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ダーク・イーター  作者: loveclock
解明編
9/19

異邦の逃亡者①

 暑さの質がまるで違う。

 肌に纏わりついてくる嫌がらせのような日本の暑さとは異なり、この国の暑さは殺意を明確に表している。表通りに立つだけで汗が吹き出し、到着したばかりの頃は宿につくまでに死を覚悟するほどだった。

 私が居座る喫茶店の窓という窓は開けはなたれ、すこしでも外の空気を取り込もうとしているが、店内に流れてくるのは熱気ばかりだった。天井扇が空気を掻きまわすも、回すだけ無駄なようにも思える。

 アイスコーヒーを飲みながら、私は道行く喧噪を眺めている。店の客が私に向ける奇異な眼差しにも慣れた。現地に馴染むために熱いチャイに手をだしたこともあったが、結局は飲み慣れたものに落ち着いた。

 猥雑とした、だが調和すら感じる街並みを人々がひっきりなしに行き交う。人々が作り出す波の隙間を自動車が通りぬける。思い思いの鮮やか服装が町を彩り、全体が一枚の絵画のようにも見える。

 まるで馴染みのない言語が店の中を飛び交う。肌の色や目つきのそれが、まるで自分のそれとは異なり、私は異邦人であることを強く再確認する。

 私の待ち人もまた、異邦の人間であるはずだった。


「中村悠二郎」

 部屋に入った私を見るなり杉田管理官は破願した。歩み寄り握手を求めてくるので私も応じる。

「先月の事件、お手柄だったそうだな」

「いえ、それほどの事でもありません」

「まあ、立ち話もなんだ。座ってくれ」

 杉田管理官に促され、私は黒革の艶めくソファに腰を落とす。木製のテーブルの上にはすでに書類が並べられてあった。

「ソ連の学者が亡命を望んでいる」

 同じくソファに杉田管理官も腰かける。かつての野生動物にも似た眼光は鳴りを潜め、好々爺もかくやという風貌だった。先日孫が生まれたと聞いたが、それだけでこうも変わるものなのか。

「日本に、ですか」

「建前というやつだろうな。まあ、彼の最終的な望みはきっとアメリカだ」

 書類をぱらりと捲る。写真が挟んであった。モノクロの禿頭の男性は厳めしい顔で私を睨みつける。

「アレクサンドル・メドヴェージェフ。男性。年齢は四十二歳。生物学者だ」

「生物学者がなぜ。国に歯向かうようなことでも」

「詳しい事情は本人に聞け。成功の報酬に自身の財産と研究資料の一部を政府に提供してくれるそうだ」

「口座は凍結されるはずでは」

「海外に持っているんだろうさ。手段はいくらでもある」

 杉田管理官が胸ポケットから煙草を取り出す。パッケージから一本をこちらに滑らすが、断った。管理官は咥えた煙草に火を点けて、煙をくゆらせる。

「ルートは」

「ソ連を南下してインドから船でマレーシアに。そこで飛行機に乗り換えて台湾に向かう。そこまでくれば、もう安全だろう」

「とすると、彼との待ち合わせの場所は」

 杉田管理官は口に含んだ煙を宙に向かって吹きだす。

「インドだ」

 私の脳裏に浮かぶのは、日本人とはかけ離れた濃さの肌色と眉間の深い人々が雑踏を行き交う姿だった。頭にはターバンを巻き、額に赤い色の点を打っている。道路の端では牛が寝転がり、往来の隙間を見つけては自動車が牛よりも遅く歩を進める。

「あの国で欧米人は目立ちます。日本人も同じです。成功するとは思えません」

「さらにインドはソビエトと仲がいいときている。七十一年の戦争で、両国は東パキスタンを支援した仲だからな。公にはなっていないが、二年前インドが成功させた核実験もソ連の技術供与があったに違いない」

「微笑むブッダ」

「あれは核爆発ではない、核爆破だ、か。まったく屁理屈の上手な国だ」

「危険すぎます。ヨーロッパからアメリカに飛ぶべきかと」

 私の進言に杉田管理官の表情が締まったものになる。油断したつもりはなかったが、急に下がった部屋の温度に頬が張りつく。

「危険性についてはどちらも、さして変わりはない。すでに前金は受け取っている」

 私は内心、舌打ちをした。最初から拒否権などなかったのだ。

「ソ連側にも彼の亡命は筒抜けだろう。だが、連中が行動を起こした話は届いていない。学者一人が国を捨てたところで何の損害もないと考えているか、あるいはー」

「―我々を試しているか」

 私が継いだ言葉に杉田管理官は頷いた。

「先の大戦での敗戦国ごとき、恐れるに足らずと言ったところか。だが見くびって貰っては困ることを連中に教えなくてはな」

 杉田管理官は煙草を灰皿に擦り付け火を消した。私の指に自然と力が込められ、握りこぶしを形作る。

「インド当局に捕まれば、アレクサンドルは即刻、強制送還だ」

 書類を茶封筒にまとめると、杉田管理官は私によこす。

「君はムンバイで旅行者を装い、アレクサンドルを待て。現地で合流後、ムンバイからマレーシアを経由して台湾に渡り、日本に連れて帰ってくるんだ」


 喫茶店に二人組の男性が入って来た。背の丈は同じくらいだが、片方は丸々と肥え、もう一人はやや骨張っているほどだ。二人とも質素な白いシャツを着ていたが、かえって違いが分かりやすい。太っている方は私を見つけると、まっすぐにテーブルにきた。

 腹のでている方が店主にヒンディー語で話しかけた。店主は頷き、ガラス容器を取り出す。チャイを注いで私が座るテーブルに運ぶ。

 席に着いた二人の男性の態度は体つきと同じように正反対だった。太った男は余裕があるのか運ばれたチャイに手を伸ばし、熱さを気にもせず飲む。

 痩せ細った男は逆に、暗く思いつめたような表情で、じっとチャイの入ったガラスの容器に視線を落としている。

 私はそこで、痩躯の男性がインド人ではないことに気付いた。真っ黒に焼けた肌に、鼻下にはWの字のように白髪の混じった髭がたくわえられてある。身元をごまかすために被っているであろうターバンからは年季すら感じる。

「インドは広いな」

 男性は僅かに視線を上げ、私を見ながら呟く。

「あなたの国ほどではありません」私は苦笑する。

 アレクサンドル・メドヴェージェフが目の前に座っていた。私は予期せぬ来訪者に震えた。この国に来て、ようやく湧いた使命感に握りしめた掌に爪が食い込む。

「彼はうまくやったかね」

「さて。私には何とも言えません」

 九月、北海道の函館市にソ連空軍のパイロットが米国への亡命を求めて降り立った。現状、十分な連絡を取ることもままならない私が詳細を知ることはできないが、後から聞くには世間は彼の話題で持ちきりだったらしい。

「いったい幾ら支払ったのですか」

 私の質問にアレクサンドルは肩眉を上げた。

「目くらましになってくれることを祈るだけだ」

 インド人の男が美味しそうにチャイを啜る様子を見て、アレクサンドルはようやくカップを口につけた。一度、下ろすと角砂糖を加えスプーンでかき混ぜる。再び口もとに運び目を細めた。

「隣の男は」

「私の護衛兼通訳だ」アレクサンドルはこともなげに言ってチャイを飲んでいる。

 私は胸ポケットから煙草を取り出す。箱を見たインド人の男が微笑み、催促するので一本渡してやる。火を点けると旨そうに煙を吸い込んだ。

「吸いますか」

「いや、煙草は苦手だ」アレクサンドルは首を振った。

 自分の煙草に火を点ける。わざわざ日本から持ってきた甲斐のある味が、口の中いっぱいに広がった。

「明日以降の計画は」インド人の男が口を開く。アレクサンドルを見破れなかったせいで、自身の観察眼に疑いがかかる。

「早朝に、漁師のボートで沖合にでます。沖に停泊中の貨物船に乗り換え、マレーシアへ。途中フィリピンに食料と燃料補給のために立ち寄り、最終的には台湾を目指します」

「どれくらいになるのかね」

「三週間ほどでしょうか。長い航海になりますよ」

「陸路のほうが良かったかもしれないな」

「ヨーロッパを経由する方が危険だということは、あなたも承知しているはず」

「安全な経路を考えたのだが」

「残念ながら、現在の東南アジアで安全なところは極一部のみです」

「革命が飛び火したかな」インド人の男が会話に参加する。

「船の上も安全というわけではありません。いつ祖国からの刺客が来るか分かりませんから、常に警戒を」

 灰皿にたばこを擦りつけて、ポケットからメモを取り出す。必死になって覚えたヒンディー語とロシア語で宿の住所が書いてある。

「確保していた宿です。今晩はここに宿泊を」

 飲みかけのアイスコーヒーと二人を残して席を立つ。ひさしの下、店の外に出ると熱された空気が私に襲いかかった。暑さに咽ると店の入り口に座っていた男性が笑う。

 私もまた絵の具の一つになり、インドというカンバスに塗られていく。


 この国に滞在して二週間経つが、今ほどの地獄を味わったことはなかったと、部屋の壁にもたれかかりながら、朦朧とする意識の端で考えている。顔の表面に浮かんだ汗の粒は顎を伝って落ち床にシミを作る。暑さに苛まされ視線が泳ぎ始める。

 三階建ての安宿に私たちは宿泊していた。私が宿に帰って来た時、部屋唯一の空調設備だった天井扇が止まっていた。まさかと思う私をよそに宿の主人は「すまないね」の一言で片づけるだけだった。

 夜になっても、まったく下がらない気温に私は愕然とした。部屋に一つしかない窓のカーテンは微塵も揺れず、扉を閉めきっているせいもあって部屋に熱が籠る。

「サウナよりもひどいな」

 壁の向こう側には隣室で眠るアレクサンドルとインド人の男性がいるはずだった。北国生まれのアレクサンドルが、果たしてこの暑さに適応できているのか疑問に思う。さきほどから建物を揺さぶる、いびきの主はおそらくインド人の男だろう。

 襲撃を想定すれば眠りにつくことは避けるべきだが、この状況では横になってもベッドに汗が染みこむだけだ。

 机の引き出しに隠した拳銃と隣室に気を配りながら、暑さといびきの責め苦に合う意識をつなぎとめる。

 ふと、ベッド脇の照明がぼやけ、裸電球の輪郭が増えていることに気付く。頭が重く、傾いては慌てて持ち上げる。よもや睡魔が訪れたのかと意識すると、ますます頭が重くなってくる。

 急に視界が暗くなった。とうとう睡魔に耐えきれなくなった私の瞼が落ちたと思ったが違った。

 部屋の照明が落ちた。

 私の意識が現実に引き上げられる。隣の部屋から聞こえていたはずのいびきが消えていた。引き出しから拳銃を取り出し、廊下に出る。

 廊下も一様に暗い。馴れた出来事なのか、あるいは宿に泊まる客が少ないせいか、騒ぎらしい騒ぎも無い。

 アレクサンドルたちが眠る隣室の前に立つ。耳をそばだてると、くぐもった声が微かに届いた。

 勢いよく扉を蹴とばす。暗闇の中、黒ずくめの男が二人立っているのが分かる。相対してインド人の男が背後にアレクサンドルをかばいながら、拳銃を構えていた。

 部屋中の視線が私に向けられる。黒子たちの視線が逸れた隙を突いて、インド人の男が素早く侵入者の懐に潜り込む。体を預けるようにぶつけると、片割れがその場に崩れ落ちた。

 生き残った方がアレクサンドルに銃を向ける。私が引き金に指を掛けるよりも早く、インド人の男の手元が光って、ほとんど同時に銃声がする。

 弾丸を身に受けて黒ずくめの男が倒れ、二人分の死体が出来上がった。アレクサンドルはインド人の男の背後で青い顔をしている。さっきまで聞こえていた、いびきが無いせいか妙に静かに感じられた。

「祖国からの追手ですか」電灯に手を伸ばすが明かりが点かない。

「そのようだ」インド人の男が死体の胸元に刺さったナイフを引き抜いた。

 死体に近寄り拳銃を拾うとアレクサンドルに手渡す。嫌な顔を浮かべられたが、拒否されることはなかった。「移動しましょう」

「どこに」

「昼間、説明した漁師の小屋です。少々予定は早まりますが、そこで一晩、明かします」

 部屋から廊下の様子を伺う。人影は見当たらないが、発砲音が聞こえたのか、宿全体がどこか落ち着きがなくなっている。

「あんた、名前は」

「アヤンだ。あんたは」

「悠二郎だ。中村悠二郎」

 階下から乱暴な足音が響く。じきに私たちの居場所を突き止めるだろう。どこかで口論も起きているらしい。途切れ途切れに聞こえてくるのはロシア語とヒンディー語だ。安宿を選んだことに私は後悔し始めていた。

「こちらです」

 二人を先導し、宿に後付けされたらしき非常階段を目指す。宿に着いた初日に確認してはいたが、無いよりはマシといった程度の代物だった。

「裏口から出ます。急いで」

 廊下を駆け抜け三階の非常扉を押し開ける。宿に風が吹き込み、鉄パイプと鉄板を組み合わせただけの階段が現れる。眼下には月明かりに照らされて淡い青色の街並みが広がっていた。踏み外しただけで空に放りに投げ出されそうな階段を私たちは駆け足で降っていく。 


 アレクサンドルの意外な健脚ぶりと、腹の出た体つきで機敏に動くアヤンに感心していると、路地裏を抜けメインの通りに出た。昼間の喧噪は鳴り潜め、人はおろか道路に寝ていた牛すら姿を消していた。

「二人ともこっちだ」

 声の方に振り向けば、アヤンが民家の門扉の傍に立っていた。私たちが駆けつける間に、アヤンが門扉の錠を拳銃で撃ち抜く。アヤンが蹴とばした門扉の先に民家の中庭が覗いた。四人乗りの自動車が鎮座している。

「日本人、運転はできるのか」

「運転は出来るが、俺には悠二郎っていう名前がある」

「悪かったな、中村」

 車窓を割って車に乗り込んだアヤンが配線をいじり始める。引っ張り出したコードの束から火花が弾けると、車がひと際大きくエンジン音を上げた。無理やり起こされたことに怒っているようだ。

「出すぞ」

 助手席に滑り込んだアヤンに代わって運転席に着く。ギアを入れ替えてアクセルを踏み込むと、ぐんと体が引っ張られシートに押し付けられた。後部座席でアレクサンドルがうめき声を上げる。

 民家を出るところで庭にいた飼い犬が吠え、怒り狂った主人が飛び出してくる。車の屋根に何かが当たって乾いた音がした。

「来たぞ」アレクサンドルが声を上げた。

 燃費の悪そうな排気音が市街に響いたかと思うと、あっという間にサイドミラーに追手のフロントライトが映った。さらにアクセルペダルを踏み込み、大通りを飛ばしていく。窮屈そうに座っていたアヤンは拳銃を取り出し、残弾を確認している。

「どうする」後ろからアレクサンドルが急かす。

「遠回りで、隠れ家にむかいます」

 背後から射撃音が連続する。「サブマシンガンかよ、畜生」とアヤンが愚痴った。追手の放った弾丸のいくつかが車体に当たり音を立てる。

「博士、伏せてください」ハンドルを切りながら怒鳴ると、アレクサンドルは頭を抱えて座席の隙間に潜った。

 アヤンが車窓から身を乗り出し引き金を引く。撃ち尽くすと弾倉を取り換え、再び後方へと弾丸を放つ。追手も怯む気配がない。サブマシンガンの弾が自動車をかすめる。

「何台来ている」

「二台だ。駄目だな、拳銃じゃあ当たらん」席に戻ったアヤンが言うや否や銃声が連発し、リアの窓ガラスを割った。車内に欠片が飛び散る。

 アヤンは果敢にも撃ち続けるが、弾倉を消費していく一方のようだった。なおも車体には追手の放つ銃弾が当たり、その都度、私は首をすくめアレクサンドルが悲鳴をあげる。

「何か、あてはないのか」アレクサンドルが下方から叫んだ。

「ありません。逃げ続けるしか」

 銃弾がサイドミラーに当たって車体に跳ねた。思わず体を傾けるが、私の目はサイドミラーから離れなかった。建物を屋根伝いに跳ぶ何かが映っていた。月に照らされてはいたが、一瞬のことで正体がつかめない。

「今、何か飛んだぞ」追手が放った弾丸がサイドミラーを砕き、跳ねた破片が窓ガラスにぶつかって、ひびが走った。肘で叩くと粉々になって道路に散らばっていった。代わりに風が舞い込んで来る。

「ああ、なんだって。風でよく聞こえない」

 アヤンが器用に体を捩って助手席に戻って来た。「タマを撃ち尽くした」と助手席でふんぞり返る。

「だから、建物の屋上で何かがー」私は予備の弾倉を渡す。

 バックミラーに映し出されていた追手の乗る車が悲鳴のような金属音を上げ、押しつぶされた。潰された車体はスリップし歩道に乗り上げると、空に跳ね上がった。

 その車体から、さらに上空に何かが飛びあがった。私は振り返った。

 漆黒の塊が夜空にいた。

「おい、なんだ。あれは」

「前を見て運転しろ」アヤンが怒鳴った。

「おい、あれは」

 怪物が轟音と共に地面で跳ねたが減速することはない。むしろ勢いをそのままに前転すると体から生えている何本もの脚を素早く前後させ、私たちを追いかけてくる。

「嘘だろう。六十キロは出しているぞ」

 さらにスピード上げる私たちの背後から銃声が聞こえた。追手も諦めるつもりはないらしい。銃弾を体に受けた怪物が叫び、空気の振動が私の耳に襲いかかる。すぐにでも鼓膜の奥に指を突っ込みほどの声量だが、両手を離すことはできない。

 こちらからの銃声が途絶えていることに気付き、助手席を見ればアヤンがふんぞり返っていた。

「アヤン、撃て。化け物に追いつかれるぞ」

 エンジンは悲鳴を上げ、駆動系は不安な音を立てる。にも関わらず車内は沈黙していた。

 アヤンは拳銃を構えたまま、渋い顔で生き残った側のサイドミラーを睨む。アレクサンドルは座席の隙間に顔を埋めたままだ。

 焦りが募る私の目に、ハイウェイの入り口を示す標識が見えた。私はアクセペダルに苛立ちをぶつける。

「あと少しでハイウェイだ」

 背筋に噛みつくような金属のひしゃげた音にバックミラーを見れば、怪物が追手の自動車に乗るようにして押し潰していた。左右のピラーから血まみれの手が天に伸びていた。

 さらなる加速装置を手に入れた怪物が雄たけびをあげ、ミラーに映るその姿が目に見えて大きくなる。

「おい、不味いぞ。追いつかれる」アヤンが叫んだ。

「そう思うなら撃ってくれ」私は怒鳴る。

 漆黒の塊がより鮮明にミラーに映る。怪物が腕を伸ばす。「歯を食いしばれ」と叫んだ瞬間、背後から爆音とともに全身が軋むほどの衝撃を受け、私は顔をクラクションに叩きつけられた。

 顔を上げる。必死の形相でアヤンがハンドルを握っていた。額が疼き、頭を打ったらしいと認識する。ただ怪我がその程度で済んだのは速度が出ていなかったせいで、振り返らずとも怪物が車体にしがみついているのが分かる。

 腰に拳銃が挟みこんであることを確認し、私は瞬時に振り返り怪物に向かって銃を突きつけた。

 割れたリアウィンドウから怪物が身を乗り出し車内に入り込もうとしていた。

 ただ巨大な塊としか形容できない。不定形の怪物の体は黒く、そして振動で揺れている。軟体生物のそれか、あるいは原生生物のようにも見える。

 怪物が腕を伸ばす。その先に後部座席のピラーが見えた。私は引き金を引く。銃口を飛び出した銃弾が、怪物の伸ばした腕を弾き飛ばした。

 怪物が痛みに叫んだ。純粋な子供の叫びにノイズが被さって、私たちに襲いかかる。片耳を塞ぎながらも、もう一度、引き金を引こうとする。

 拳銃を握る私の指を、横から伸びた人間の腕が剥がしにかかる。アレクサンドルが必死の形相で私の妨害を試みていた。

「博士、何を」

「息子を撃たないでくれ」

「何を馬鹿なことを」

 口論する私たちをよそに、怪物の体表が波を打ち、黒い波面から真っ白な点が浮かび上がる。点は次第に大きくなり、三角形が表れた。人間の鼻だ。子供の大きさほどの鼻が怪物の体から浮かび上がり、さらに白い部分が広がっていく。

「お父さん」

 あどけなさの残る少年の顔だった。顔は陶器よりも白い。額に眉毛は無く、閉じられたままの瞼が開き、私の肌を伝う汗が止まった。眼窟は黒く凹み、口を開くたびに唇からは涎のように黒い液体が跳ね座席にかかる。

「アヤン、こいつを撃て」

「ハンドルを離せっていうのか」

「お父さん」

 少年の顔が近づいてきていると気付いたときには、すでに彼の上半身が露わになっていた。枯れ木よりも細い腕で、アレクサンドルに手を伸ばす。

「博士、撃ってください」

「無理だ」アレクサンドルが悲痛に叫ぶ。

「ちくしょう、アヤン、博士を抑えろ」

 拳銃を腰に戻しアヤンからハンドルを奪う。私の考えに気付いたらしいアヤンは博士に覆い被さった。ブレーキペダルに体重をかけハンドルを切った。素早くサイドブレーキを引くと、タイヤが叫び声を上げて横向きに車体が滑る。

 自動車が持っていた速度が重さになって私たちに降りかかり、車内に押し付ける。車体の後方が大きく横に振られ、自動車に張り付いていた怪物が怒号と共に道路に投げ出された。

 息も絶え絶えに後ろを見ると、道路に横たわっている怪物の姿があった。なおも身を震わせる怪物は腕を私たちに伸ばす。尻に落ち着かないものがいるようで、私はアクセルを再び踏み込む。

「生きていますか」

「なんとかな」

 アヤンが顔を上げる。俯いているがアレクサンドルの背中からは、何かくみ取るものがあった。

「あれはなんだ」とても現実のことには思えなかった。

「さあてな」助手席に戻って来たアヤンだったが、昼間以上のふてぶてしさを見せる。「煙草はねえか」

「あんたも博士も、喋るつもりはないんだな」アヤンの戯言は無視する。

「その通りだよ。中村」

 しばらく走らせるとハイウェイの入り口が見え、速度を上げた。月明かりと私たちが乗る車のフロントライトだけがハイウェイを照らす。割れた窓から入ってくる風のおかげで、暑苦しい思いをすることはなかった。


 磯の香りが割れた車窓から漂う。錆び付いた色とりどりのトタンの壁と、ぼろ布の垂れ幕で出来た漁師小屋が並ぶ。遠くに埠頭が見え、ボートが波面に揺れていた。

 どこからか拾われてきた骨のような木材に、括り付けられた電線と裸電球が点々と一帯を照らしているが人影はない。むしろ幽霊が出てくるのではないかと思うほどだが、むしろ私たちにはそちらの方が好都合だった。

 車を停めると二人が降りた。バックミラーには何も映っていない。さすがに怪物も巻いたようで、張り詰めっぱなしだった私の緊張もほどける。

 そそくさと降り立った二人に怪物の正体を尋ねるべきだが、簡単に答えてくれるとは思えなかった。車を降りて深呼吸すると、急に口元が寂しくなった。胸ポケットを探るが入っていたはずの煙草が見つからず、もう少し探るとズボンのポケットからライターだけが出てきた。

「おい、中村君」

 私を呼んだアレクサンドルが何かを投げてよこす。反射的にそれを掴む。シガレットケースだった。銀色に鈍く光るそれから、見た目以上の重さを感じる。

「西ドイツの煙草だ。隠れ家に着いたら吸うといい」

「今は駄目ですかね」

 アレクサンドルはしかめ面を浮かべる。「赤いラインが入ったものは吸わないでくれ」

 ケースを開けると色とりどりの煙草が並んでいた。見たことのない煙草ばかりだったが、ケースの端に馴染みのあるオレンジ色のフィルターを見つけ、咥える。「俺にもくれよ」とアヤンが催促してきた。

「どうぞ、火です」

 私の咥えた煙草に誰かが火を点けた。驚いて煙草を落としそうになる。真横に見知らぬ男がライターを持って立っていた。男は私を見たあと、すぐにアレクサンドルに視線を移すと心底嬉しそうに笑った。

「あなたが、メドヴェージェフ博士ですね」

 横に立つ男が口を開く。人の神経を逆なでする声音だ。男は緩やかに車を回りボンネットに両手をついた。「鬼ごっこは終わりですよ」

 ロシア語を話す男の撫でつけた金髪は夜であっても眩しく感じる。皺一つ見当たらないスーツに、土汚れの無い革靴を履きこなす姿は、まるでこの国に似つかわしくない。

 私は肩を動かさずに背部のベルトに手を回す。銃のグリップに指を回したところで、男が手の平を向けてきた。

「おおっと、余計なことはしない方が身のためだ、東洋のお友達。私が一人で君たちに近づくほど勇敢な男には見えないだろう。」

 男は両手の平を天に向けておどけた。声音だけでなく、態度までも人を小ばかにする。

「やめておいた方がいいな」アヤンが不貞腐れているのは、煙草をもらえなかったせいか。

「ラザール・クリュコフ」

 アレクサンドルの言葉に敵意のようなものはない。呼ばれた男が恭しく頭を垂れる。商人かあるいは官僚かといった風貌の男は、どうやらラザールというらしい。アレクサンドルの表情に変化はなく、私は呑気に煙草をふかしながら若干の違和感を覚えていた。

「銃を捨てろ」ラザールは言い放ち、私たちは各々持っていた拳銃を彼の足元に投げ捨てた。

「さあ、いこうか」ラザールは芝居がかった仕草で両手を上げた。

「どこへ」吸っていた煙草を捨て、踵ですり潰す。背後から恨めしい視線を感じるのは気のせいだ。

「船だよ。君が予約していたものさ。今はもう私のものだがね」

 ラザールが歩き出し、私たちも続く。だが、ほんの数歩進んだところでラザールが驚いた表情で私たちを見た。

「ああ、いや君は来なくていいぞ。インドのお友達」

 私とアレクサンドルは同時にアヤンを見た。アヤンもまた驚いている。

「初めから裏切られていたのか」アレクサンドルの顔が歪む。

「そうではありません、博士。実際、インドの彼は上手く立ち回っていました」

 ラザールはアヤンを見て感心したように頷く。どこまでが本心か分からない。

「誰だって知らない連中が自分の庭で好き勝手していたら、気分はよくないでしょう。だから友達を作るんです。友達には気を許しますから。だから彼には手をかけない。友達は大事にしなくてはいけません」

 ラザールの講義が終わるとアヤンは肩をすくめ、ふらふらと歩き出した。

「アヤン」

 シガレットケースから適当な煙草を取り出す。指で弾くと回転しながらも、アヤンの頭上に飛んでいく。アヤンは手を伸ばして煙草を取った。

「報酬だ。大事に吸え」

 アヤンは眉を下げ、にやりと笑った。ラザールとはまた違った芝居がかった表情の変化は嫌いになれない。アヤンはどこか不安を覚える足取りで、漁師小屋を曲がって姿を消した。

「素晴らしい、これも人間関係の構築、あなたとアヤン氏はもう友達だ」

 ラザールは私の顔を見て微笑む。今にも握手を求めてきそうな雰囲気すらある。

「まあ、さっきも言った通り、よくやった方だよ、君たちは。だが資本主義は非情だ。高い金を支払う相手に簡単に鞍替えする。今回、この国に来てよく分かったー」

 ラザールの後について歩き出す。しばらくすると桟橋と共に、波面に揺れているボートが見えた。黒い目出し帽をかぶった男たちがボートに腰かけていた。

「―私は祖国に誇りを持っている。だが、そう遠くないうちに崩壊するだろう、そう思えて仕方ないよ」

 ラザール、アレクサンドルが先にボートに乗り込む。黒ずくめの男に促され私も続く。

「さあ、祖国に帰りましょう。博士」

 ボートはエンジン音を吹かして夜の海に突き進む。やがて靄に隠れて停泊していた貨物船の影が見えてきた。

「まるで幽霊船だな」

 アレクサンドルがぽつりと呟いた。


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