幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(21)
其 二十一
その夜は疲れて、そのまま睡ってしまったものの、翌朝になって、昨日のことを思えば、雪雄は何となく心落ち着かず、誰か耳の底で囁く者がいるような気がした。いつものように父母の前に出て、機嫌を尋ねるにも何となく気後れして、もし昨夜遅く帰ったことを訊かれたら何と答えようかと思いあぐね、私かに動悸も起こって、ただの話にも自然と頓馬な受け答えをしては、ハッと驚き、気づかれて疑われはしないかと怖れたこともあったが、自分が思うほど他は心に掛けていないようで、何も怪しまれることもなく済んだ。
昨夜は心そこにあらずの状態だったので、見て見えず、聞いて聞こえず、雪雄は茶屋の名前も記憶になく、遊郭の屋号はもとより、自分の相手をした女の名さえまったく覚えがなかった。
翌日、昼を過ぎて、独り書斎で例の通りに籠もって、ゆっくりと昨日の一部始終を胸に浮かべたが、一切が夢の郷に遊んでいたように思われて、はっきりとしたことは一つもなかった。
しかし、路傍の花だと心にも留めずに過ぎたが、前世からの縁でもあったのか、たまたま出会った女に心を動かしたりしたのは、自分でもまったく思いもかけないことだった。怪しくも、その広い額、淡い眉、品格高く、その筋の者には似合わない顔付きが自分の眼に染みついたようで、書斎での読書に疲れた眼を庭先の常磐木の青に注いで、机に寄りながら心をしばし休めれば、青天に白雲が漂い来るように、どこからか彼女の面影が現れるともなく現れて、もの言わず笑わず、じっと静かに自分の方を見て、急にまた自分が見る眼を避ける様子など、ありありと夕べ見たのと同じ情景が浮かんでくるのだった。
これはいけないと気づけば、直ぐに姿は消え果てたけれど、復何もせずボーッとしていると、何時の間にか再び、耳の底で、ただ一言ものを言ったあの女の清らかな声が聞こえる気がする。
これはと、自分でも少し驚き、自分はまんざら無学文盲の野卑な人間でもないはずなのに、これは一体どうしたことだと忌々しく思った。無益な妄想は心にも害になる良くない不埒な遊びだ。その時でさえ唾棄すべきだと思っていたものを、盗賊に襲われた後もなお恐れを懐くように繰り返し思い出すのはまったく甲斐のないこと。思い出してばかりしているのは愚の極だと、齢は若いけれども、学問を学んだ身の思慮は老成しており、苦茶に惰気を払って、読書に集中するが、昨日まで、一昨日までの自分とは違っていて、まったく精気の足らない人か、熱病上がりの人のようで、正当に働く意の力は極めて弱く、とかく他のことにばかりに気が散ってしまい勝ちであった。
心を引き締めて無理に自らを励ませば、訳もなく疲れて眠気がし、眠気を覚まそうと茶に煙草に休息すれば、何時しかまた妄想に気を取られる。
残念にも胸を蝕まれ、指先での会話、眼に溢れそうな涙、様子のおかしい彼女の素振りなど、一つ一つが明らかに眼の前に浮かんで来て、自分で虚言だと知りながら、いずれまた来るなどと虚言を吐いた罪までも思い起こしたりして、あちらこちらと思いは飛ぶが、つまりは女のことだけに心が惹かれて、他のことが考えられなくなってしまっていたのだった。
真実に、不幸にして良家の女が急に魔郷に落ちたものか、いや、そうは言っても人を欺くことが当たり前の花街の者の口から出たことだから、嘘偽りだと考えるべきか。いやいや、あの憎らしい肥肉婦こそ世磨れた忌々しいものであって、彼女の初々しさ、物羞した様子といい、花街の者ではない普通の人の感情でもって、帰宅うとする自分に同情を表してくれた様子といい、まったく清らかで汚れのない処女が悲しい訳があって、悪所に堕ち、日々楼上で故郷を望んで泣いているということではないのか。しかし、そうは言いながらも、自分を重ねてまた通わせようとしたのはどういうことだ。二度三度、明日はお越しになるか、明後日はどうかと尋ねられ、自分が承諾しないのに涙をさえ落としたのはますます合点が行かない。自分を招いてどうするつもりだ。悪所で年を重ね、経験も積めば、空涙も溢すと聞く。真実、つい最近、あの魔所に落ちた者ならあのような光景を表すこともないだろう。前後を照らし考えれば、決して憎むべき悪者ではないだろうと思われるだけに、劫って憐れだと感じる所も多いけれど、それにしても納得の行かないところもある。真実に良家の女が堕落したのだとすれば、花岡や福岡などの見下げ果てた奴等や、汚らわしい金というもののために嬲りものにされて辛い目をしている哀れさがある。
世の中には昔からこういうこともあるので、敢えて怪しまないとはいうものの、つくづく不憫で、あのような営業で、不幸な女子を囮にして生きている人間に対しても、世の中は特に制裁もせず、なお人として交際うのが当たり前となっているのかと、ぼんやり歎きまでしているところへ、襖の外から新三郎の声がした。
「若旦那様、花岡様がお出でになりました」
つづく




