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ダーク・イーター  作者: loveclock
解明編
8/19

瓦解


「大井川先生」

 感情の無い声だった。大井川次郎は読んでいた本から顔を上げた。暖かさの感じられない青い色の目が、まばたきなく大井川を見つめる。仄暗く、だがどこか温かみすら感じる機内にあってもケイトの周りだけは気温が低い。

 アメリカから日本への直行便だった。大井川は母国への帰路についていた。

 大井川はケイトを見つめ返す。研究者兼通訳として、数年ほどの付き合いだったが彼女の容姿は常に同じだった。優雅な金髪は耳の上まで短く、そしてよく似合っていた。

 以前、武田耀司がメールで彼女について述べていたことを思い出す。「大井川先生と共にいたあの女性は、秘密裏に導入された新型のアンドロイドではないでしょうか。おそらく、うなじのあたりに電源のスイッチがあるはずです」

 研究室から与えられた一軒家で大井川は笑い、翌日、それとなくケイトの首筋を見ていたが、やはりというべきかスイッチの類の物は見当たらなかった。大井川の様子に勘付いたらしいケイトは、その日から、さらに感情を失ったように見えた。

「少し席を離れます」

 エコノミー席の窓側の三列の席に並んで座っていた。通路側をケイトが座り、必然的に大井川の行動は限られたものであった。

 ケイトは機械仕掛けにも似た所作で立ち上がり、機内を後方に歩を進めていった。踵の鋭いヒールをこともなげに履きこなすが、大井川から見ても異様な角度の足先に、別の靴を履かないのかという旨の質問をしたことがあるが、にべもなかった。

 アンドロイドであるならば通訳が達者であることや、感情というものが見当たらないのも納得できるなと思いながら、大井川は本をたたみ鞄のなかにしまった。

「おや」

 ぼんやりしていると座席間の通路に、さっと気配がする。眼鏡を掛けなおし、よく見れば少年が走り回っていた。アメリカからの直行フライト、大人にとっても堪えるのだから子供にはなおさらだろう。

 少年と目が合う。大井川が笑顔をむけると、少年は照れくさそうにうつむく。小さく手を振ると少年も振り返し、短い足を交互に前に出して大井川の席に近寄って来た。

「元気だね」

 数年間、実地で学んだ英語は日常会話くらいなら問題はない具合にはなっていた。

「ずっと寝ていたから、今は眠くないの」

 少年が覗かせた歯並びはまちまちで見た目から想像するに、まだ乳歯も生え変わっている途中の年齢なのだろう。「僕の名前はマイケル」

「私の名前は大井川次郎だよ」

「おじいさんは二ホン人なの」

「そうだよ。アメリカで研究していたんだ」そうか、もう老人に見える年かと内心、苦笑いを浮かべる。若いままでいるのは気持ちだけか。

「何の研究をしていたの」

「古い生き物の研究だよ。わかるかな」

 マイケルが首を横に振った。「古いってどれくらい」

「恐竜が生きていた時代の研究をしていてね」

「恐竜の研究をしていたの」

 マイケルの目が輝く。大井川が見知らぬ子供たちに研究の話をすると、皆似た表情で期待を膨らませ、そして研究内容を知ると興味を失い飽きて、そっぽをむかれるというのがお約束だった。

「残念ながら、そういうわけではないんだ」

 聞いた少年が落胆する。その態度の変化があっけらかんとしたもので、逆に微笑ましい。

 むくむくと、もたげてきた欲求は顕示欲か、未来ある若人への指導欲求ともいうべきものか。そこまで考えて、ただのお節介だなと自己嫌悪の感が染みてくる。

 通路に立つマイケルの伏し目な瞳から、謝罪と恐れを感じる。聡い子だとも思う。大井川はケイトが座っていた席をぽんぽんと叩いた。「いいの」と少年がおずおずと問いかけ、大井川は笑顔で答える。

 戻って来たケイトも事情を説明すれば腹をたてることはないだろう。少年が座席に飛び乗り、準備万端という表情で大井川を見上げる。

「僕が、研究していたのはー」


「ケイト・フィッシャー博士、ですね」

 通路に男性が立っていた。背は高くフランネルシャツの上からでも、筋肉の隆起が分かる。意図的に小さいサイズの服を着ているのか、あるいは合うサイズが無いのか。綺麗に剃ってある髭と、寸分に整えてある眉に笑顔が相乗する。

「ええ、そうですが。何か」

 ケイトは個室トイレに入ろうとしていた。まさかこのタイミングで声をかける大人がいるのかとケイトは憤り、やや声が上ずっていた。その人間的な態度が冷静な反応を鈍らせた。

 男はケイトの脇をするりと抜けると背後に立つ。素早く首と肩に両手を回し、羽交い絞めにする。気道を潰され声を上げられずにケイトは個室の中に引き込まれた。引き込む間にも、男は個室トイレの扉に足をかけ閉める。

 男は腕を組み替えると片方の手でケイトの口元を抑え込む。硬く乾燥した男の掌は空間に固定されたように動かない。ケイトは鼻息荒く男の拘束に抗うが、男の太い腕は縄のように喉を締め上げ、息をすることもままならない。

 男はケイトの首を絞めたまま、もう片方の手でポケットからボールペンを取り出した。先端が個室内の照明に照らされて、剣の切っ先のように光って見える。

 男は取り出したボールペンを握りなおす。握ったボールペンを静かにケイトのこめかみにあてがい、肌にバツ印を書いた。軌道を維持したまま頭蓋から静かにボールペンを離していく。

 ケイトは必死にもがく。頭を振って睨むが男の目からは何の感情もくみ取れない。まるで作業の一つでしかないような目線をケイトの側頭部に落とす。ケイトの目尻に涙と汗が混じって頬を伝う。

 男がふっと息を吐き全身の力を抜いた。ケイトは目をつぶった。男はボールペンを持った手を素早く引く。風切り音と共に、ケイトのこめかみにボールペンが突き刺さる。

 ケイトは目を見開く。痛みによる叫びは男の腕にふさぎ込まれる。誰かの耳に届くことはなく意識とともに途絶えた。

 男はケイトの頭に突き刺さったボールペンを今一度、握りなおすと奥深くまで念入りに捻じ込んだ。脈を取りケイトが死んだことを確認すると、死体を抱きかかえ便座の横に座らせた。

 男は外に出ると振り返り、新たに取り出したボールペンでドアにある在室表示を滑らせる。赤い文字で使用中と表れると、男はようやく満足げに頷いた。

 席に戻ろうとしたところで、近くの席に座るご婦人と目が合った。驚いた表情を浮かべたが、男が持ち前の笑顔を向けると、ご婦人は見惚れ慌てて雑誌に目を落とした。

 立ち去った男の背後で個室トイレの鍵が中から開けられたことには、気づいていなかった。


「お飲み物をお持ちしましょうか」

 マイケルに講義を始めかけた大井川が顔を上げれば、添乗員が通路に立っていた。長めの黒髪を後頭部で束ねている。ややきつい印象を受けたが、添乗員の化粧は意図的に濃くしてあると聞いたことがあった。

「ええと、私には水をー」大井川は言ってマイケルを見る。

「―僕はオレンジジュース」

 少年の、今にも飛びあがらんばかりの元気さに添乗員は笑顔を作り去っていく。二人して見送ったあと、大井川は少年に向き直った。

「私は変形菌の研究をしていたんだ」

「なあにそれ。ばい菌のこと」

「いや。ばい菌とは違うよ。姿がね、キノコに似ている生き物のことだよ」

「僕、キノコ嫌い。苦くて美味しくないから残すんだけど、いつもお母さんに怒られるんだ」

「そうだね。僕も君くらいの頃は苦手だったなあ」

「どうして、そんなことを研究しているの」

「僕の生まれた町は田舎でね。周りを山に囲まれていたんだ。遊び場なんて大層なものはない時代だったから、裏山が私の遊場だった。そうしているうちに自然と変形菌に惹かれていってね」

 通路の向こうから添乗員が戻って来た。お盆の上にコップが二つ見える。マイケルが椅子の上に立って小躍りをはじめた。様子を見かけた添乗員の笑くぼが、ますます深くなったように思える。

 添乗員はテーブルの上に飲み物を置いて去っていく。少年が手を伸ばす。コップが傾きオレンジ色の液体が見えると、大井川の喉を鳴らした。

 若干の後悔を抱えながらも、大井川は自身のテーブルに配られた紙コップに手を伸ばす。コップの底が透明な液体で揺れて見えた。

「大井川先生」

 呼び止められ大井川はコップを持つ手を止めた。通路にケイトが立っていた。

 少年と老人に冷たいまなざしを向けるが、相変わらずの鉄仮面にほころびが見え、声色に感情が見え隠れする。少し息が上がっているせいだろうか。

「ごめんなさい。この席、お姉さんの席だったの」

「大丈夫よ。気にしてないわ」

 抑揚が無いせいで、はたして本心なのか疑問がよぎるが事情を説明する必要はないように思えた。

「申し訳ないのだけど、大井川先生とお話があるから、私に席を譲ってくれるかしら」

 ケイトの申し出にマイケルは大井川を一度見るも、ケイトの要望に頷いて返した。ぴょんと跳ねるように席を降り通路に立った。

「先生、あとでたくさん教えてね」

 少年は笑顔を残し、機内の前方に走っていった。途中、先ほどの添乗員とすれ違い言葉を交わし手を振って通路を曲がると姿を消した。

「大井川先生、その紙コップは」

「ああ、水だよ。添乗員さんが持ってきてくれたんだ」

「失礼します」

 ケイトは大井川が持っていた紙コップに手を伸ばすと、鼻を近づけた。僅かに鼻の穴が動き、ケイトの人間的な動きに大井川には新鮮な感動が湧いていた。

「飲みましたか」

「いいや。口をつけようとしたところで、君が話しかけてきたから」

 いやに迫力のあるケイトの視線は、あの添乗員に注がれている。僅かに眉間にしわをよせ、徐々に握力が増しているのか紙コップは今にも握りつぶされそうだ。

「フィッシャー君、コップが」

 ケイトがはっとして力を抜く。席に着くと自分の席のテーブルに変形しかかったコップを置いた。

「こめかみにバツ印が書いてあるけど」

 バツ印の中心に黒子のようなものが見える。大井川は自身のこめかみを突いて教えるが、ケイトの耳には届いていないらしい。

「大井川先生。そのまま聞いてください」

 ケイトの語調に鬼気迫るものがある。大井川は思わず唾を飲んだ。大井川にはケイトが次に発する言葉が分かってしまっていた。

「先生の命は狙らわれています」


「兄貴」

 席に戻ったフランネルシャツの男が目を開けると、通路にパーカーを着た男が立っていた。やや不快な気持ちにさせられたが、唯一の肉親であろうと表情にはおくびにも出さないと決めていた。

「どうした。お前の方はもう終わらせたのか」

「いや、まだだ。」

「そうか、まあ急ぐこともないだろう。時間はまだある。機内で終わらせれば、金額を倍にしてくれるだけの話だ」

「兄貴はもう終わらせたんだよな」

「そうだ」

 弟は考え込む。その態度が腑に落ちない兄が口を開く。

「どうした。何か問題でも」

「あんたの目で確かめるといいさ」

 自分の席に戻って行く弟の後ろ姿に、兄の腹の底に何かがいつく。立ち上がって、女を殺したトイレに向かった。脈を取り殺したことを確認した。今までに何度も繰り返してきた行為だ。磨き上げた特技に勝る者はいないと自負すらしている。

 兄はトイレの前に立つ。ついさっきまで浮かべていた男の退屈そうな表情は、すでに綻び始めていた。トイレの在室表示には黒く英語で空きと表れている。

 そっとドアノブを押す。中にあったはずの死体は消えていた。誰かが外から開けた可能性を考えるも、見回した機内に目立った変化はない。

 男は歯ぎしりをした。切り替えなくてはならない。自分の中に油断があったことにし、再び感情を心の底に落とす。

 ふと、目線が誰かにぶつかった。見覚えがあり思い返せば、先ほどのご婦人だった。彼女は男に気付くと微笑み、男は沈みかけた感情を引き上げご婦人に近づいた。

「失礼、奥様。質問しても」

「あら、やだ。奥様なんて。どうぞ、なんでも聞いて頂戴」

「あのトイレから誰か出てきましたか」男は言って指し示す。

「ええと、そうねぇ。出てきたかどうかはっきりしないけど、あのトイレの近くで金色の髪が綺麗な背の高い女性は見たわよ。もしかしたら、その人かも」半ば興奮していたのか彼女は早口だった。

「お知り合いなのかしら」ご婦人の首をかしげる仕草にあざとさを覚えつつも、男は嫌いになれずにいる。掌にじんわりと手汗がにじむ。

「ええ。仕事の関係で」

「素敵ね。わたしも主人とはお仕事で出会ったの」

 ご婦人の微笑みに男も笑顔で答え、その場を離れた。対象が生きているのならもう一度殺すだけだ。振り返った男の瞳からは光が消え、指先は冷たく乾燥していた。


 あの女の視線がいつまでも背中に突き刺さるようだ。

 オレンジジュースを頼んだ少年とすれ違いざま笑顔を交わしたジェシカは、早足で調理室に入ると仕切りのカーテンを素早く引いた。

「ジェシー、どうかしたの」

 同僚のカミラが驚いてジェシカを見た。彼女の手には酒瓶が見え、調理台には薄茶色の液体が注がれた小さなグラスがあった。

「ううん。なんでもない。ちょっと疲れてるだけ」ジェシカは持っていたお盆を棚に戻した。

「そう。ねえ日本に着いたら、気晴らしに出かけましょう」

 カミラの顔がぱっと明るくなった。ジェシカもつられた様に笑顔を張り付ける。

「そうね。それがいいわ」

 カミラがグラスを持って調理室のカーテンを引くと、フランネルシャツを着た男が表れた。添乗員の二人から見ても大柄だが威圧感はなく、むしろどこか中身のない容器のような風貌だ。

「失礼」

 男の謝罪にカミラは恭しく頭を下げ、すぐに笑顔をむけるが、男は動かない。銅像のような男はどうやら、ぶつかりかけたことを謝罪しているわけではないらしい。

「いかがなさいましたか」

 カミラが笑顔で対応する後ろで、ジェシカは自分のポーチを取り出した。

「飲み物をくれないか。冷たければも何でもいい」

「炭酸水の用意がございますが」

「ありがとう」

 片手にグラスを持つカミラの代わりに、調理台に半開きのポーチを残したまま、ジェシカは冷蔵庫からペットボトルを取り出す。

 突然、轟音と共に三人の体が大きく揺さぶられた。乱気流に飛行機がぶつかったせいで、眠っていた乗客には不快かもしれないが、退屈していたあの少年にはちょっとしたサプライズだったかもしれない。

 ジェシカと、そしてフランネルシャツの男にとっても、それは同じことだった。

 ペットボトルを受け取り損ねた男の目に映ったのは、乱気流の衝撃で彼女のポーチからこぼれ落ちた注射器と、白い何かで満たされた小瓶だった。

 男はとっさに床に落ちたペットボトルを掴みジェシカにむかって構えた。それは長年、男がこの業界で生き延びたことによる経験が無意識にさせたことだった。

 ジェシカは注射器を拾い上げ、男の太股に針を向ける。それが彼女の失敗だった。経験の浅いジェシカが勝てる道理はなかった。

 フランネルシャツの男は右足を下げジェシカの攻撃をかわす。左足を軸にそのままコマのように体を回転させると、ジェシカのあばらに右足の踵を叩きつけた。乾いたものが割れる感触が足を伝った。

 吹き飛ばされたジェシカは調理台に激しく体を打ちつけ、その余波で台上のスナック菓子がまき散らされた。破裂した袋からこぼれたポテトチップスが、倒れたジェシカに降りかかる。

 肩で息をしていた男は後ろに振り向く。へたり込んだカミラは慄いた様子で両手を口に当てて立っている。グラスは転がり、布製の床を濡らしていた。

 カミラの叫びは穏やかな心地に包まれていた機内の空気を貫く。


「動くな」

 カミラの背後にベージュ色のジャケットを着た男が立っていた。突き出すように構えた両手には鼠色の筒が見えた。

「航空保安官のレビンだ。今しがたの行為は機内の安全を脅かすものと判断し、機の着陸までお前を拘束する」

 誰も言葉を発せずにいた。機内中の目線がフランネルシャツの男に注がれている。

 男が被っていた仮面にひびが入り、割れた個所から乗客の注目が流れ込む。ようやく失せかけた感情が再燃し、フランネルシャツの男の心の裡を占める。こんなに人の注目を集めたのはいつ以来だろうか。

「膝を床について、手を頭の上で組むんだ。」

 保安官はフランネルシャツの男に歩み寄る。途中、怯えきったカミラの肩に手を当てると、彼女は口を結んで立ち上がり機の前方に走っていった。

「動くなよ」保安官は銃口をむけたまま、ベルトから手錠を取り出した。

 男は腰を落とし両手を掲げる。男の目線は、次第に距離を詰める保安官の靴だけを捉えていた。ふつふつと煮え滾る男の感情は、保安官が間合いに足を踏み入れた瞬間、爆発し男を動かすための燃料になった。

 男は片手をついて頭を低くすると、素早く保安官の懐に潜り込む。大柄な体格がまるで鞭のようにしなった。胸ポケットからボールペンを取り出すと、踏み込んだ足の膝を伸ばし保安官の顎の下、最も皮の薄い部分にひと息に捻じ込む。

 保安官が血を噴いた。顎を伝った血が男の髪にかかる。血の量が増していき、男は体を引いた。

 離れていく男を不思議そうに保安官は見ていたが、口から溢れる血に驚き慌てて両手で抑えるが、あっという間に服が赤くに染まっていく。すぐに痛みに顔を歪め、血まみれの手で顎に刺さった痛みの原因を引き抜くと、男を睨んだ。

「お前ぇ」

 保安官は血とつばの混ざった恨みを吐き捨て、その場に崩れ落ちた。

 瞬時に乗客の叫び声が響き渡る。だが男の耳には入らない。かつてない高揚感が男を包み込む。注目を集めるのも悪くはないと、生まれて初めて感じていた。


 乗客たちの目の前で、保安官は糸の切れた人形のように床に崩れた。あの倒れ方は生きてはいないと思わせるものだった。およそ数秒の間の出来事とは信じられず大井川は前の席の背もたれを握りしめていた。

「機の後方に向かいましょう。まだ空席があったはずです」

 こんな状況下であってもケイトの目はまっすぐに大井川を捉える。感情の無い寂しさすら覚える青い目が今は頼もしく映った。

 ケイトが先だって通路に立ち、フランネルシャツの男の様子を伺う。大井川に頭を低くするようにジェスチャーをする。大井川は背もたれから頭を出さないように座席を立った。

 その背中を見ていた者がいたことに大井川たちは気付いていなかった。


 恐怖と諦観が安堵に代わって機内を満たしていく。ざわめく機内をフランネルシャツの男が「騒ぐな」と一喝する。男は保安官の死体から拳銃を奪うと、誰ともなく突きつけた。

「大井川とケイト・フィッシャーを出せ」

 燃え上がる暴君の前に乗客たちは固まる。息を吐くことすら許されない物々しさがある。

「大井川とフィッシャーを差し出せば、お前らに危害を加えることはしない」

「我々はテロリストとは交渉しない」

 乗客の一人が果敢にも立ち上がり、発砲音と共にその体が後方に大きく仰け反った。女性の切り裂くような悲鳴が上がり、また発砲音がして悲鳴が消えた。

「他にも撃たれたい奴はいるか。さあ、早く探してくるんだ」

 フランネルシャツの男の一呼吸ごとに全身を巡る血潮が、彼の脈拍をさらに加速させる。かつてない高揚感が彼を支配する。

「そのオオイガワという男はどこの席だ」おずおずと誰かが言った。

 フランネルシャツの男が大井川とケイトの座席番号を読み上げる。前後席の乗客が確認するが、すでに空席になっていた。

「二人はどこに」

「探して来い」フランネルシャツの男は空になった二人の席の傍に立っていた。

「待って」

 あどけなく、だが使命感の帯びた声が一帯の耳に届く。

 あの少年が席に立っていた。体が小さいせいで、席に立っても頭だけが背もたれから覗く。

「僕、大井川先生を知っているよ」

「マイケルだめよ」隣席に座る母親が少年の腕を引く。今にも泣きそうな顔だ。

「あの人は悪い人じゃないよ」

 少年の声は震えている。肩肘をいきむように張り両手を固く握りしめる。必死に見える顔つきは自分を奮い立たせているからだろうか。

「だが要求に従わないと、私たちが殺されてしまうんだ」

「大井川先生は何も悪いことをしていないよ。どうして、そんなことをするの」

 フランネルシャツの男と少年の視線がぶつかる。少年は根を張ったように座席の上に立つ。男は瞬き一つもせずに下ろしていた腕を上げた。鼠色の筒の口が少年に向けられた。

 男の持つ銃を見た母親が覆い被さるようにして、少年を抱きしめた。母親の目尻に一筋の滴が流れ、少年の耳元で母親が小さく口を動かした。

 銃声がした。

 惨劇から目を閉じていた乗客の再び開いた視界の先に映ったのは、少年を誰よりも強く抱きしめた母親の姿だった。だが彼女の体にはまだ、意思が確実に残っていた。

 フランネルシャツの男は銅像のように固まっていた。男の指は引き金にかけられたままだった。硝煙の臭いも薬きょうが転がる音もなかった。

 男の顔は機の後方に向かれている。背中からあふれ出す狂気と共に、重い足音を響かせると、男は機の後方部に消えていった。

 乗客は深く息を吐きだす。すぐに誰かが「手当を」と叫び、撃たれた二人の治療を始めた。フランネルシャツの男の後を追うべきだという発言も聞こえる。

 少年は何が起きたのかは理解できないようだったが、彼の小さな手は母親を離すまいと服を掴んでいた。ほんのりと間接照明が照らし、宗教画のような雰囲気を作りあげる。

 繰り返し少年を撫でる母親の掌は震えていた。少年は生まれて初めて罪悪を小さな体に感じた。「ごめんなさい、お母さん」と口からこぼれた。

 ふと母親の掌が離れた。見上げると母親の不安そうな顔が目に入る。

「もう二度と、あんな真似はしないで」

 母親は少年の頭に頬を押し付ける。母親の暖かさは少年に安堵を与えてくれる。少年は母親がすすり泣きしていることに気付いた。

「ねえ、坊や」

 少年は顔を上げた。さきほどの添乗員が傍で腰を落としていた。右の脇腹のあたりを抑えながらも、彼女も不安そうな顔をしていた。

「私も大井川次郎さんが心配なの。どうにかして助けて上げられないかな」

 母親は固く息子を抱きしめる。だが少年の心の裡は揺れ動いていた。母親への罪悪か、わずかな時間を共にした友人を助けるべきか。ジェシカの言葉は分銅となって彼の天秤を傾かせた。小さな体にはすでに勇気が宿っていた。

 少年は母親の耳元で呟いた。母親の緩んだ気の隙をついて少年は母の腕を抜け椅子から飛び降りる。小さな体は友人を助けるためにジェシカを連れ立って機の後方部に走っていった。


 大井川の前を行くケイトの身のこなしは明らかに、ただの学者ではないと思わせるものだった。時折見せる学者離れした動きに、研究所の職員にケイトの経歴を尋ねたことがあったが、知らないか口をつぐむ者だけだった。

 ケイトは機の最後尾にたどり着くと、空いていた席に大井川を促した。この辺りの乗客は怪しい挙動でやってきた大井川たちに興味を示すことも無く、呑気にも新聞に目を落としているか、あるいは眠っているかだった。

「席から離れないでください。これだけ乗客が他にいれば、気付かれず人を殺すことは難しいはずです」

「いくらでも方法はあるとは思うけどね」

「先生、冗談でも笑えません」

 冗談を言っても笑わないだろうと大井川は苦笑した。乗客すべてが大井川の命を狙う暗殺者であることも考えられる。狂乱したフランネルシャツの男から逃れるために機の後方まで逃げてきたが、それも徒労に終わる可能性もあった。

 冗談を言う余裕があったのは、自分の命が狙われているというケイトの言う事実から現実味を感じられなかったかもしれない。

「まるで映画みたいだね。大統領が飛行機で戦うあれ」

「考古学者で医者の彼ですか」

「あと探偵もやっていたよ」

 周囲の様子を伺っていたケイトが大井川を見た。相変わらずの無表情だが、どことなく呆れているような面持ちがある。

「緊張すると口が回るんだ」

 ケイトは大井川の発言を無視する。一切のくだらない発言をシャットアウトしたケイトには話しかけづらく、誰かが新聞を捲る音が聞こえるほどに機内は静まりかえっている。

「私が殺されて当然の人間だと君は思わないのか」

 再び沈黙する。また無視されたかなと大井川が窓の外に視線を向けると、ケイトは静かに返した。「いえ」

「私が日本に帰ることになった理由は知っているんだろう」

「ええ、知っています」

「だったら、君が私をここまで守り通す義務はないはずだ。私は君たちを裏切ったのだから」

 暗い研究室に煌々と輝くパソコンの画面を前にして、大井川は頭を抱えていた。躊躇い顔をあげると反射したガラスに幽鬼が映る。一瞬、息が止まり、それが自分の顔だと分かると、大井川は目を閉じ震える指でエンターキーを叩いた。

 数秒後、送信完了の文字が表れ大井川は深く溜息をついた。

「もし、審問会での職員たちの発言が無ければ、博士は刑務所の中で震えていたはずです。そしてそれは一生涯、続いていたでしょう」

 口にすべき言葉が見つからない。大井川は悟られないように目頭を抑えた。

「あなたが今ここにいるのは研究所の職員が皆、敬意を表していたからです」

 頬が紅潮しケイトの口元が緩む。だが目頭を押さえた大井川には見えなかった。

「それに私もー」

 ケイトが言いかける。大井川が目尻に浮かんだものを拭きとろうとしたところで、銃声が二発、それぞれの耳に届いた。呑気していた乗客が席から立ちあがり機の前方を伺っている。

「今の音は」

「あの男、でしょうね」

「何かできることは」

 隣席で楽しそうにオレンジジュースを待った少年の姿が思い出され、途端に大井川の両腕が震えだす。

「自身の命を守ることです」

 ケイトの声音に別の色が表れる。大きく見開かれた青い目が見ている景色は果たして同じものかと、大井川は宝石のような彼女の目に吸い寄せられる。


 違和感を覚えたのはすぐのことだった。

 大井川の座る席の前列が意識したときには埋まっていた。三つの坊主頭が横並びになっている。他にもちらほらと空席は目立つ。単に暗殺者の存在が気にかかっているせいか。

 ぷしゅっと音がした。それが何回か続く。

「先生」

 ケイトが絞り出すように声を出し、大井川は横に視線を滑らす。

 ケイトの腹部が赤く染まっていた。つぼみが花開くように血が広がっていく。一センチにも満たない穴がケイトの服に穴を開けていた。

 前列に座る三つの坊主頭は変わらず前を向いていた。さっきと違うのは彼らの座席の背もたれにも、いくつか穴が開いていたことだった。

 暗殺者だ。大井川の腹の底が冷える。ケイトの浅い息遣いが耳に届く。「すまない、フィッシャー君」大井川は歯を食いしばった。

 死を覚悟した大井川の目の前が光って空気が破裂した。一番端の坊主頭が果実よりも派手に弾け、次に真ん中の坊主頭の側頭部から血が噴き出し、最後の坊主頭が青と白の風景が広がる窓に血液をぶちまけ叩きつけられた。

「意外と貫通するもんだな」

 パーカーを着た男が拳銃を持って立っていた。硝煙が大井川の鼻を突く。

「あんたが大井川次郎だな。それでケイト・フィッシャー、は死にそうだな」

 周囲から視線を感じる。先ほどまで呑気な空気は完全に消え失せ、銃声に気付いた乗客が悲鳴を上げて逃げていく。機の前と後ろで銃声が響き、最悪のフライトになってしまったと乗客は慄くだろう。

「兄貴が余計なことをしたせいで、飛行機はパニックだ。それもこれも、あんたがちゃんと死ななかったせいだぜ、ケイト・フィッシャーさん」

「死ななかった」

 思わず大井川はケイトを見る。こめかみに描かれたバツ印に視線がむく。

 浅い呼吸を繰り返すケイトに、パーカーの男は、にやけ面で拳銃をケイトの額に突きつける。「おいしいところはしっかりもらっていくよ」男が引き金に指をかける。

 ケイトが自身にむけられた拳銃を掴んだ。彼女の青い目から放たれた激昂が、パーカーの男を射貫く。一瞬の躊躇いが男の遅れを生んだ。引き金を引くよりも早く、銃身が聞きなれない音を上げて握りつぶされていく。

「化け物かよ」拳銃を捨て、後ろに跳んだ男が構える。

 すかさずケイトが距離を詰める。長い脚をパーカーの男目がけて振り回した。座席をかすめた脚は、ハイヒールと相まって鎌のように男の首を刈らんと襲いかかる。

 パーカーの男は踊るようにかわす。やがて傍目にもケイトの疲労が分かり、肩で息をし始めた。腹部を抑え始め、脚を上げるのも辛そうにする。

「俺を殺したところで、あんたらを狙っている連中はまだいる。諦めたらどうだ」

 ケイトが逆上したように闇雲に足を振り回す。大井川の目に映るケイト・フィッシャーはよく知る彼女ではなかった。理性を捨てた怪物そのものだった。

 パーカーの男ははしゃぐ。華麗にステップを踏んではケイトの蹴りをかわし、背もたれの上を曲芸師のように跳ね、機内を所せましに飛び回る。

「フィッシャー君、落ち着くんだ」大井川の忠告も彼女の耳には遠い。

 二回、銃声がした。

 ケイトが肩を抑えて、その場に崩れ落ちた。体から血液と混ざり合って黒い液体が流れ出る。傷口から出た黒い液体は生きているかのようにケイトの肩に空いた穴を塞いでいく。

「フィッシャー君」

「大丈夫です、先生。私は死にません。死ぬわけにはいかないんです」ケイトは目で大井川を制した。

 通路にフランネルシャツの男が立っていた。手元には拳銃が見える。

「よお、兄貴」

 パーカーの弟が気さくに近づく。手の届く位置に入ると兄の拳銃に手を伸ばした。

 兄は弟の腕を弾くと、自ら間合いを詰め肘から腕を回す。弟は前腕で兄のフックを受け止めると、兄の顎を狙った。兄は体を傾ける。そのまま弟の脇腹に拳を突き刺したが、感触は軽い。弟は口角を持ち上げて後ろに跳んだ。

「乗客の勇気ある行動によってテロリストは退治されました。しかし悲しいことに犠牲になった方もいます。我々は彼らを忘れてはいけません。彼らの思いを胸にテロリストと闘い続けるのです」

「口が過ぎるのが、お前の欠点だな」

 兄が拳銃を突きつける。発砲音がして、兄の体がねじれて座席に跳んだ。男の持っていた拳銃がケイトの足元に転がる。

 拳銃を構える添乗員と共にあの少年が通路に現れた。ジェシカは脇腹に手を当て苦しさと怒りの混じった表情で殺し屋たちを睨む。マイケルは今にも泣きだしそうだ。

「マイケル」大井川が叫ぶ。

「先生、ごめんなさい。僕、あなたを助けたくて。この人なら助けてくれるとー」

「いいんだ。マイケル。君が誤ることはない」

「大井川次郎」

 ジェシカの言葉は冷たい。マイケルの頭に銃をつけたまま、ポケットから注射器を取り出して大井川の元に投げた。注射器は白く満たされている。

「それを、自分の腕に刺しなさい」

 大井川は通路に転がる注射器をじっと見つめる。顔を上げると、マイケルが泣いていた。注射器を拾い震える手で袖をまくると、針先を皮膚に触れさせた。

「先生、やめてください」

 手を止める。ケイトがまっすぐに大井川を見ていた。

「ジジイ、早くしろ。このガキを殺すぞ」ジェシカが怒鳴った。

 怒り狂う彼女の背後に誰かが立っていた。頭上に巨大な旅行鞄が見える。後ろに立つ影が荷物の自重に任せるがごとく振り下ろし、激しい音と共にジェシカが倒れる。

「マイケル、逃げるわよ」仁王立ちでジェシカを見下ろすのはマイケルの母親だった。彼女はマイケルの手を引くと走り出した。

「待てよ、糞ババア」

 ジェシカが親子に銃を構えるが、それよりも早くケイトは拳銃を拾って彼女の体を撃ち抜いた。

 ケイトは「フランネルシャツの男が持っていたものです」とこともなげに言った。痛みに顔を歪めるものの出血は止まっているようだった。

「フィッシャー君、やはり君は」

 大井川の視線の先にはケイトの肩があった。彼女の傷口から出てきた黒い液体は肩周りを覆って硬く変化していた。

「あの子を守るためです」

 直後、ケイトの体が吹き飛ばされた。持っていた拳銃が壁に当たって座席に隠れる。

 フランネルシャツの男が片腕を掲げて立っていた。ジェシカに撃たれた胸部から血を流してはいるが、まるで気に留めていない。息は荒く獣そのもののようだ。

「俺は確かにボールペンでお前を殺した」

 男は仰向けに転がるケイトの襟首を持ち上げると首を絞める。視線はケイトの側頭部にむいていた。「殺しても死なないなら、別の方法を試すだけだ」

「やめろ」大井川が怒号と共に男にぶつかるが、男の身震いだけで大井川は振り払われ、座席に叩きつけられる。眩む意識を必死につなぎとめると、兄の傍にパーカーの弟がいた。

「悪いな、兄貴」

 パーカーの弟の手には注射器があった。フランネルシャツの兄はケイトを放り投げ、素早く拳を繰り出す。弟はそれを躱し、太ももに突き刺さそうと腰を落とす。兄は足を振り上げ弟の持つ注射器を蹴り飛ばした。

 弟は体勢を崩し、体を反転させ、ケイトが失った拳銃を兄にむける。

「まずはあんたに死んでもらうよ。じゃないと俺が殺されそうだからな」

 銃声が二発して、その弟が血を噴いた。何が起きたのか分からない様子で胸を触る。手の平が真っ赤に濡れる。

 背後にジェシカが拳銃を構えていた。銃口から硝煙が上がっていた。

「あんたらも道連れだよ。一緒に死ね」

 怒りに口を動かすジェシカから血液が溢れる。ジェシカは拳銃を構えたまま席にもたれかかり、ずるりと落ちて動かなくなった。

「待ってくれ兄貴。頼む、助けてくれ」言って弟は兄に拳銃をむける。

 兄は片手で拳銃を弾くと、両手で弟の頭蓋を鷲掴みにし捩じった。弟はごとりと音を立て通路に転がった。

 大井川の足元に注射器が転がっていた。フランネルシャツの男は肩を抑えて背を向けている。大井川にまで気が回っていないようだった。

 大井川は注射器を掴む。体が震えるが、やらねばならない。

「先生、駄目です」

 ケイトが叫んだ。

 フランネルシャツの男が振り向く。注射器を構えた老人がすぐそこに迫っていた。兄はステップを踏み距離を取ると、弟の遺した拳銃を拾い大井川を撃った。

 大井川の体に穴が開く。そのままよろめき席にもたれかかった。

「先生」

 ケイトは男に背を向け走り出す。フランネルシャツの男はケイトの背中に銃弾を浴びせるが、ケイトは弾丸に体を揺らしながらも大井川に駆け寄る。

「先生。ごめんなさい。本当に」ケイトは大井川の胸を抑える。だが抑えた隙間から血が流れ、大井川の服を濡らしていく。

「いいんだ、フィッシャー君。私は危うく人を殺すところだったよ」

 口を震わせるケイトの涙が、微笑む大井川の額にぶつかって跳ねる。触れる大井川の鼓動が弱くなっていくのが分かってしまう。

 ケイトの体に空いた穴から黒い液体が混ざって血が流れる。黒い液体は大井川の体を覆っていく。

「やはり、君はあの変形菌を体内に入れていたんだね」

 ケイトは頷く。とめどなく溢れ出る涙が大井川の頬を濡らしていく。

「そうか。実験しない科学者はいないものな」

 微笑む大井川の瞳孔が開いた。ケイトの手を握った大井川から静かに意思が抜けていく。

「先生。私も同罪です。研究所の成果を横流ししていたんです」

 もう動くことのない大井川にケイトはとうとうと語りかける。

「私の中にはガンがいました。そう長くは生きられないと告げられ、藁をもすがる気持ちで私は研究データを渡し、そして彼を受け入れたんです」

 ケイトの体が下半身から黒く変化していく。人の体の輪郭が溶け始める。

「私のガンは消えました。私の中にはもう一人の私がいます」

 やがてケイトの体は完全に融解し黒い粘度の高い液体へと変化した。

「さようなら」

 ほんの数秒前までケイトだった黒い液体は、まとまって黒く蠢く塊になった。彼女は大井川の遺体を自身の体に包みこむ。

 塊から丸太のような腕がいくつも伸び、蜘蛛が巣を張るように機内のあらゆる物体に触れる。触れられた個所から黒ずんでいき、それらもまた溶け彼女の一部になっていく。あらゆるものを飲みこみ、爆発的に質量を増していく。やがて機内の後方部は彼女の体になった。

 機体が傾いているのはすぐにわかった。速度も落ちている。フランネルシャツの男は拳銃を構えたまま後ずさりをする。途中、自らが殺めた弟の死体につまずき、ジェシカの遺体を踏み越えた。飛行機を侵食する彼女は死体すら飲みこみ質量を増していく。

 兄は彼女に発砲するが、意味をなさない。銃声がただ虚しい。「無駄だったか」

 フランネルシャツの男は拳銃を捨て立ちつくす。彼女の伸びた黒い腕が、男の体を二つに分けた。中身をまき散らし男は投げ捨てられた。

 彼女の重さに耐えられなくなった飛行機は半分に分裂した。半分になった男の眼下には千葉県の沖合が見えていた。


 十月の空は曇天だった。外房の浜辺には寒風が吹き、だが辺りには天幕が立ち並び風を遮っている。着いた当初はマフラーを忘れたことを後悔したが、すぐにどうでもよくなった。陽光も満足に得られない海は、曇り空を映したように深い灰色をしている。

 私の目の前には巨大な筒状の鉄塊がその頭を砂浜に突っ込んでいた。先頭は楕円に円錐状で、飛行機には詳しくないが、空気抵抗を抑えているのだと想像がつく。

「見事なものだな」

 機体の後方部分は海中に沈んだらしい。少し背伸びをすれば、輪切りになった機内の様子が伺える。主翼とジェットエンジンだけで、よく着陸まで持ち込めたものだとパイロットに自然と敬意が湧いてくる。

 すれ違う自衛隊員の表情は、それほどまで暗くはない。死者は少なく、着陸の衝撃で怪我を負った者はいたが命に別状はないらしい。彼らは救助され天幕で休んでいた。

「中村管理官」

 振り返ると桜井が立っていた。

「自衛隊の救助者の収容はほぼ完了しました。現在重傷者を周辺の医療施設に、軽症の者は近隣の宿泊施設にむけて搬送中です」

「分かった」

「それと、鈴村さんが管理官を呼んでいます」

「鈴村が」

 桜井について天幕に入ると、角ばった体に定規で計ったように四角い顔の髭面が目に入った。真面目と言う文字が人間の体を与えられたようだ。

「中村管理官」鈴村はタブレットを持っていた。

「身元照会者のリストか」

「ええ」「それで」

「奇跡ですね。あるいはパイロットの腕が素晴らしいか。死者は数名でましたが規模を考えれれば、十分な責務を果たしたでしょう。遺体を発見できなかったのはごく少数です。乗客十数名と、添乗員一名」

「添乗員」

「はい。おそらく乗客の誘導中に巻き込まれたのではないかと」

「立派な職業人だ。だが、そのために呼んだわけではないだろう」

「気になる名前が一つ。アメリカの研究室で働いていた者です」

「名前は」

「大井川次郎」

 私はタブレットを鈴村からひったくった。航空会社の乗客リストには英語で大井川の名前があった。

「別人の可能性は」

「ありません。間違いなく本人です」

「遺体は」

「見つかっていません」

 苦虫をかみつぶすとはこういう気持ちのことをいうのだろう。奪ったタブレットを鈴村に押し付け、私は天幕を飛び出す。

「管理官。どちらへ」桜井が慌ててついてくる。

「大井川次郎の家だ。急ぐぞ、車を出せ」

 桜井は勝手が分からないようだった。当然だろうと思う。私も気持ちの整理がついていない。

「管理官」

 天幕から血相を変えて鈴村が出てくる。無線機を持っていた。

「海岸に妙なものが漂着していると」

 焦りを抑え鈴村の後ろについていく。しばらく浜辺を行くと人だかりができており、私は鈴村を置いて早足になる。集団は私たちに気付くと左右に分かれた。

 波打ち際に黒い繭があった。綺麗な卵の形をしている。人一人分は入れるほどに大きい。

 胸ポケットから手袋を取り出す。そっと触れると繭がほどけ始めた。繊維状に霧散していき、風に舞っていく。

 中から老人が表れた。眠るようにしているが、傍目に呼吸が無いことが分かる。

「彼の名前は分かるか」

 隊員の一人がタブレットの画面を滑らす。

「大井川、次郎です。大きいの大に、井戸の井、三本線の川、次ぎの次、太郎の郎です」

 うなだれたい気持ちに襲われるが態度に出しては部下の士気にかかわる。私は口を結ぶと、仮面を被りなおした。

「鈴村、大井川次郎には近親者はいるか」

「両親はすでに他界しています。待ってください―弟が出身地で警察官をしています」

「急ぎ、弟に連絡を取れ。だがこちらの素性は知らせるな。兄が飛行機事故でなくなったことと研究内容について聞くんだ。それと、桜井」

「はい」

「マスコミには、事故を探らせるな。飛行機は事故にあい海中に水没。生存者の可能性は皆無とだけ発表しろ」

「ですが、救助者たちは」

「ほとぼりが冷めるまで、こっちで面倒を見る。心配するなそう長くはならん。それと検疫検査を絶対に忘れるな。二度は言わんぞ」

 鈴村と桜井は了解し、天幕に帰っていく。「すまないが、二人にしてくれないか」と言うと、周囲にいた人だかりも離れていく。

「もっと早く、あなたのことを知っていれば。こんな形でお会いすることになって残念です」

 穏やかな眠りについている大井川にコートを被せる。どこからか吹き付ける寒風が私をなでる。ここには何の障害物もない。私はマフラーを忘れたことを後悔した。

 

 


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