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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(25)

 其 二十五


 雪雄は父に呼ばれ、何事かと少し気を揉みながらその居間にやって来た。席に着けば、母は今ちょうど茶を入れるところで、その傍らには妹が座っており、何の変わった様子もない。皆いつもと同じような顔付きでいるところを見ると、恐らく自分のことではないのだろうと、雪雄は(ひそ)かに安心した。

 湯加減ほどよく茶も出来たらしく、母は父へと、妹は自分へと茶盞(ちゃさん)(*煎茶道で使う小ぶりの茶碗)を送り、各自(それぞれ)静かに飲んで、主人(あるじ)の言葉を待つように控えていた。父はいつもより機嫌よく嬉しそうな顔をして、雪雄の方に顔を向けながら、

「お前に見せようと思うのは他でもない。今日、思いがけず路上で眼に止まったので、画を一幅(もと)めてきたが、(わし)が見たところ稀代(きだい)の名筆のように思う。筆者は誰とも見定めがつかないが、無論此邦(こちら)の人ではないようだ。あるいはまた、明人(みんびと)あたりの原画を非常に巧みに模したものか、そこまでは残念ながら眼が届かないが、もし模したものであるなら、きっと百年、百五十年以上前に、紙に至るまで吟味した上で、相当の画家が苦心して作ったものに違いない。何にせよ、面白いと思ったので値を尋ねてみたところ、意外にも凡画並であったため、その扱いが不憫で(たま)らず、そのまま買い(もと)めてきた。ところで、途中、車の上でその画題を頻りに考えてはみたのだが、どうしてもちょっと題目が思い当たらない。ただの図なのだろうか、何かまた詩の句でも基にして作意したのか、それとも故事ででもあろうかと、お前に見せて評を聞きたいのだが」と言いかけて、娘の方に向かって、

「今持って帰った軸を床に掛けて」と言いつければ、妹は立って、今まで掛かっていた(ほう)(いつ)(*酒井抱一。江戸後期の画家、俳人)の軸を取り下ろして掛け替えた。

「表装は非常に(いた)んでいるし、全体に汚れも付いているが、()く見たなら、お前にも凡画ではないと分かるだろう。さあ、()く見て」と、父の言うがままに雪雄が軸のある座敷に行けば、皆々も従うようにして席を移して、一斉に画に眼を注いだ。


 書画を(たしな)むのは、愚か者が煙草と酒とを嗜むのと同じで、生意気にも身のほどを知らずに嗜んでいることが世には多いけれど、雪雄は(とし)が若いにもかかわらず、父譲りの風雅か、あるいはまた打ち沈んだ性分がそうさせるのか、早くからこういうことにかけては、誠実に嗜んでいるので、、今の父の話に興味を示し、どのような画なのだろうと胸の中、早くも限りない楽しみを覚えながら静かに床に向かった。じっと眼を止めて打ち見詰めれば、筆の巧拙、題目はしばらく置いて何も言わなかったが、思わず深く驚かされてしまった。

 心の迷いか、気の(とが)めか、天が差し向けた廻り合わせか、不思議にも、また怪しくも、見るより早く自分の心はこの画によって動かされた。画の善悪(よしあし)も見極めない(うち)に心を動かされたというのは、まったく道理(すじ)の通らないことではあるが、その道理(すじ)の通らないことよりもなお道理(すじ)が通らないないのが、この画が自分を驚かした理由で、もし自分の心に迷いが生じていないなら、実に不思議過ぎるほどの不思議である。

 画は異様なものでもなく、人を怖れさせるものでもなく、侍女を従えた一人の美女が卓上に置いてある小さい人形に眼を止めているといった図である。その美人の顔を見なければよかったのだが、見てしまうと、自分の秘密がまさしくその幅上(ふくじょう)暴露(あらわ)し出されているように思えた。(ひそ)かに相見て、今もなお自分の眼の底を去りきらない()の女がここに描かれている。額、眉の様子など、彼女を写した以外は考えられない美人を、偶然にも父上がお買い求めになった古画に見るとは……。思いもかけず、雪雄が驚いたのも無理はなかった。



つづく

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