幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(26)
其 二十六
似ているといっても、これほど似ていることなどあるのだろうか。心中、言葉を失うほど、図中の女は雪雄の眼に残っている女にそっくりだった。眉は濃くはないけれども気品高く、額は狭くないのに心が舒びやかなのを示し、また、星のように燦めいている清い眼、頬の豊かな所まで、一分一厘違う所がなかった。雪雄がこれに茫然として、酔ったようにその画に心を奪われて見とれていると、父はその理由も知らないまま、我が子がただただ画の妙に感じているのと思い、鼻高々と、
「どうだ、雪雄、結構好いだろう。中々の名作に違いなかろう。で、この画題を何と見た。ただ単に美人が人形を弄んでいるというだけか」と言うと、雪雄はハッと我に復り、初めて画を見るような気になって、詳しく見たが、成程、父が褒めるのも無理はない。構図といい、筆運びといい、着色といい、どこにも厭味なところがない。
「いかにも、お父様の仰る通り、決して凡筆ではございません。筆者は確かに、誰かは推察出来ませんが、こちらの人ではないでしょう。明の末、もしくは清の初頭あたりの人ではないかと思われます。画題は別段これといったものもないでしょうが、ただ人形といい、衣服の色合いといい、周囲の景色といい、大方、七夕前日あたりの趣を写したように思われます」と言えば、横手を打って、、
「いかにもそうだろう」と、父は悦ばしげに、なおも眼を離さず見入っていた。
適当な頃を見計らって雪雄は座を立ち、自分の書斎に引き退いたが、彼の女を今の画に見て取って、ますます妄想に攻められた。
考えてみればまったく偶然である。たまたま父が手に入れた画に、たまたま彼の女に似た女が描かれていただけで、別におかしいことなどない。あるいは、たまたま出会った彼の女がたまたまこの絵の美人に似ているだけで、これも別に怪しところもない。これらは皆まったくの偶然なのだ。自分が彼の女に会ったのも自ら求めてではなく、原を辿れば偶然である。偶然とは解釈が届かない地にあるもの。偶然のことをどれほど考えてみても何の益もない。ただ思い捨ててしまうだけだと何度も思い、諦めようとしたけれど、生憎そう簡単には思い捨てられず、画のことが浮かべば、心は女のことへと繋がり、女のことが胸に湧けば、画が繋がって胸に湧く。影に形を認めれば、そこに声が響いて聞こえるように、相纏わって自分に逼れば、最後には偶然のことにさえ何か因縁があるように思い迷い、自分と彼女との間には浅からぬ前世の関連でもありはしないかと疑うような馬鹿馬鹿しい想像も生じて、自らハッと密かに恥じることもあって、無益な考えに疲れ切ってしまった。
その日は事もなく、その翌日も何事もなく過ぎ去ったが、その翌々日、午後に雪雄は見馴れない筆跡でもって上書きされた郵便を受け取った。不審げに差出人を見ると、『桃渓富美』と書かれてあるが、その名に覚えはない。自分はまだ面識もない人から信書を受け取るほど世に名前も知られていないのにと、怪しみながら封を切って披いて見れば、中は女の筆で、仮名文字が美しく艶めき立っていた。
躍る心を推し鎮め、これはどこからのものなのかと考えたが、自分には心当たりがなく、そもそも女から手紙など受け取る所以はない身である。どうしてこんな事があるのか、まったく訳が分からなかった。第一、これは見るべきものではないだろう。このまま封を閉じて返そうか、いや、封を切ってしまったので、それも出来ず、読んでから返したと思われてしまう。しかも、封書には差出人の住所もないので、どうしようもない。焼き捨ててしまおうか、それとも丸めて屑籠に投げ込むか。焼き捨てたりすると人が怪しむ。屑籠に入れれば、洋燈掃除の折などに新三郎に見られる恐れもある。どうしたものかと躊躇っていたが、何にせよ人に見られると拙いことだと、とりあえず揉み丸めて机の抽斗にそのまま入れておくことにした。
つづく




