幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(24)
其 二十四
雪雄よりは幾分か世間に通じた者の耳で受け取れば、青臭い言葉にしか聞こえないが、理屈は理屈なので、花岡も敢えて楯は突かず、
「なるほど、それは君の説が正当であるに違いない。たとえ福岡がこの席にいても反論をすることもないだろう。いかにも心しなければならんことだ。福岡へも僕から道徳上、彼自身少し慎むよう忠告しよう」と、一応は雪雄の意を素直に受けておき、
「しかし」と一転、言葉を差し挟んで、
「まあ、君もあんまり堅物過ぎるよ。たった一度の僕の話で福岡の人となりを断定して、交際しないの何のと言うのはチト過敏過ぎ、考え過ぎではないか。一方的に言うのもまた軽率ではあるまいか。人というのは自分の抱いている説と自分の性質とが相応していないのも知らずに悠々としている無邪気な人もいる。近い例で言えば、あの奥原を見たまえ。極端な自由説をすべてに当てはめ込んで、ちょっとした討論会でも、何を言うかと思えば、何日も『自由は人が犯す錯誤と虚偽とを脱し、自然の流れと法則を露見させ、そうやって我等に宇宙の大光明を悟らせるものである』と、僕らの耳にはまた例のやつだナと記憶させ切ったほど叫ぶではないか。何もかもその主義から割り出して、教育も放任がよい、宗教も干渉しない方がよい、交際もそれぞれでよい、政治も一人一人の自立がよい、虚文と虚礼で僅かに結ばれている社交的な団体や、主義綱領で拘束する政治的な団体ほど愚かなものはない。死んでしまった過去と瞬間の現在との思想のために将来の多くの思想言論の自由を自ら犠牲にしてしまって、ある約束に従うことを可とするほど愚かなことがあるものか。学術研究会で大著述の出来た例もなければ、新学説が成就した例もない。某倶楽部というものは怠惰漢が互いに相許して、互いの自由の綱の寿命を、酒と笑話と第三者に対する高慢とに費やし合うところに過ぎない。某会社というものは同じ業務における二人以上の者が相争い闘うことを嫌う時、相互の自由を殺ぎ合いながら和睦した結合に過ぎない。これらは皆人界を蝕むものだ。虚偽の平和だ。人間の進軍の最中に、いやしくも安んずるだけの平和だ。常に十二分の自由を望んで、常に他と衝突して、勇猛に闘って他を殺すか、自分が滅ぶかするのが社会のためにも個人のためにも一番祝すべき光景だと、青筋張って暴論を吐いているが、そのくせあの男はどうかといえば、猫のように柔和で、何事も人の後についてばかりして行く質で、問題を出されなければ議論もできないというほど臆病な性分だから、母親の干渉を離れては、差し詰め大いに困ってしまうことになる。何でもいいから、あの男に幹事のような役をさせてみたまえ、五月蠅いほど人の指図ばかり受けたがる。君もきっと知っていると思うが、あれほど極端な者は少ないにしても、随分と自分に似合わないことを構わず持説にしている者が、友達を見渡してみたまえ、沢山いる。福岡も自分で言うほど豪傑でもあるまいと僕は思うが、多分僕の想像は中っていよう。彼自身、自分の言う通りに自分が出来るか出来ないかも分からないで威張っているに違いない。罪のないことに決まっているさ。だから、君のように一概に論じられては堪らない。失礼だがまだ君は若い。方言(*「揚子方言」とも言われ、揚雄が著した漢代中国の方言辞典。)を読めば、揚雄は聖のように、また、文中子(*中国随代の王通と門人の対話集。「文中子」は王通の諡……死者に贈る名)を読めば、随にも偉人(*王通のこと)がいるかのように思われるが、言葉だけを聞いてその人を論じるとするなら、吃音者の発した言葉から、二人の妻がいるとする(*言葉を繰り返してしまうことから)ような馬鹿なことになるさ。ハハハ、福岡も大分クシャミをしたことだろう。いや、余計な話しに花が咲いた。また明日来るとして、その時は君に珍書を一部持って来よう」と、話しを横に外らせた後、適当な時期を見計らって花岡は帰っていった。
話しの相手もいなくなり、またもやぼうっとしていると、胸に湧き出てくるのはあの怪しからん妄想で、例の女の品格ある面影が何時の間にか眼の前に現れてしまう。しかし、静座に馴れている雪雄は机の前を離れず、余所目からはいつものように殊勝に本を読んで過ごしているように見えた。
夜が近くなって、父が外から帰って来ると、いつになく、
「雪雄、こっちに来てみなさい。お前に見せたいものがあるので、読みかけた本がなければ来なさい」と、日頃ほとんど構いもしないのに、今日は特別なのか、雪雄を自分の居間へと呼び入れた。
つづく




