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幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(16)

 其 十六


 人を馬鹿にするにも程があるというもの。蜜柑(みかん)に例えれば、尻の腐ったようなものを「処女(きむすめ)でござい」と()し出して、こちらの様子を知ってか知らずか、敦賀屋の口から自分の手に取らせようと図った堺屋の老夫(じじ)めの憎さ、持参の金の光りに他人(ひと)の眼を(くら)ませて、六十年の不作を押し付けようとは、何という腹汚い奴等の企みか。大体、この宗太郎が金に眼を奪われてそんなものをもらうだろうと見られたのが忌々しい。(あぶら)(ずみ)(*堅油(かたあぶら)に油煙の粉をまぜた顔料。歌舞伎役者などが眉や髭をかくのに使う)で身を(けが)されたような気持ちがする。胸糞(むなくそ)の悪さはおそらく一生、思い出す毎に、今のこの気持ちが甦るだろう。これも畢竟(つまり)は店の経営が苦しいこちらの手の内を見透かされて、あの困った中へ話を持ち込めば飛びついてでももらい受けるだろう、そして娘の古疵(ふるきず)が明らかになったとしても恩があるので忍耐(がまん)するだろうと、みくびられたことから起こったこと。エエ、貧すれば鈍する世の中、思わぬ所まで飛んだ恥辱(はじ)を受ける。思えば、思えば人の世は銭の世、金の家従(けらい)でいながら万物の霊と言うのもおこがましい。アア、もうほとほと算盤(そろばん)に明け暮れするこの世界にいるのが五月蠅(うるさ)くなってきたと、その夜深(よふ)けに一人寝覚めた時、つくづくと思い歎いた宗太郎、もう再び寝ることも出来ず、一番(いちばん)(どり)、二番鶏の声を聞いたが、暁天(あかつき)が近くなり、戸の隙間、欄間(らんま)が仄白くなるにつれ、いよいよ持ち前の癇癪が(たか)ぶって来た。

 勃然(むっく)と跳ね起き、平日(いつ)になく自ら雨戸を繰り開け、広くもない奥庭をあっちへ行き、こっちへ戻りして、何事か深く考えていたが、この時袖に朝風寒く、残月がひょろ松の梢に掛かって、まだ誰も起き出てこない閑寂(しずけさ)の中、風邪を引く心配なども忘れ、腕組みをしたまま歩き続けた。そして、東の空が紫立って、(あさ)(がらす)が勢いよく、声朗らかに鳴き連れて飛ぶ頃、気が触れたように怪しく、

「ハハハハハ」と誰憚らない高笑いをしたかと思うと、()()って、踏み石の上で舞い踊った。


 その月その日から宗太郎はたちまち打って変わり、母に対しても妹に対しても、まったく笑顔を見せない男となった。独り自ら帳場格子の(うち)に閻魔くさく坐って、手代を廻し、小僧を追い使い、手代等が怪しみ(いぶか)るのも気にせず、買掛、売掛の総決算をすること、大晦日のようで、遂に八日ほどして無理矢理に一切片を付けた。

 その翌日はどういう訳か分からないが、有名な仕出し屋から多くの山海の珍味を運び入れ、艶ある女達を招いて、驚く手代、出入りの者、小僧までをも客にしての大盤振る舞い。酒が一通り巡った時、主人(あるじ)の宗太郎は大層重々しい口調で、

「お前達、長年勤め、忠義を尽くしてくれたこと、嬉しく思う。(わし)はこの度思い立つことがあって、この店を閉じ、転業するので、惜しくはあるけれど、そなた達一同に暇を(つか)わす。年季中に、主人(あるじ)の都合でこんなことをするのはきっと迷惑だろうし、何年かの奉公を無にしてしまう()やみもあるが、お前達には迷惑をかけないつもりだから安心して欲しい。今日はお前達のために、慰労の宴を張ったので、思う存分飲み食いして無礼講で座興を尽くして、勝手気ままに騒いでくれると嬉しい」と挨拶し終わった。

 この時まで主人(あるじ)のすることが分からなかった母は言うに及ばず、番頭、手代等は呆れた口が開いたまま塞がらなかったが、母のお伊喜が涙ぐんだ眼を(つか)って番頭に眼配せすれば、その心を得たとばかり、番頭が膝をにじり寄せてきて、何か言おうとするのを察した宗太郎、

「色んな話は後でする日もあるだろう。今日は慰労の振る舞いの席、何はともあれ、先ず飲めや飲め」と、早くも盃を手にして暴れ飲みに飲み出せば、妓女(おんな)等は()く者あり踊る者ありで、考えも無い若者等は、後のことはともかくとして、目前の美酒、佳香、歌や舞に魂を奪われ、ご主人お許しの無礼講、こういう日に騒がないのは(かえ)ってご主人のご機嫌を損ねると、勝手に理屈を付けて騒ぎ出せば、最後にはいい歳をした番頭までが、「これでも往時(むかし)はな」と、講釈を付け足して得意の算盤を扱うような調子で江戸唄を唄うようになった。


つづく

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