幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(11)
其 十一
土手の人通りから離れ、車の響きや下駄の音もそれ程までには感じない平松(*不明。平屋のことか?)の小さい離座敷に、無益な贅沢をしている二人の若い男、空腹の湯上がりに酒の廻りも早いと見えて、昨夜の疲れの腫れ瞼を猿ほど紅くして、
「どうだい、俺の成功は」と、崩れそうな笑い顔で一人が言えば、
「やい、花岡、いい加減にしてくれ。その浮腫んだ顔、脚気病院でなくてはそんな話は流行らないぜ。朝から惚気られて堪るものか。今朝見せつけられただけで沢山だ」
「ヘン、君も随分初心だな。あんな舌怠いことで、好い気になっているようでは、まだまだ鯛の正味を悦んで食う方だ。失敬だが、味を知っているものとは言えない。蘭の花の吸物みたいに気取ったのもうれしくはないが、ぺたりとしたのは身震いがする。君の成功は例えば鮪のぬたを江戸味噌の甘いので仕立てたようなものだ。美味かろうと、不美かろうと第一、貴人の箸に触れられるという名誉には与れないから気の毒だ。田舎者が悦んで食べるくらいのものだ。あれで満足するなら、君もすなわち田舎者だ。さあ、田舎者に一杯献じよう」と、舌鋒鋭く言い退けて注ぐ。注がれた方はそれを受け、一口飲んで、下に置いて冷笑い、
「逆鱗に触れたようで、酷く攻撃するね。まあ、何とでも言いたまえ。どうせ憎まれるさ。他人にゃ憎まれ、謗られるというところがこっちの本来だから、少しも驚くことはないさ。しかし、閑話はさて置いて、眞里谷君はとうとう帰宅ったが、どうだい、僕の言った通りになるだろうと思うよ。これには君も鑑定違いだったと謝らなければならないぜ。参っただろう」
「そうだな、まだ何とも確かには分からないが、眞里谷にしたって年頃だし、女が嫌いなこともあるまい。恥ずかしさに表面は隠しても、普通の男なら慾が燃えてくるはずだもの」
「君の説がもしかしたら勝つかも知れない。だが、君は悪いことをする人だ。僕の敵が昨夜評して曰く、『あんな温和しい、むっくりとした好い息子さんをこんな所へ連れてきて、悪い風に当てるのが可哀想。今にご覧なさい、あの柔和顔が、ケチくさい抜け目のない狡いような顔になるでしょう。本当に惚れ惚れするような穏やかな角のない好い息子様、私の所へでも来たのなら、あなた方二人は悪い朋友だから、あまりお交際なさいますな。学問が成就なされるまではなるべくこんな所へお出でになってはいけませんと言ってあげますものを』と、えらく眞里谷の奴を贔屓して、僕らをとんだ悪漢にしおった。ところで、僕は何と返したと思う?」
「多分、『俺は知らない。花岡がしたことだ』とでも言ったのだろう」
「ハハハ、お察しの通りだ。散々君を罵ったよ」
「いや、頼もしい朋友だぞ。まことにありがとうござりまする」
「しかし、恨まれる訳はない。また君に信義を尽くしている所もあるよ」
「あまり当てにはならないね」
「ナニ、そうじゃない。真実のことだ。眞里谷の敵の新造(*例の肥肉婦の女)が今朝やって来て、僕に色々と眞里谷のことを訊いたから、ここが新造の奴に慾を出させて眞里谷を引き寄せさせようとするところだと思って、眞里谷の家が裕福なことから、父が可愛がって大切にしていること、ほんの生子息で、まだ世間の苦労を知らない箱入り育ちだということ、学問好きの堅物で、まだ色恋を知らない初々しいものだということ、女さえ気に入ったらどんなことでもして、出来ないことはないということなどを一々話して、なるべく眞里谷を好い鳥のように思わせようとしたのだが、どうだ、これは信義ではないか。そうすると、君、聞きたまえ、新造が眞里谷の家を訊いたり名前を訊いたりするから、すかさず僕はこう言った。初会文でもないが、二、三枚俺が封筒に宛名を書いておいてやろうと言って、本当に書いたよ。新造も初心な女について心配しているから、万一すると、女に勧めて、好い種を逃がさないように、茶屋までも出し抜いて、初会文をつけさせるかも知れない。もし、そうなったら眞里谷もきっと家でも尻が落ち着かなくなるに決まっている。どうだ、有り難うと言いたまえ。アア大分酔った。飯にして、もう帰宅って昼寝しよう。実は君、甚だ失敬だが、僕はちと可愛がられ過ぎたのか、睡くて仕方ない」
つづく




