの自分に自己の目下の悲しみ、苦しみを少しでも救って欲しいと言い廻した筆の巧みさ、意の賢さが感じられる。察してみると色んなことが手紙の行間から読み取れる。浅ましい人間ばかりが多くやって来て、彼女を苛めるので、そんな気持ちを持たない自分に来て欲しいという気持ちが仄見える哀れさは、何とも言えないものがある。先日のおかしな挙動もこの手紙で大凡理解出来た。あの肥肉婦がぐどぐどと言っていたことの理由もあらまし分かった。普通の女には出来ない手紙の書きぶりと、この筆運びでもって推察すれば、絶対世間一般の下賤の生まれではあるまい。由緒ある家の不幸か何かで仕方なく身を沈めたか、そうでなければ他人に計られて、不承知ながらも逃れがたく、籠の中の禽となって、心中に悲しみと憤りを持ちながらそこにいるのだろう。苦しさの余り、文才のあることから手紙を書いたものの、最後の方の文句の様子を読んで推測れば、なおも良家の女の気位があって、一見の客に言葉を寄せるのも自ら潔しとしない調子が見られる。名前を書かないというのも自らを重んじているからだと考えられる。本当に汚れたあのようなところに長く居ては婦徳(*女子として守るべき徳義)を失わせ、快復不能の玷を与えてしまうことになるので、人情的にもやり切れいない思いがする女であるが、自分としてはどうしてやることも出来ない。今自分に出来ることは、ただ、この手紙に対して思うばかりの意を答えて、少しでも彼女が自分に寄せた意に報酬をするだけだと、雪雄は筆を執って、淀みなく何かさらさらと認めたが、後になって気がつけば、どこの誰にこの手紙を送れば好いのか、自分は記憶ない彼女の居所、彼女も書いていない自分の姓名、手掛かりはまったく無いのだった。
つづく




