幸田露伴「みやこどり」現代語勝手訳(10)
其 十
自分の勝手ばかり言って、他人をまったく構わないというのでもない。彼の肥肉の女とは違い、雪雄の気持ちに逆らって無理矢理引き止めようともしない罪もない美しいこの女に、ただ無邪気に泣いて頼まれては、流石に雪雄も少し折れて、思わず、
「暇があれば何日かは来よう」と口を滑らせたが、『ああ、心にもないことを言ってしまった』と、自分の言葉を言い終えないうちにも自ら恥じた。
目の前のことを取りなすためとは言え、先の知れた虚言を吐いた自分を責めたが、些細な言葉を頼りにして、ようやく一線の望みを繋ぎ、ホッとした女の顔を見ては、言い直すまでの勇気はなくて、そのまましばらく黙っていた。
すると、この時初めて桜桃の莟の唇を軽く動かし、夏の夜の雨が過ぎて、月に一点の曇りもないような面を仰向け、恥じる色なく雪雄に向かって、声も冴かに、
「きっと……、どうぞ」と、少ない言葉に多くの誠を籠めながら、溢れるばかりの熱情でもって、愛おしい鶯の初音を洩らしたのだった。
そんな様子を自分勝手に誤って解釈したのか、閨の中を気遣っていたと思われる例の肥肉婦は安堵の胸をなで下ろして、やがて茶屋を呼び、雪雄に邪魔立てすることもなく帰したが、いよいよ雪雄が帰るという段になって、二人が送って店前に出るまでの間、肥肉婦は雪雄にぴたりと寄り添って、無遠慮に耳近く口を寄せ、
「あの通りのネンネでございますので、どうか不憫がって来てやって下さいませ。何日でもお待ちしております。屹度でございますよ。お出でにならないと肯きませんよ」と厭になるほど小五月蠅く、くどくど言うので、今度は雪雄も面倒になって、敢えて自分から嘘を吐き、
「必ず来るぞ」と言い退けて、茶屋の女と共にその場を離れた。
二、三歩歩いて背後に聞こえる声にふと見返れば、肥肉婦が袖を引くのも気にせずに佇んで、雪雄の方を茫然と見送っていた女の美しさ、これは正に沼から水を抽いた時の蓮花のようだと言ってもよさそうな風情であった。
花岡と福岡はどうしたと訊けば、
「よくお休みになって、お起こししてもお目覚めになりません」との答。それが真実か虚妄かと糺すまでもなく、車を頼んで一ト飛ばせに我が家へと走らせ、練塀町にさしかかったところ、我が家から一町ほども前から車を下りて静かに歩いた。門に玻璃燈が出ているのが他ならない我が家だと思うと同時に、悪いところへ足を踏み入れた身がその光に近づくにつれて、何となく恐れを生じ、
『父上はまだ起きておられるか、母上、妹はどうか』など、余計な心配事も自然と湧いて出て、
『下女の福の奴は口五月蠅いし、誰も彼も皆寝ていて、新三郎だけが起きていてくれれば都合がいいのだが』と、詰まらないことを当てにしながら、足の運びもいつものような元気はなく、ゆっくりと歩いて門に近づき、形だけ閉めてあるのか、それとも戸締まりもしているのかと、そっと開けてみようとする途端、たちまち噛みつくように吠え立てて、内部で怒るのは日頃自分に狎れ泥んでいる「くま」の声であった。我が家の犬に吠えられても大声を出して叱りもできず、自分が好んでしてきたことではないにしても、身に多少の疚しさを抱えている雪雄は憚ることが無いでもないので、静かに叱ると、そこは犬の忠義なところで、急に鳴き止んで慕い寄ったと思えて、振る尾っぽが門に触れる音がする。雪雄はこれに微笑んで、扉を押すが、閂が掛かっていると見えて、少しも動かない。しょうがなく、軽く敲けば
「どなたですか?」と言いながら玄関に寝ている新三郎が出て来た様子である。
「俺だ俺だ」と小声で言うのを聞きつけて、
「若旦那様ですか」と、遠慮のない大声を上げられ、父母が眼を覚まされないかと、雪雄はギョッとしたが、幸いにも誰も起きてこないようである。
『よかった』と胸を鎮めて門が開くや否や中に入り、後は構わずこそこそと自分の書斎の四畳半に至れば、床は例の通りに早くも敷延べられて、艶消し洋燈が机の上に朦朧とした光を放っていた。
今日半日の中で初めて心安まったと、のびのびと足を伸ばして横になる。
門を鎖して来た新三郎が、
「冷めてしまったでしょうが、お茶でも持って参りましょうか」と、自分の寒いのも構わずに親切を尽くすその心根がぞっこん嬉しく、
「いや、茶も要らないし、湯も要らない。寒いだろうから早く休め。お父様も母様も帰宅が遅い俺を何か仰っていたか?」と、訊いてみたが、
「いえ、恐らく帰って来ないことはないだろう。門を鎖して新三郎、お前、気をつけていてくれよと、仰っただけで、いつものように十時にお休みになりました」と答え終わり、
「それでは失礼いたします」と、あっさりと一礼をして玄関の方に去って行った。
つづく




