幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(13)
其 十三
敦賀屋が申し入れた一部始終を聞いて、お伊喜は奥歯が脱けて淋しく凹んだ頬に悦びを湛え、
「ご親切に仰っていただき、何ともお礼の申しようもございません。先方様のお娘子のご様子も承りました通りなら、厭と申し上げるところもなし。願っても無い結構なお話と私は思っております。しかし、なおよく今晩、倅の思惑も糺しました上で、いずれお返事をいたしましょう」と、流石に分別に老いた五十女の思慮は深く、掴みついても決めたいほどに思いながらも独断無謀の返事はせず、上手くあしらえば、敦賀屋も道理の対応だと満足して帰ったが、お伊喜の胸の中にはこの縁談、早成就したのも同然と思って、心勇みながら宗太郎の帰宅を待った。
その日、宗太郎は商用のため、終日奔走して、とっぷりと日が暮れた頃、空腹を抱え、疲れを帯びて帰ってきた。
母の眼にも妹の眼にも、父を亡くして一人になった宗太郎がこの一年足らずの間、どれだけの心配、どれくらいの気苦労をしているのかが分かるので、せめては一日の疲れを好きな下物、過ぎない程度の酒で癒やせばと、夜食の膳には一銚子付けるのが常であった。
今日も何かは分からないが、昼過ぎから心配顔で出て行き、暮れ過ぎにもまた心配顔して帰ってくる様子を察せば、何か深い気がかりなことがあるのではと、口に出しては訊かないけれど、人の親の心はいずれ子に繋がるもの。お伊喜も気がかりで、話も控え、ただ自分の子の憂いを解きほどいてやろうと思い、
「これ、宗太郎、今日はお前の血色もあまり冴えてはいないが、どうかしましたか。人と諍いでもして来ましたか。そうでないなら気を腐らせずにわっさりと気分を変えて気持ちよく睡らないと、悪い夢を見ます。お父様が亡くなられ、また半次があのようなことをしでかしてから、お前の気苦労も多かろうが、人の運会は悪いことばかり続くものではない。私が二條様の所を下がってこの家に来てからでも、お前のお父様も随分浮き沈みをされたのを私は知っています。悪い後には好いことも来る。すでに今一つ湧いて来た耳寄りの話も私が持っているくらい。そういう風に家のためを思ってくれるのは私もお文も本当に嬉しいけれど、あまり気を揉んで病気にでもなったらと、劫ってこちらの方が心配します。今のお前の若さでは下世話にも言う『人の一生、七度の福』をこれから受ける訳だからくさくさすることはない。お文、ぽんとして、兄様の顔ばかり見ていないで、よく気をつけてお酌をしなさい。そして琴でも持って来させて、兄様のお好きな賑やかなお前の十八番でも弾けば好いではないか」と、春の暁天の空の星のような光り薄い眼に溢れるばかりの慈愛を浮かべて世話を焼く老いの誠実心、言葉には艶はなくても汲めば底意に花香漂うものがある。
そう言われて、宗太郎、母を気にして笑顔を無理矢理作り、
「何の、母様、心配なされますな、なかなかこの宗太郎、一ト通りや二通りのことに気を腐らすような男ではございませんので、そこらはお気遣いには及びません。仰る通り、七度の福もこれから受ける身、楽しみ多い行く末を抱えているのに、くよくよするような狭小な根性はございません。ハハハ、何、なに、今にこの腕一本から何百万の身代も生み出して母様にもお文にも、目を丸くして呆れられるほどの果報を招かなければ、この宗太郎、男児ではございません。商売にかけては日本の眼玉同様のこの大阪で産湯を浴びて育ったからには、田舎で生まれたものとは違って、七転び八起きはまだなこと、百度転んで倒れても商売で絶対一旗揚げる気でございます。で、母様の今仰った耳寄りの話というのはどんなことでございますか」と言えば、母は莞爾やかに膝を進めて、
「他でもないが、お前も既似合いの者を家に入れなければならない年頃、幸い今日、他から打ってつけの好い縁談を持って来たが」と、半分言いかけたところで、宗太郎は飲みかけた酒を急にがぶりと飲んで、平時にない高調子の笑い声、
「母様、それはいけません。このややこしい左前の最中に、嫁沙汰は要らぬ話。どうせ碌な者は来ないのが道理。当人が不美貌でなければ、当人の家は此家より劣っていると大抵相場は決まっております。待って下さい。今、一、二年経てば従何位の勲何等というような人の娘でももらってお目にかけます」と、頭から話を打ち消した。
つづく




