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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(20)

 其 二十


 昨日まで襤褸(ぼろ)は着ていても、「お(ふみ)、お文」と親に付けていただいた名を呼ばれていたのに、今日は悲しくも亡くなられた父様もご存じあるまい墨染(すみぞめ)という名を負わせられ、見る眼には美しいけれど、口惜(くちお)しくも色を売るための飾りに過ぎない金絲銀絲(きんしぎんし)刺繍(ぬい)のある衣を引き纏い、金さえ持ってくる者であれば、どんな粗野で野蛮な人間でも(こば)めず、恥ずかしくも(おもて)(さら)し、むさ苦しい口の付けられた胸のむかつく猪口を目をつむってでも受けなければならない苦しさ。その上、今川状(*道徳の手引き書)にも無い教訓(おしえ)を受けさせられて、夜毎に代わる色んな人間、訳の分からない男どもから投げ掛けられる情けを受けねばならない勤めの辛さ。身の内に血もあり、血の内に(あたたか)みのある女にそんなことがどうして出来ようか。


 墨染と呼ばれて初めての夜は、本町辺りの大店(おおだな)の若隠居とのことであるが、(とし)は四十を越した油ぎった顔が怪しく光った男。親が満足に生んで下さったこの身体を今日、この男のために平常(なみ)ならぬものに破り捨ててしまうのかと思うと、どうしても堪え難く、新造(しんぞ)とかいう肥肉婦(ふとりじし)の憎らしい年増女に無理矢理押し入れられた(ねや)(うち)、思いついて男に後ろを向け、(とび)を怖れる(とり)の子が小柴の(かき)に潜むように小さくなって微睡(まどろ)みもせずにいたところ、何やかやと言葉だけは掛けたが、身には触らず、その男との夜を明かした。ホッと一ト息ついて、明け方に部屋を出たが、ふと振り返ると、男が恐ろしい眼をして、自分の背影(うしろ)を眺めているのを見ると気味悪くなった。

 二日目の夜もその男であったが、さては今朝の眼付きは、我が身をただでは置かないつもりだったかと、ドキリとしたが、なおも逃れるだけは逃れようと、昨日のようにしたところ、とにかく言葉だけは多く掛けるものの、やはり男は我慢をしてか、手も出さないで夜を明かした。

 三日目の昼、例の肥肉婦(ふとりじし)の新造にとらえられ、聞くに堪えない説法をされ、手紙を出さなければ、今夜だけは義理にも来てくれるだろうけれど、その後は絶対来てはくれないからと、命令(いいつけ)に仕方なく言われるがままの大凡(おおよそ)を言葉にして書き送ったところ、文字が極めて美しいと、自分ではそうも思わない筆遣いを褒めそやされた。

 その夜、やはりまた執念(しつこ)くも例の男がやって来て、数々の土産物を与えくれ、自分への親切心を表したが、二人差し向かいとなっては、例の如く冷たいあしらったけれど、今度は許さないつもりか、火のように熱い手で我が手を()りにかかれば、触れられた瞬間、身も世もないような気がして、兎のように跳ね出し、息も(せわ)しく逃げて、この両三日以来(このかた)少しだけ心易くなった同じ大阪生まれの清川という女のもとに駆け込んだ。

 その次の夜は流石にその男も来なかったが、初めて雪雄と出会い、少しもいやらしい意味ではないけれど、引付(ひきつけ)(*遊里などで初会の客に遊女を引き合わせること)で(そっ)と見た時から、なぜだか分からないが、かっと上気した。自分の(へや)では尚更のこと、心がざわついて穏やかでなく、雪雄が傍に近づいたように思えれば恐ろしいようにも思え、どうしていいのか分からなくなっていたが、その(うち)雪雄は帰って行った。


 雪雄が帰ってしまってから、お文は恍惚(ぼうっ)としてしまい、酔ったように自分の臥床(ふしど)の夜具に(もた)れ、(ものう)げに(かす)かな溜息をつきながら何かを思っていたが、どうしたのか、(つい)には眼を潤ませて(うれ)いに沈んだ。


つづく


※ この作品に限らず、露伴の小説(あるいは、この時代の小説等)には、現代の人権意識からして、到底容認出来ない差別的な表現、言葉が出てくることがあります。訳に当たってはできるだけ配慮しているつもりではありますが、至らない部分もあるかも知れません。現代語訳の大きな課題だと認識しているところです。

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